アンのように生きる・・・(老育)

akagenoann.exblog.jp

かけがえのない日本の片隅からの発信をライフワークとして、今は老いていくにも楽しい時間を作り出すことを考えています。

ブログトップ | ログイン

<   2008年 01月 ( 31 )   > この月の画像一覧

Viva シンガポール

c0155326_1555497.jpg日本から七時間ほどのフライトでシンガポールチャンギ国際空港に到着。
インドのデリーの空港からは5時間ほどでつく。
しかしこの国々の状況の違いはなんであろう・・単に気候の違いだけと簡単には説明できないものがある。
空港から海沿いをタクシーで走ると、南国のリゾート地のようにみえるが、あっという間に国際都市のようなビルディングが林立する街中に入る、東京の世田谷区とも、瀬戸内海に浮かぶ淡路島とも、その国土面積を比べられるほどの小さな国だ。

しかし、民族は中国人、マレー人、インド人、アラブ人、そして日本を含む多くの先進国の企業、銀行、産業が入り込んでいるために、日本人学校の生徒数は千人単位を数える。

だから、それはもう日本の教育そのものがここでは行われていると、聞く。

偶然美沙は中学校の先輩女教師が1年前からここに一人で赴任していたので、彼女と連絡をとった。


早期流産の翌日のことである。

再び訪れたGクリニックではR医師が

「大丈夫心配はいらないから、ゆっくりここで静養して帰りなさい。」

と、にこやかに言ってくれたので、美沙も心に少しだけ傷は残ったものの、妊娠をまったく気付いていなかった自分の不注意も反省して、今回のことをあまり人に言わないようにしようと、夫の翔一郎にもまたしんぱいしてくれた平田夫妻にも頼んでいた。

翔一郎はその美沙の立ち直りを喜んで、さっそく寿司よし田に誘っている。

「美沙、すごくおいしくて、今日は幾ら食べてもいいぞ・・君への慰労だよ。」

などとはしゃいでさえいる。

「先輩とそのあと一緒に会ってくれる?」

「いいよ、ここでどんな暮らしか僕も知りたいから。」

と、いうことで食後にホテルのロビーで待ち合わせをした。

よし田の寿司は、少し弱った美沙の体に必要なエネルギーを順調に送り込んだようで、
楽しげに食べる彼女に店の主人がサービスに魚のあらの味噌汁をご馳走してくれた。

「まあ・・なんだか泣けてきちゃうわ。このお出汁の味は日本でもそうはいただけないですね。
ご主人、このネタはどこのですか?」

「よく聞いてくれましたね、これは築地からの直送なんですよ。大丈夫ですよここはフリーポートそんなに高くないんです。安心して食べてくださいね。ご主人は昨日も来てくださって、あんまりおいしそうに食べるんで嬉しかったですよ。インドは大変なところなんですね。」

いつもは美沙は・・そんな風に聞かれたら、「それほどでも・・」と、つい前向き志向を押し通す癖があるが、今日は素直だった。

「えぇ、生のお魚が食べられないって最悪ですよね。」

「そうですか、それじゃ、ここでゆっくりいろんなもの食べて行ってくださいね。」

「でも、こちらに半年に一度でもこれるなら、インド赴任も悪くないのだって思えます。」

と、いう美沙の笑顔はキラキラと美しかった。

ここでの払いは2万円ほどだった。

日本の銀座辺りの有名すし店だったらもっと高いのではないか・・と思われるほど二人は食べた。


帰りがけに店の主人は二人にこう声をかけた。

「朝は8時からこの見習いのシンガポール人の板前が、和定食を出してます。650円です。
彼らの勉強の場ですから、どうぞいらしてください。」

店の主人は美沙たちがとても気に入ったようであった。
美沙たちももちろん喜んで、快諾していた。



まだ2日目のシンガポールだが、二人は町の雰囲気にすっかり馴染んでいる。

土地が狭いせいもあるが、この利便性は日本以上だった。
気をつけて歩いてはもちろんいるが、タクシーも安全で高値をふっかけるようなこともない。
おそらくインドに半年住んだ彼らも単なる旅人ではないことがわかるのかもしれなかった。

ホテルに戻って少し休むと約束の8時になったので、美沙は再びロビーに一人で降りていった。

先ずは先輩高子と二人だけで再会することにしていた。

しかし、驚いたことに高子には連れがいた。男のアジア人だと一目でわかった。

「しばらくね、片山さん。」

「先輩、わざわざありがとうございます。嬉しいわ。」
と、傍らの男に目をやって会釈した。

「こちらね、友人のKさん、ホテルマンなの。」

彼はすぐに美沙の手をとって、慇懃に挨拶した。

「ご主人は?」
そう高子が尋ねるので、美沙はすぐに待機させていた翔一郎を呼んだ。

翔一郎はすぐにロビーに下りてきて、四人の会話が始まった。

 つづく
by akageno-ann | 2008-01-31 17:29 | 小説

寿司

美沙がベッドに倒れこんだまま目を閉じてしまうと、翔一郎は途方にくれてしまった。
こういう時の男の立場はまことに弱い。

美沙の心と体はどれほどか傷ついているであろうに、翔一郎はその時まだ何の実感もわかず、その痛みの幾分かでも背負ってやりたいのに、ただ、寿司屋を予約してあることだけを
「どうしようか?」と、気をもんでいる自分に腹をたてていた。

ちょうどその時、部屋の呼び鈴がなった。
翔一郎が出ると、平田よう子が立っていた。

「夕飯どうします?」

翔一郎はその言葉に救われていた。

「実は美沙が具合が悪くて・・・・」

よう子は「おや?」と興味深げに入ってきた。

「美沙さん、どうしたの?風邪?」

美沙はやおら起き上がって、ことの事情を説明した。

よう子はびっくりしたが、すぐに

「美沙さん、大丈夫よ。私も同じ経験があるの。だってうちは10年目にやっとできた子よ明子(めいこ)は」

美沙は、その言葉に気持ちを開いたようであった。

「美沙さん、今夜は私たちと食事しましょうよ。
ねえ、片山先生、うちの主人とどこかで飲んでいらっしゃいよ。今日は別行動にしよう。
女同士この部屋でゆっくり食事するから。今ね、実はデパートの食品売り場でいろいろ買ってきたの。お惣菜。美沙さん、食べた方がいいわ・・美味しいわよ。」

翔一郎は拝むような気持ちで

「よう子さん、すみません。お願いします。こういう時、男は役立たずですね・・」

そう言ってそっと部屋を出て行った。

「困ってらしたわね、片山先生。もうじきまた明子をおきに主人が来るでしょう。何も言わなくても
大丈夫。男同士でたまにはゆっくり飲ませてあげよう。シンガポールはそんな風に私を解放してくれたわ。美沙さん、しょうがないことよ。ここできちんと診てもらえてよかったわね。」

立て続けに話すよう子に美沙は感謝した。

心はずっと軽くなってきている。

間もなく、平田文雄はデパートで買ったという和食の惣菜を持って、明子を連れてやってきた。

「美沙さん、片山先生から聞きました。どうか体を休めてください。僕たちは出かけてきます。遅くはならないよ。」

と、最後の言葉をよう子に投げかける平田はいつもの誠実な夫だった。

翔一郎は「言ってくる」とだけ美沙に告げて、二人の男は部屋を出て行った。

よう子の広げてくれた和食は、酢の物、高野豆腐の煮物、天麩羅、刺身、それにご飯と、懐かしい日本の食卓を再現したような見事な惣菜だった。

美沙はとにかく今日は甘えようと、出されたものを美味しくご馳走になった。

こういうところでの、日本人同士の友情に感謝する思いだった。


一方、片山、平田の両氏は片山が予約していた寿司処よし田へ向かっていた。

「へい!いらっしゃい・・お待ちしてました。どうぞ」

カウンターは ほぼ埋まっていて、奥の二席が予約として取られていた。

「遅くなってすいません。家内が体調を崩して、しかし今日は友人とお世話になります。」

「奥さん大丈夫ですか?お疲れですかね。さてお二人はお酒は何にしましょう。」

深くはかかわらず、持て成してくれることが有難かった。

何年ぶりに・・いや、たった半年ぶりの日本酒と握り寿司。
二人の男は言葉少なにむさぼり食べた。

隣はサウジアラビアから来たという商社マンだったが、彼らもまたひたすら食べていた。

翔一郎はこの滞在中に必ず美沙をここへ連れてこよう、と思った。

きっと傷ついた気持ちがこの日本の握り寿司で少しは癒されることを確信した。

デリーに連れてきたことで、初めて妻につらい思いをさせてしまったことをひしひしと感じてその夜の翔一郎は酔えなかった。

c0155326_21265113.jpg
小さなマーライオンの夜景
つづく
by akageno-ann | 2008-01-30 21:26 | 小説 | Comments(10)

困惑

夕刻、といっても日は高く5時になっても明るいシンガポールであった。

ホテルの部屋の呼び鈴が鳴って、翔一郎はベッドから起き出してドアを開けた。
そこには憔悴しきった美沙が立っていた。

帰るのが遅いことを夢の中でなじろうと思ってまどろみ続けていた彼も

「どうしたんだ?何かあったのか?」

と、思わず詰問した。

そのまま部屋のベッドに倒れこんで、美沙は横になった。

「なんだかな、流産したみたいなのよ。」

のんびり漂っていた空気が、一瞬にしてぴんと糸を張ったように変化するのを
翔一郎は感じていた。

「なんで?」

「美容院でカットしていたら、お腹が痛くて、その後トイレで少し出血をみたの。」

そう言いながら、美沙は少し涙ぐんだ。

そういえば美沙は月のものがなくなり、二ヶ月過ごしていたが、気温の高いデリーという場所ではそのくらいの変化はナイーブな女の体には良く、起こることだと、片付けていた。

子供はもちろんほしかったが、この環境の変化に慣れるまでは、とそのつもりでいなかったのだが、考えてみると体調もバランスが崩れていて、しっかり管理ができていなかったのだ。

シンガポールで気が緩んで、美沙はろくに休ます、あちこち歩き回り、ここのビル内の強いエアコンで体は冷え切ってしまったのだろう。

その変化にはっとして、翌日行く予定にしていた日本人に人気のGクリニックに急いで行ってみた。

幸い中国人だが日本の国立病院の外科医をやっていたというR先生の計らいで緊急に産婦人科を予約してもらい、そのままタクシーで指定された病院へむかった。
エコーを通してもらって、早期流産であることがわかった。

英語で少し聞いても美沙にはよく理解できなくて、その様子を感じ取ったその婦人科医は英文の詳しい手紙をR医師に書き、持たせてくれた。

再びGクリニックにもどってR医師に説明を受けた。

「う~~ん、残念だが、流産ですね。まだ6週間にも満たない自然流産だから心配はいりません。ここで少しはゆっくりできるのでしょう。処置はしてくれているし、薬も出すから美味しいものをしっかり食べてデリーへ帰りなさい。

三ヶ月はゆっくりしてからまた次のチャンスを待ちなさい。
きっと過酷な気候に順応できず、受精卵も正常ではなかったと思うから、これは仕方がないことと思いなさいね。」

そのやさしい言葉かけに、美沙は泣きそうになったが、秘めた気性の強さはしっかりとその言葉を受けとめ

「先生ありがとうございました。ラッキーでしたね。ここでこうなって・・」

と、一生懸命礼を言っていたのだ。

日本人の看護士さんが

「大丈夫若いからすぐできますよ。またお子さんは。」

と肩を叩いてくれた。

ぐっと気持ちをこらえて美沙はさらにこう問うた。

「先生、デリーで赤ちゃん産めますか?」

「うん、産めるが、一度こういう経験をした貴方はやはり日本に帰った方がいい。赤ちゃんも、母体も日本の方が日本人にあった医療が受けられるでしょう。だから計画的にお子さんを持つようにしなさい。」

その言葉を深く心に留めて、

「ホテル住まいなら大丈夫だからタクシーで帰ってゆっくり過ごし、明日また来なさい。」

と、言われてGクリニックを辞した。

タクシーはそのビルの目の前に止まっていて、親切な医師は病院から出てきたばかりの美沙を
静かにホテルへ送ってくれたのだ。


 つづく
by akageno-ann | 2008-01-29 17:52 | 小説 | Comments(11)

人間の性(さが)

c0155326_2275078.jpg


まったく人という生き物は環境への順応性という点では誠に強くできているようである。

それが、楽な方に流れるとあっという間にその空気に馴染んでしまえるらしい。

その逆はほんの少しの差にも脳は敏感に反応することを美沙と翔一郎は自ら体得していた。

この二人の新婚旅行はシンガポールであった。

翔一郎にとっては飛行機も初めての経験で、まだ若かった二人は当時空港からシンガポールエアラインに乗り込んだときから、その雰囲気にエキゾティックなムードに気圧されていた日のことを思い出していた。

シンガポールでは8組くらいのこのツアー客を現地案内人が巧みな日本語で世話をしてくれて、ホテルのチェックインまでやってもらったことなどを・・・

日本系ではなく、新婚旅行向けのお洒落なグッド ウッド パーク ホテルに投宿し、その素敵なホテルの雰囲気に感動しつつ、一つ一つの行動を案内人に聞きながらおずおずの旅した日のことを・・・

道を歩いていると「だんな、にせもの時計あるよ。」など声かけられて、美沙が怖がった日の事を・・・

だが、それから数年でインドに半年暮らしただけのこの二人はまったく変化していた。

彼らにとって、今インドから改めて健康管理休暇でやってきたその国、シンガポールは

日本に帰ってきたような場所だった。

林立するビルの中には日本系のデパートがいくつかあり、食品部には日本食材が普通の値段で売られている。

この差をどう表現できるだろう?

インドには日本料理の店が皆無であった。「櫻」「赤坂」「銀座」など名前はあっても中身は怪しい中国料理。

そこから飛行機でたった5時間ほどのこのフリーポートはどうしたことか?
その周辺の各国の料理が完全な形で再現されていた。

その上、一部にはイギリス領だったなごりのハイティというお茶の習慣も残っていた。

美沙たちの新婚旅行で訪れたときに、セントーサ島の戦争記念館で、太平洋戦争時に日本軍が占領した時期もあり、日本の心象の悪い
『山下・パーシバル会談』の図が人形で表されていたが、
その解説をよんでいると、一緒にいたイギリス人観光客に日本人かどうか、尋ねられた経験があったことを思い出した。

そんなこと思い出したら、今回は観光などせずに、日本に里帰りしたように過ごそうと決めていた。

与えられた時間はあっという間に過ぎてしまうのだ。

美沙は翔一郎とは別行動して、久しぶりに美容院へも行くことにした。
ここには日本の有名美容室の支店もあった。


そして三度の食事は一食も欠かすことなく和食を中心に店を選んで過ごした。

翔一郎は、フラフラ散策しているときに、あるショッピングセンターの地下に、小さなすし屋をみつけた。

小あがりもない、カウンター8席だけのこの店、寿司処吉田。

若い主人がシンガポーリアンの青年を3人ほど使って切り盛りする本格的なすし屋だった。

昼間は気軽なランチもしていて、翔一郎は、その暖簾をくぐって覗いてみた。

「へい、いらっしゃい!」威勢の良い挨拶が嬉しかった。

翔一郎は夕刻に二人の席を予約して、ホテルにもどり、仮眠。

彼はこの喧騒に少し疲れを感じた。

美沙は買い物に出たまま、なかなか戻らなかったのだ。


つづく
by akageno-ann | 2008-01-28 21:44 | 小説 | Comments(10)

水を得た魚のように

土佐弁でしゃべりだすと、それは元気を取り戻した怜子を見て、美沙は高知というところは少しこのデリーに似ているところがあるように感じていた。

夫翔一郎の故郷である高知は結婚報告で初めて行ったところだたが、酒宴が賑やかで、初めての客を歓迎し、皆でああでもない、こうでもないと世話を焼く。

気取っているより、ざっくばらんな人柄を好み、素直で可愛らしかった美沙は最初「東京のお嬢さん」と敬遠されたが、何度か高知を訪れているうちに、すっかり土佐弁も真似するようになってから、随分打ち解けてきたようであった。

インドに赴任する際に挨拶に二人で帰郷すると、みなが、
「美沙ちゃんはえらい、そんな遠いところで、どんなところかもわからんところへついて行くなんて」

「仕事をやめていくなんて・・・・」

と、随分と慰め、励ましてくれた。
高知、かつての土佐の国は・・太平洋に面していることや、かつてジョン万次郎や、坂本龍馬や、吉田茂や世界とかかわった偉人を輩出していること、ブラジルへの移民の多いことなどが県民の誇りとなっているようにも思え、県外や海外に出て行くことに対して前向きな気持ちでいる人が、比較的多かったのだ。

日本の都会の暮らしは、この頃では隣近所の付き合いも閉鎖的になりつつあるという中で、インドの都会のデリーでは、新しくやってきた外国人である美沙たちを、ああしたら、こうしたらと世話を焼くのを楽しんでいる風潮があったのだ。

この国は、特にデリーは、イギリス統治時代に培った英語での会話力が浸透していることも、ある意味で国際的に生きていける力を持ちあわせたように思えた。

怜子の家のサーバントのファトマは世話をすると大変喜んで「サンキュー」を連発するこの家のメンサーブの友人を大歓迎してした。

自分のメンサーブ(女主人)の怜子が明るく元気でいてくれることは、サーバントたちの真の幸せにつながった。

ファトマはここで怜子が元気に生活してくれることを援けることにやり甲斐を見出していた。怜子はメンサーブとして、実にきっぱりとしたわかりやすい性格で、なんともいえぬお茶目な素顔に知らず惹かれていたようだった。

時を同じくして、美沙たち新人三家族は、シンガポールへ出発した。

飛行機は同じシンガポールエアラインを利用して三家族はカシミールのときと同じように出かけたが、山下家は少し他の二家族と距離を置きたいらしく、日系でないホテルを予約し、チャンギ国際空港で別れた。

デリーへ着任して半年、こうしてそれぞれが自立していくのは喜ばしいことであるのだ。

一方平田家と片山家はこれまでの日本人教員家族と同様に、日系の有名ホテルに投宿して、その階下にある、日本のデパートの食品部でさっそくの買い物を始めた。

その前にふた家族は早朝のシンガポール到着に10時まではそれぞれ部屋で休むことにし、ホテルのレストランで遅い朝食の約束をして別れた。

飛行機で眠ることのできた美沙は、夫の翔一郎がベッドに倒れこんですぐさま鼾をかいて眠りに落ちたのをみて、自分は良くそうにふんだんに出る蛇口の湯を、満足げに眺めなながら入れて、幸せに浸っていた。

デリーの湯沸かし器は小さかったために、細い蛇口からショボショボと出る湯がたまる時間の長さや、少し色のついた感じの湯は今そこでみている透明度の高い白湯とは違っていた。

思えば半年振りの日本の風呂なのだと、そしてそのことがこんなに嬉しいことなのか、と一人でニヤニヤしてしまうのだった。

広くて大理石調の浴槽に体を伸ばして、日本の温泉に出向いた時の感触を深く味わっていた。

「でも、デリーもそう悪いところではない・・・・」

そうつぶやく美沙は、自分のことが可笑しかった。


 つづく
by akageno-ann | 2008-01-27 22:40 | 小説 | Comments(10)

郷愁にひたる

堅田夫妻が、怜子たちを訪問し、1週間をデリーで過ごすことになった。
怜子の家はきちんとした来客用のベッドルームが、到着の1週間前には準備万端整えられていた。その準備には女性サーバントのファトマの力が大きく影響していた。

怜子たちは、途中2泊3日でウダイプールという観光地を共に旅行し、アグラのタージマハールは日帰りで案内することにしていた。
探せばあるもので、車はベンツの大型車をレンタルできることになり、怜子の体に障らないように配慮された。
日本人学校は暑さの中で8月も終日授業があり、生徒も教師も体力を完全に使い果たしていた。そしてやっと、最終週は1週間の休日になっていた。夏休みのおまけのようなものであった。

美沙たち新人組の待ちに待ったシンガポール健康管理休暇がやっと取れるのであった。三泊4日の予定で、美沙たちもまもなく出発の予定だった。

堅田夫妻が到着した翌日の夕飯は北川家でささやかな歓迎晩餐が開かれることになり、久しぶりに先輩教員の安岡夫妻と美沙たち夫婦が招かれた。
安岡夫人は美沙の赴任当初の世話役だった人だ。
すでに二年目のデリーで学校内でも、日本人会でも中心になって活動する一人になっていた。

「安岡さん、忙しい中ようこそいらしてくださいました。お陰で私もこのように元気になって、友人を呼べるようになりました。」
とちょっとおちゃめに怜子は堅田良子を紹介するべく口上を述べた。

「北川さん、本当にこんなに近くにいながらご無沙汰してしまってご免なさい。でも片山さんもお近くですっかり親しくなられたようですし、何よりお元気そうで本当に良かったですね。堅田さんは高知から本当にここへようこそおいでくださいました。昨晩はお休みになられましたか?」

「はい・・もう二人で土佐弁丸出しで殆ど朝までぎっちりおしゃべりして、午前中はゆっくり寝させていただきました。」と元気な土佐弁交じりで挨拶していた。

その土佐弁と、彼女たちがもってきてくれた、鰹のたたき、リュウキュウという珍しい蓮の葉のような野菜の酢の物、かまぼこ、などで、デリーとは思えない酒宴になった。

その間も大元の料理は堅田夫妻が包丁を握ってくれて、ファトマも目を見張るような見事な皿鉢(さわち)料理ができあがった。
堅田氏は土佐料理の板前だったのだ。

「まあ、なんて素晴らしいお客様。材料だけでなくてこの腕前まで日本からもってきてくださったのですね。」
と安岡夫妻は先ほどから感嘆の声をあげながら杯を交わし、料理を頬張っている。

「ほんとに欠食児童のようですが、こんな料理みたことないので、今日はもう許していただいて、いただけるだけご馳走になります。」
とすっかり上機嫌の安岡氏は土佐の日本酒が美味しい、と すでに真っ赤になっていた。

「いやあ、持ってきた甲斐があったというものよ。土佐はもう出された料理はしっかり食べて、ついでもらう酒はしっかり飲まんといかんがです。」

その飲みっぷりにすっかり機嫌をよくした堅田も、旅の疲れも出たのか酔っ払っている。

「堅田さん、さすがに疲れたろう、普段は絶対酔わん人が今日は酔うちゅう」と
怜子は嬉しくてたまらない。

「こういうがをやりたかったんよ。」と良子と手を取り合ってはしゃいでいる。

彼女はもちろん術後から、いける口のアルコールもすっかり我慢して、その日とて
ほんの少し乾杯の日本酒を口にしただけで、しかし、気持ちは明るくその空気に心地よく酔っているようであった。

その姿をみて、まだ1日目だというのに、良子もまた少しだけ安心をしていた。
その夜は、夜半過ぎまで、思わず皆が、時間も、ここがデリーであることも忘れて
土佐の高知に思いを馳せた。

南国土佐を後にして、1年半、怜子は、感慨深く、静かにその日々を振り返るのだった。
c0155326_0404365.jpg
                   皿鉢写真 by ウイキぺディア

 つづく
by akageno-ann | 2008-01-26 00:31 | 小説

真夜中の訪問者 その2

四人はチャーターした2台のタクシーに男女別々に乗って自宅に向かった。
それほどこの真夜中の訪問者は日本からの荷物をダンボールで運んでくれたのである。

エグゼクティブクラスを張り込んだという堅田夫妻は、二人で70キロ以上を持ち込んでくれたようだ。本来はひとり25キロほどだが、機内持ち込みに重い餅や土佐特産品を片っ端から詰め込んで、さも軽そうに持って乗り込んだというから、友達のこの熱い思いに、北川夫妻は一瞬ドッと涙しそうになった。

だが、二人はここでの暮らしの良さを見せたかった。
それは偽りや虚飾ではなく、自然に暮らしているデリーの良さだ。
その中にはもちろん大変なこともいっぱいある。
でも何故か悲惨なことはないのだ。
だから最初から涙は禁物であった。

明るいデリーの印象を持って日本に帰したかったのだ。

アンバサダーのゴトゴトきしむ車はすでに、けっして良い印象ではなく、狭い車のトランクに持ってきてくれた荷物を入れれば、人間が後部座席に二人乗るだけで精一杯だった。

二夫婦は学生時代から仲良くしていたから気心は知れていた。

高知は車社会だから皆日本製の良い車に乗っているから、堅田たちはこの北川たちがこういう車に乗っていることにもまず驚いた。

「さとちゃん、あなたこのクッションの悪さは術後の傷に障らんかね?」
と、まず聞いてきた。

「うん、帰ってきたときは親切な大使館の方が日本製の良い車を出してくださって
まったく問題なかったし、いつもはこんなに長距離は乗らんのよ。それにもう大丈夫よ。
傷の痛みは、まあたまに疲れた時は感じるけど、ここはさむうないしね。」

「まあ、高知も決して寒いことはないよ。けどまあ、暗いせいもあるけど、灯りがつきよらんね。」

怜子は笑い出した。

「うん、けんどあまり見えん方がいいかもしれん。」

そうなのだ、デリーの空港から自宅のある街までは先ず貧民屈のような破れたテントの家や
道でそのまま寝ている人など、昼間の光景はちょっと怖い感じがする。

こうして暗闇の中をだんだんに街場に連れて行くほうがきっと安心する、とこの夜中の到着を感謝した。

案の定、グレーターカイラシュというマーケットあたりまで走ってくると、まあネオンらしいものもあって、この友人もほっとしたようだ。

そのまま住宅街に入っていくと、閑静な場所に大きな家が立派に立っていて、灯りも疎らについていた。その中に一際元気な灯りがついている家の前に車は止まった。

「お疲れさまでしたア~」と、飛び出てきたのは片山美沙だった。

「美沙さんありがとう。待っていてくれたのね。こちらが友達の堅田さんよ。」

「まあ、いや一緒に住んでるが?」

と、堅田良子はびっくりして、美沙を見た。

「いいえ、ご近所の同じ学校の先生の奥さんよ、・・あらあら先生まですみません。」

あとから片山翔一郎も出てきて荷物を運ぶのをさっそく手伝おうとしている。

もちろんタクシーの運転手も、その家のチョキダールという門番も、一番に働いているが
それほど荷物は多かった。

美沙はすぐに部屋に入って、勝手知ったる家のように女のサーバントに指図してお茶を出させた。冷たい麦茶はきちんとコースターを敷いて

「ウエルカムマダム」と恥らいながら挨拶し、「プリーズ」とそのお茶を勧めた。

「サンキュー」と微笑んだ遠来の客は、一先ずここにゆっくり落ち着いてくれるようだった。

 つづく
by akageno-ann | 2008-01-25 12:27 | 小説 | Comments(13)

真夜中の訪問客

北川怜子(さとこ)は、子宮癌の術後半年を過ごして、なんとか少しずつ体調を元に戻しつつあった。一度は日本に帰って検診しなくてはならないが、ここデリーでの闘病生活は決して悪いものではなかった。

医療こそ、日本は最先端を走っているように見えるが、各病院での検査、そしてその検査結果を聞くまでの時間があまりに長かった。

怜子は幸いインドで疑わしい状況を調べ、英語の紹介状をもって日本の病院にもどった。
病院によっては、インドの紹介状というだけで取り合わない医師のいる場合もあるが、知人のいる大学病院で検査した結果、

「このインド人の医師の診断どおりですね。手術しましょう」
という結論に達するのに時間はいらなかった。

怜子は一度子供を流産している。その時に、この筋腫の存在を知っていたが、こんなに早く大きくなったのは、やはりインドの厳しい気候と、なれない生活に必死に喰らいついていこうとしていた自分の中に知らずストレスがたまっていたのかもしれなかった。

ここを元気に出発するときは、

「家族を増やして帰ってくるわ。」など元気に華やかに出ていったのだが、
その「幸せ」はもう不可能になる。

子宮は全摘出手術になるらしい。

淡々と宣告されて、取り乱すようなことはなかったが、これで、
『人生はまた少し面白みに欠ける、』と感じていた。

だが、手術は成功し、その翌日からしっかり歩いて、トイレにも点滴のスタンドを杖代わりに一人で行き、医師の指示通り回復のために努力をした。

医師はインドに戻りたいという怜子の意思を尊重していた。

病は気から、だと看護士免許を持つ怜子は、様々な患者と向き合ってきたので、よくわかっていた。

病気と共に歩み自然な形で過ごすことこそ、完全なる回復につながるのだが、のんびりはしていられなかった。

「デリーに帰る。」 
そう呟いたとき、その時の怜子の家は確かにデリーにあったのだ。

そうして過ごしたデリーでの4ヶ月はサーバントにも助けられたが、近所に着任した美沙によって、精神的に支えられた。

間もなく怜子の親友夫妻、が高知よりデリーへ遊びにくるという。

この暮らしぶりを見せて、安心させなければならなかった。

親友ははインドに興味を持って来るのではなかった。
ひたすらに怜子の病状を心配していたのだ。
彼女は看護士仲間で、見習い時代から親しかった。そして現役である。

今回のデリー訪問は怜子に薬を届けるという重大な任務があった。
そして、もう一つに、できれば一緒に日本に、実家のある高知に連れて帰りたかったのだ。



 インディラガンジー空港の深夜に北川怜子夫妻は友人堅田良子夫妻を迎えに出ていた。
8月の夜の気温もまだ30度を越えているようで、空港内に入るとさすがにエアコンが効いていて涼しかった。

怜子はドキドキする思いを隠せず、しきりに夫に話しかけていた。
北川氏は今の少し太った怜子を専門家として堅田良子の目にどう映るか不安を持っていたのだ。
決して無理強いして妻怜子をデリーに置いているのではないが、彼女が望むようにしてやりたかった。実際、彼女の手術には特別に休暇をとって夫として立ち会っていた。

その時の医師の説明は

「癌細胞はかなり完全な形で取りきりました。しかし、リンパの方に転移のおそれはぬぐえません。かなり大きな細胞でしたから。もし、また異変が生じた時は再入院が必要です。」
と、いうものだったのである。

やはりここへ怜子を戻したことは強引なことであったか、と今さら考える北川であった。

日本からの飛行機は殆ど定刻の真夜中の1時に到着した。
到着ランプがついてから30分以上がたつが、まだ姿は見せなかった。

いろいろ頼んだ荷物が検査で引っ掛かっていなければいいが・・と心配だった。
だが、この日の同じ便で大使館へも新しい書記官が赴任してくるというので、館員が迎えに出ていた。

ここデリーでは在住邦人は皆顔見知りで、こういうときは日本の航空会社の人々も、外交官待遇で税関のすぐ近くまで迎えに行ける館員にも事情を話して、何か問題があるときは
援けてもらうよう頼んでいた。

到着ゲートが開いた。にこやかな大使館員に伴われて友人堅田良子夫妻が現れた。

感動で思わず走り寄った怜子は良子と抱き合った。

「ようきたねえ・・こんなとこまで」

「いやあもう遠かったわあ・・・けんど空港はきれいなとこやね。」

二人の土佐弁の炸裂を笑いながら、北川は世話になった大使館員に感謝の言葉を述べていた。
「いや、何から何までお世話になって、お陰でほんとに助かりました。」と良子夫妻も言葉を添えた。
「何しろ旅行者なのに荷物が多い、と疑われてねえ、こじゃんと検査しよるんよ。けんど
この方にお口添えいただいて、病気の友人のために日本の食事を食べさせたいって言うことを英語で説明していただいてねぇ。ほんとにありがとうございました。まあようも、まあこんな夜中にインドの人はまっことよふかしじゃねえ。」

というこの日本からの元気な訪問者を皆笑顔で迎えた。

空港ではその日本人の集団だけが、朝を迎えたような賑わいだった。
時間はすでに夜半2時、丑三つ時を迎えていた。


つづく
by akageno-ann | 2008-01-24 19:55 | 小説 | Comments(8)
美沙はインドの暮らし方ばかりを必死で日本で情報集めをしていただけで、
このインドという国の歴史や今目の前にしている「タージマハル」という有名な遺産について
殆ど知識がないことに気付いた。

恥ずかしいことに、シャージャハンが愛した后の墓というだけで、ほぼ何も知らないのだ。
四大文明の一つが生まれたここインドの歴史で知っていることといえば、イギリス領土で
あったことと、マハトマガンジーなどによる、インドの独立であろうか・・

それとても詳しいことを調べたわけでもない。
ぼんやりつったってそのタージマハールを眺めていると、
一人の若いインド人が近づいてきて、英語で説明するから雇わないか、という。
このあたりにいつもいるガイドだ。
観光バスとはいえ車掌のような男は途中の休憩所で食事の世話をするだけで、ここではこういうガイドやみやげ物売りがたくさんいるのを知っているようで、ニコニコ笑って傍に入るだけだった。

いずれ誰かを案内人にしなくてはいつまでも誰かがつきまとうと、わかっていたから、その最初の男を雇った。

20ルピーということだった。

英語はいわゆるインド英語で、単語がはっきりわかるから、まあ内容の半分はわかっただろうか?

しかし、この日は雨が降ってきたのに蒸し暑い。
じめじめした空気が美しいはずのこの遺物を少し汚しているように感じられた。

「こうして水面にうつるタージマハルを見られた事はよかったですね。つい先日まで
水がなくここは沙漠のようでした。」そんな風に案内は始まった。

シャージャハーンというムガール帝国第五代の王が愛する后ムムターズ マハルという女性の若い死を悼んで建造した墓であった。

本当はこのヤムナ川という川をはんさんで、対面に、もう一つ黒い墓を王自身のために建造する予定だったという。

しかし、結果王は息子たちに幽閉されることになり、哀しい生涯を終えたのだ。

だが、その幽閉された城アグラ城はそのタージマハルを眺めるに絶好の場所であった。

壁にある無数の小さな穴にはインドの各地、また周辺の国から集められた宝石の数々が埋め込まれていた痕であった。

愚かな・・・と聞いている現代人は思うのだ。

「光り輝く宝石を埋めて、それがあっという間に盗まれてしまうことなど考えないのかしら・・」

よう子と美沙は呆れながらも、シャージャハンが妻ムムタールマハルを偲んで建てたというこの大きな墓を改めて眺めて、ため息をついた。

案内はいよいよ中へ入ってその棺を見せてくれるという。

すると、ボロをまとった男が下足番をしていて、そこで素足になれ、という。

雨で汚れた大理石の床、冷たくはないが、汚いではないか・・・

美沙は

「私入らなくていいわ、遥拝します。」といち早く辞退したが、

珍しく、よう子が

「美沙さん、一生に一回かもしれないもの入りましょう。」
と、誘ってきた。

美沙は、自分が引き気味であったことが、かえって、よう子の気持ちを逆にたきつけたことを感じていた。

しかたなく、入ることにしたが、素足を拒む人のために足のカバーが用意されていた。
麻布の汚れたような色合いのもので、ためらったが、素足よりはいいような気がしていた。

だが、そんなことは序の口だった。

地下室にあたる棺の部屋の匂いは、今までに嗅いだことのない、黴なのか、雨による湿気なのか、いや全てが入り混じった臭いがあった。

皆で顔を見合わせたが、神聖な場である。

神妙に、そしてなるべく息を止めて棺の前で敬虔な祈りを捧げた。

湿度は100パーセントにも感じられた。

今そこにシャージャハンとムムタールマハルの棺があった。

なにやらしきりに案内人は説明をしてくれていたが、何も言葉が理解できずに美沙は
そこを逃れるように地上への階段を登っていたのだ。

こんなに僻地に、そして少し厳しい状態で参拝する世界遺産は、そこにあった。

観光客の少ない時期であったために、かえってゆっくりとそこで時間はとられたのだった。

后ムムタールは37年の短い生涯に14人の出産をし、成長できたのは半分に満たない。

最後の子供の産褥がたたって、命を落としたと伝えられていた。

やがて、その中の皇子たちが権力争いをし、シャージャハンの後半生は子供によってアグラ城に幽閉されてしまうという、哀しい晩年になってしまったという。



c0155326_21144423.jpg
                                    写真 参考文献 byウイキペディア


つづく
by akageno-ann | 2008-01-23 21:11 | 小説

シャージャハーンの思い

その白亜の東洋の偉大なる建造物は、意外にも小さく感じられた。

夏休みの終わり近く、平田文雄が片山翔一郎に旅行の誘いをかけてきた。

「片山さん、タージマハール見にいかない?家族と」

「あぁ、いいですねえ。一応インドの象徴ですから、見ておかないとね。」

「実は親戚が来るんです、8月に。いろいろ案内するのにやはり知っておかないとねえ。」

「そうそう、それに修学旅行がアグラだって言ってましたからね。去年までボンベイ(現ムンバイ)だったのに、飛行機で移動する旅を保護者が反対する気持ちはわかりますね。」

「う~~ん、あのカシミールの時の国内線に子供だけ乗せるって、うちもやはりできないと思いますよ。」

「そうですよね、平田先生のとこの一人娘の明子(めいこ)ちゃんをって考えただけでも不安になりますね。」

「多分ぼくは教員じゃなかったら、仕事休んでついていくでしょうね。その点ここで小学校を過ごすなら、まあ一緒にいけそうですがね。」

日本人学校は教員一家の子供たちも就学児童は当然、父親の勤める学校に入ることになり、時には授業を受けるようなことも止むを得なかった。
そのくらい狭い社会だったのだ。

ここではそれもまたその親子にとっては掛け替えのない思い出になる。

しかし、当時カルカッタ(現コルカタ)といういうもう一つのインドの都市の日本人学校は教員の子供の数が貴重な学校存続のための人員になっているという噂があった。

つまり、企業などの駐在員が単身や若い夫婦者が多く、子供が激減していた。

「カルカッタはやはりここよりさらに厳しい地域なんでしょうか?」

平田文雄は、声を落として続けた。

「まあうちのよう子も娘と二人で次第にここの生活に慣れてきていますし、今度くる親戚のことも大張り切りでベッドルームなどの準備をしています。ほっとしてますよ。デリーの暮らしも。」

「思ったより、言われたほどの不健康地ではなさそうですね。」

と、翔一郎も応えたが、一年を通してみないと正解は出せないようだ。

二人は同じ新人家族の山下家ももちろん誘ったが、

「えぇ、うちは今回はやめておきます。」とちょっと元気なく答えたのが二人にはひっかかった。

多分、夏休み始めのカシミール旅行での気まずさが奥方に残っているのだろう。

山下文子はかなり勝気で、3家族足並み揃えてという、流暢な行動はしたくなかったのだ。
山下氏は静かだが誠実な男で、この男三人はそれなりのバランスがとれて、親しくやっていた。

片山たちは奥方との心のすれ違いが残念であった。

さて夏休みの最終週はアグラのタージマハールへ二家族は観光バスで出発した。

バスは決してあたらしいとはいえない、いや汚く、古いというべきだった。

またしても平田よう子はちょっと顔をしかめたが、しかしすぐに気を取り直して娘とバスに乗り込み前から二列目の席を陣取った。

そのすぐ後ろに美沙と翔一郎はすわり、他に欧米人らしい観光客が数組一緒だった。

さすがに観光バスだ、インド人の客はいなかった。

それを特筆するべきだと思うほど、どこに行っても元気なインド人たちはうようよといて、活動していたのだ。

さて、そのバスは定刻8時半にデリーのコンノートプレイスのバス会社のロータリーを出発した。

はじめはそれでも時速キロメーターほどの速さで走っていたが、デリーの中心を抜け、ハイウエーとはいわないが、一本の校外の道路にでるやいなや、運転手の態度は激変、猛スピードで走り始めた。

それほど車の多い道ではないが、大小の車たちは恐ろしいほどスピードを上げ、けたたましいクラクションを鳴らす。

これは実に飛行機と同じくらいの恐怖があった。

日本の高速道路が急に恋しくなり、日本の安全性の高さが心をよぎり、タージマハールを見る事より、よう子や美沙は、日本への郷愁を感じながらの小旅行になってしまった。

日差しは暑い、日はどんどん高くなる、帽子もかぶって日除けのための万全の態勢でバスに乗っているのはこの日本人家族のみ、欧米人、特にヨーロッパの人々はこの太陽を思い切り浴びようと無防備だった。

そして一度の休憩をしただけで、四時間かかってアグラへ入った。

無事であった・・・・

そしてかなりこのスピード感と、おんぼろバスの座席の反動にも慣れてきていた。

一行がバスを降りると・・いたいた、お決まりのみやげ物売りの少年たち。
あどけない笑顔で寄ってきては、売りつける。
払いのけるのはまだ苦手で・・美沙たちは逃げるようにその場を去る。

執拗に追ったりはしない、潔い少年たち。

さて、いよいよタージマハールへ・・・心はさすがにこの世界に冠たる遺跡を見て、感動しようと
準備に入っている。


「え?」よう子が小さく叫ぶ・・・

「これ?」真似したわけではないが、美沙も小さく叫ぶ。

翔一郎はあっけらかんと言う

「名物にうまいものなし・・じゃなかった・・・期待はずれだなあ」

日本人は他にいないからまあいいか・・・と一同そこでうなづいてしまっていた。

幼い平田明子だけは

「タージマハール大きいねえ」  と覚えたての固有名詞を覚えていた。

そこに白くこじんまりとした、タージマハールがあった。

c0155326_2252711.jpg

 つづく
by akageno-ann | 2008-01-22 21:28 | 小説 | Comments(16)