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アンのように 2 かつての栄光

小説を書いています。

かけがえのない日本の片隅から 

第1、2章はこちらから→「ひまわりのような人」・・「コスモスのように

第3章 アンのように その2

堀田恵子の 舅 正一郎は妻を亡くして23回忌を迎えようとしていた。

最近になってしげく墓参をするので 息子である堀田紘一郎は

「なんだよ、父さん そんなに墓参りしてると母さんが呼びにくるからやめた方がいいよ。」

などと真剣に心配しているようだった。

恵子は

「そんな風にお父さんを冷やかしてはだめよ。」 と 夫を嗜めていたが、当の本人はあまり気にしているようでもなかった。

三田紀子がいた時の方がなぜか活気があったように思えるのは恵子の僻みか?とも思ったが
実際、この頃の正一郎は年をとった。

日々読書やテレビでクイズ番組を見ることが好きで、孫たちが一緒だとその知識の深さに感心されるのを喜ぶ素直な面が見えたりもした。

日中はラジオを良く聞き、経済ニュースでは株価の変動にも気をつけていたようだ。

ここのところ 注目されているのは 日本の翼であったJ社がどうやら破綻するようだ、というニュースで、正一郎は大きく心を揺さぶられていたのだ。

息子紘一郎に 

「お父さん、J社の株は早く手放しておかないといけませんよ。どうも会社更生法の処置をとられるようですよ。」

など示唆されても

「いや、あの日本の翼がそんなことには絶対にならないし、そうあってはいけないのだよ。父さんは出張の度にあの飛行機に癒されていたのだよ。」

と、言う言葉が返ってきていた。

正一郎は小さな商社でアジア圏の国々を飛び回っていた時代があった。

かなり地理的に奥地に入ったりして、様々な取り引きを行ってきたという自負があった。

第二次大戦では終戦間際に派兵されて そのままシベリア抑留を短期間ではあったが余儀なくされたという経験の持ち主で、あまり威張ったりはしなかったが、不屈の精神を持ち続けていることを恵子もしっかりと感じていた。

その父が戦後友人が起こした会社に入社してその片腕になって、外回りをした時の唯一の楽しみが航空機での移動だったという。

当時の飛行機はまことに贅沢な特別な乗り物だったのだ。

どんな僻地からでも とにかく タイやシンガポールという中継地に戻り、そこからは日本の飛行機で帰れるという喜びを糧にしていたのだ。

つづく

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これまでの作品はこちらから「アンのように生きるインドにて」

小夏庵もよろしく!

by akageno-ann | 2010-01-19 19:39 | 小説 | Trackback | Comments(2)

Commented by crystal_sky3 at 2010-01-19 23:46
annさん、こんばんは♪
J社は私の憧れでもありました。
今思えば、十数年前会社を辞め、単身アメリカにやってきたときも
J社を使ったものです。
機内で日本語を聞くと、たとえアメリカ上空であっても、既に里に
戻った気持ちになれますからね~♪
Commented by akageno-ann at 2010-01-20 08:30
クリスタルさん さっそくの感想に感謝しています。
海外に出る時のJ社の存在は本当に大きかったですね・・
特に単身ですと身にしみましたね!
きっとまたそういう気持ちを引き継いでいってほしいと願っています。
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