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アンのように生きる・・・(老育)

いつも「アンのように生きる(インドにて)」へのご声援に感謝しています。

ありがとうございます

日本は飛び石連休中ですが、今日はこちらも小説を休んで、高知の偉人
ジョン万次郎を書いてみたくなりました。

昔私が小さいころ、祖母が「万次郎さんは小さな鯨漁船に、まだ小僧さんとして乗りよってね、
海で漂流してアメリカの船に助けられて、難儀したけどアメリカでしっかり勉強して立派な人になって帰ってきたんよ!英語も達者でね。」

と話を聞きましたが、彼についての詳しい内容はその後の歴史の教科書の中にもなく、高知といえば幕末の偉人はやはり「坂本龍馬」で、その影に追いやられています。

しかし近年大分研究は進んだようで、高知龍馬空港でも彼の写真や業績に会うことができます。

土佐清水の小さな漁港で生まれ育った彼は父親が早逝しているので小さい頃から炊事係として漁船に乗り込み太平洋を渡っていました。

小さな船で肉眼で鯨を見つけることは体で覚えていたようです。

1841年、14歳で、その冬の海に乗り出した、乗組員5人の船は折からの時化で漂流・・・
太平洋の孤島
鳥島に漂着してその五人で半年近く無人島生活をしたそうです。

しかし幸いなことにアメリカの捕鯨船にたすけられて、ハワイに寄港。
大人たちはもちろんそこで安全な暮らしを与えられたのですが、ただ一人まだ若い
万次郎は捕鯨船のホイットフィールド船長に望まれてアメリカ本国に連れ帰られました。

もちろん強引にではなく、本人の意志を尊重されたということです。

ここで何故彼がそのように気に入られたかといいますと

捕鯨船の中での彼の機敏な態度、機転もきき、人との交わりも臆するところがなかったといいます。

持ち前の性格、能力もあるでしょうが、やはり若さという点でその柔軟性を買われたようです。
万次郎自身もそれを望んだというのですから、そのとき既に1年以上家を離れて暮らした彼には、どこでも暮らせるという順応性が備わっていたのでしょう。

そしてその船長の愛情が理解できたのではないか、と想像します。
また、鯨を見つけることに自信があり、それから再び捕鯨船にのってグアム フィジー、喜望峰を回って、米国マサチューセッツ州ニューベッドフォードに渡ったそうです。

その間に「ジョン万」のニックネームをつけられたとのことです。

そこには今、捕鯨博物館があって、ジョン万次郎の記録もしっかりあり、日本でよりも 彼は有名な日本人だそうです。

彼はその地で小学校の先生の家に投宿して「いろは」も読めなかった状況から、いきなり「ABC」を学ぶことになったのです。

しかし、彼の能力はそこで開発され、学び、立派な航海士になったのです。

学校での様子は当時の同級生の記録から

「ジョン・万は礼儀正しい上に優しく、勉強家だった」とあるようです。

礼儀正しく、優しく、勉強家・・・この三つはとても大事なことなのですね。

彼はその後ハワイに残っていた他の土佐の乗組員と一緒に1851年、日本に帰っています・

ちょうど10年後ですね。

彼はあの有名な咸臨丸にも通訳として乗っていますし、幕府のために文字通り米国との橋渡しを実践した人だと思います。

ただ数奇な運命だったので、米国の言葉がわかることで密使と疑われたり、日本でも苦労は耐えなかったようです。

しかし、新政府になってからは東京大学の前身開成学校で英語の教授を務め、彼をここまでに教育しようとしたホイットフィールド船長とも再会できたそうです。

1898年、70歳で亡くなっています。

今高知土佐清水には万次郎の記念館があるそうです。(是非訪れたいです)

そして足摺岬には彼が太平洋を望んでいるように銅像があります。


この内容は2004年偶然高知へ帰る飛行機の中で、その機内誌(全日空 翼の王国6月号)で特集されていたものです。

私はその出会いに感動しました。

資料は南部洋一氏文 中川 彰氏写真 コーディネーター坂牧正隆氏によるものです。

四国の中で太平洋に大きく面した土地を持つ高知に生まれ育ったことは外国という場所を
海の向こうという比較的身近に感じられる環境にあるかと思います。

私の祖父は幼い私の父をつれて、旧満州に渡り終戦まで過ごしています。

私もまた偶然にインドに渡る事になったとき、祖父に電話でそう告げると

「それもよかろう」という一言でした。

心配しながらも新しい土地での暮らしを容認する土佐の気質だと感じています。

長くなりました。ご高覧ありがとうございました。

初めてお立ち寄りの方へ
インドを舞台にした日本人女性の生き方を綴る小説です。
あらすじは下にあります。
この小説の冒頭は・・こちらへ
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「annと小夏とインド」
更新しました。みどりの日の散歩です。

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(高知の地域情報にもエントリーさせていただきました。)

あらすじはこちらから
by akageno-ann | 2008-04-30 16:37 | 番外編 | Trackback | Comments(22)

インドと高知

インドを舞台にした日本人女性の生き方を綴る小説です。
1話だけでもお付き合いください。あらすじは下にあります。
この小説の冒頭は・・こちらへ

第136話

一概にインドと高知が似ているなどという会話は、その双方に失礼かもしれないが、美沙の印象ではその人の良さや、押しの強さ、豪快さは太陽の強さに比例しているように思えた・・・

怜子と美沙は成田で一泊して、旅の疲れを癒してから、翌日羽田までリムジンバスで移動して高知へ向かった。

成田のホテルの食事は二人で思い切り贅沢に懐石風のコースの和食を選んで、
心行くまで日本の食事を楽しんだ。
翌朝の朝食のビュッフェで、納豆と生卵を選んで二人は顔を見合わせた。

「デリーの冷凍庫に何ヶ月も入っていた納豆は豆がもう干からびてたわね」
と怜子が笑いながら語り、美沙も

「えぇ、この生卵とお醤油はこのまま飲めそうよ。我家の醤油は3年分あるなんて喜んでいる場合ではないですね。あれはもうたまり醤油になってしまって・・・むらさき、という別名のある本当のお醤油はこれだわ」
としみじみ眺めてしまっていた。

「あなたのところの煮物は美味しかったわよ。でもこうして豆腐や漬物につけて食べる時の醤油はインドにはなかったわねえ。」

そんなたわいもない、デリーの食の思い出話はつきない。

疲れを心配した怜子の体調もよく、比較的元気な姿で帰還した。
高知空港(現高知龍馬空港)にはあのまだ暑いデリーの怜子の家を訪れてくれた親友
堅田良子夫妻が車で出向いてくれていた。

「お帰りなさい、ようもんたね・・・」
と良子と怜子は先ず互いの肩を抱き合って、賑やかな土佐弁で無事を喜んだ。

以前の話はこちらへ

「ほんとにあんたには世話になるねえ。ありがとう」

そんな二人をようよう引っ張って、堅田良子の夫と、美沙との4人は空港の出発ロビーにある土佐料理の司(つかさ)という店に先ず立ち寄った。

時間も昼時を少し過ぎたところで、皆お腹を空かせていた。

もちろん4人はここの名物「鰹のたたき定食」を注文して、先ず高知の味を確かめることになった。

「美沙さん、本当に怜ちゃんをこうして送り届けてくれてありがとう。なかなかできることではありませんよ。ねえ怜ちゃん良い人に出会ってよかったねえ。」

そう話す良子に

「いいえ、私の方こそもう寂しくて、一緒についてきてしまったんです。高知は前にもお話しましたように、主人の母の実家ですし、こちらに親戚もあり、なんだか自分の故郷のようなんです。私はずっと東京育ちでしたから。」

美沙は旧知の人、良子に向けて話した。

デリーへわざわざ友人怜子の抗がん剤の薬を持って訪れ、その滞在の間何度か食事をしあった仲間はもうしっかりといい友人関係になっていた。
しかも良子がデリーを離れる日に、この病気と闘う親友を美沙に「よろしく頼みます」と
託していた。

ここでこうして土佐料理を一緒に食べて、怜子の実家に赴くことは不思議な出来事なのであるが、しかしこれも遠く以前から決められていた運命のようにも自然に思えてしまうのだ。

車は空港を出ると、敢えて海沿いを走り浦戸大橋を渡り、ほんの少しより道をして名勝桂浜に向かった。

怜子と美沙の歓迎の意味であった、と美沙にはあり難く感じられた。

風はさすがに冬の高知でも寒いので怜子には無理をさせられないと、長居はしなかったが、4人でみた太平洋の荒波と坂本龍馬の銅像は大きなエネルギーを与えてくれるように感じていたのだ。

幕末の志士として、この土佐の高知に留まらず、日本の未来のために働こうと東奔西走した坂本龍馬を4人のそれぞれがここで改めて偉大な人物として確認したようであった。

若くして暗殺されたにもかかわらず、日本の開国にも大きく尽力し、長い鎖国の時代を終えて江戸から明治への大きな時代の流れの中での彼の残した偉業・・その中身の濃さが具体的にわからなくとも、怜子はその大きな力が自分の中にもみなぎって、インドに渡ったと思えた。

歴史が好きでこの時代の本も学生時代から好んで読んだ。
海外での生活がしたくて、夫のこの在外教育施設の派遣に大いに賛同した自分を思い起こし、それは今こうして無事に戻ることによって達成感に変わっていたのだ。

「ありがとう・・」それは誰にというのではなく、しかし少なくとも今ここにいる3人へと、デリーにまだいる夫に対して発した言葉のようであった。

                                                  つづく


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更新しました。春の宵のコンサートです。

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by akageno-ann | 2008-04-28 21:38 | 小説 | Comments(22)

インディラガンジー空港

インドを舞台にした日本人女性の生き方を綴る小説です。
1話だけでもお付き合いください。あらすじは下にあります。
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第135話

世界の飛行場の中で人の名前がついている空港はどれほどあるのだろうか?

有名なものの中には、ジョンFケネディ空港、レオナルド ダ ヴィンチ空港、シャルルドゴール空港、ジョンレノン空港、蒋介石空港、そして最近日本でも高知龍馬空港ができた。

怜子と美沙は1月末のデリーでは穏やかな日に、インディラガンジー空港を飛び立った。

手荷物は怜子がトランク二つ、美沙は大きなトランクが一つで、彼女のトランクは一時帰国らしく土産物以外の荷物は少なかった。

空港へは二人のそれぞれの夫が付き添い、日本の航空会社の空港長に挨拶をしていた。
空港長は親切に応対し、病気を持つ怜子にとって居心地のよい席を用意してくれた。

細やかな気配りで在印邦人にできる限りの便宜を図ろうと努力する態度に皆、頭が下がる思いだった。

1月は日本からの来訪者も多く、飛行機はほぼ満席だった。
フライトアテンダントにとって、デリーは決して望まれる場所ではないはずだが、にこやかさは変わらず、何より嬉しいのは、日本人が搭乗すると、

『お帰りなさいませ』という言葉で迎えられた。

二人はエグゼクティブクラスの一番後ろの端の二席にゆったりと腰を下ろした。

大使館員はイミグレーション(税関)ぎりぎりまで入ってきてくれて丁重に見送ってくれた。

「北川先生の奥様、本当にお疲れさまでした。お元気でお過ごしください。」

その言葉を暖かい口調で心から。
美沙はこの日、怜子に傅くものとして少し後ろに位置して怜子と共にその見送りに対して
深々と頭を下げた。

少し可笑しかったのは、最初の出国ゲートで怜子が見えなくなるまで『万歳』と両手を挙げて
見送る北川の姿だった。

思い切り明るく見送る夫を怜子はわざと呆れれた、という顔で少し揶揄するように、にらんだ目をしたのを美沙は見逃さなかった。

長年連れ添った夫婦の暗黙の挨拶のようで楽しい空気が流れていた。

飛行機は定刻通りで、何度も通った身体検査にも慣れ、スムーズに搭乗口に進んだのだ。

そして搭乗機はまた暗闇の丑の刻近くに離陸した。

疎らに見えるデリーの街の外灯・・その中でインド門から大統領官邸まで1本の長い立派な道路だけはここがインドの首都であることを物語るように見事にくっきりと眼下に見下ろすことができた。

高度はどんどんと上がっていき、窓側に座った怜子はじっと窓の外のその風景を覗き込み
やがて、椅子に深く座ったまま目を閉じた。

その姿に声をかけようとした、美沙は押し黙った。
怜子は声もなく涙を流していた。

その姿にただ感動した。約3年という日々をこのインド亜大陸の首都ニューデリーで
力いっぱい生き抜いた彼女に敬意を表したい思いだった。

『同行してよかった』 美沙はそう心で呟いた。

二人はそのまま何も話さず、しばし互いにそれぞれの思いに耽っていた。

とりわけ怜子は本当に走馬灯のようにここでの日々を振り返っていた。

病気という自分では不甲斐ない結果がついてきていたが、それでもここでの日々は有意義で尊いことだった、と心から思える。

そのことを自分の中でしっかり納得して日本に、高知に帰ろう、そう心に強く思った。

美沙が高知まで観光気分で随行してくれるということにどれほど心強く思っていることか、
怜子はかけがえのない友人をここで得たことにも感謝するのだった。

                                                   つづく


皆さん、連休ですね。私ものんびり少しずつ上梓します。良い休日をお過ごしください。


「annと小夏とインド」
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あらすじはこちらから
by akageno-ann | 2008-04-26 23:10 | 小説 | Comments(21)

荷造り

第134章

日本からインドに渡ったのは怜子にとってはほんの2年半前のことなのに
その日からもう10年も時間が経ったように思えるのは、ここの時間が悠久といわれるように
なだらかに、長閑に過ぎていたからではない。

あまりにも多くのことがめまぐるしく起こり、その都度それがあたかも当たり前のことであるように振る舞い、過ごしてきたことにかなりのエネルギーを使ったようにも思える。

暑さのために、日本人にとっては1年が3年分のエネルギーを必要とする、と言ったものがあったが、あながちオーバーな表現ではない、と怜子はおもった。

ここで過ごしたためにこの病も発症した、と言われれば

「そうかもしれない・・・」と答えるが、

だからと言って、ここにこない方がよかった、とは全く思えなかった。

ここで出逢った、事象、人、気候、旅、食べ物、空気、それら全ては、異文化の中にあって、新鮮で興味深かった。

もちろんうんざりするほどの暑さや、買い物のときに必要な面倒臭さ、人々の中におこる小さいけれども時にしんどい諍いも含めて、怜子はここが好きであった。

美沙と知り合ってからはまたさらにその触れ合いの中に、互いの感性がぴたっと来る瞬間があって、年も性格も違うのに、かえってそこに大きな呼び合うものが存在して深く親交していったのだ。

二人は北川家の荷造りをしながら、ふと手を止めて、それぞれの思い出に浸る時があった。

二人の出会いはこの借りた一軒家の北川家のこのセッティングルームから始まったのだ。

病み上がりの怜子に同僚教員の夫人が、「一番近くのお宅の先生ですよ。」と、美沙を
紹介してくれた日の、まだデリーの暮らしに恐れをいだいていた彼女の表情まで思い出すことができた。

その日以来二人は旧知の友人のようになれたのは、一冊の本、「アンの夢の家」を家の書棚に飾っていた美沙を知ったときからだった。

子供のころに怜子のクラスのおませな女の子に奨められて読んだその本が、今こうして本当の友人と出会うきっかけになったことを不思議な感動で思い起こしている。


荷造りは本人よりも第三者が入ってくれるほうが捗るようだ。
先ほどから持ってかえるもの、人に譲ったり、挙げたりする品の餞別にも思い切りが悪く少しも進まないところだが、美沙は手際よくより分け、

「悩まれたものは第二段の北川先生の荷物にすればいいですよ、」

と譲歩させて、美沙は休まず荷を仕上げていた。

この日はデリーの運送業者がやってきていて、驚いたことにまことに手際よくきちんとした荷造りをするのであった。

「2,3年前はこんなパッキング材もなくて新聞紙や布切れで巻いて、仕上がった荷物を
牛車が運ぶので、無事に日本に着くのか不安になったときいたけれど、最近はなかなか立派な運送業者が出てきましたね。」

そう美沙もすっかりデリーの日本人マダムととして一端の口を聞いていた。


「美沙さん、本はおいていくから、よろしくお願いしますね。おそらく日本で読まないと思うの。
そうだ、主人の第二弾の荷造りも手伝ってやってね。」

美沙は笑って

「えぇ、でもその時が楽でありますように、今日は頑張りましょう。」

そういって荷造りするが、洋服も家具も殆ど置いていくという怜子にある懸念も感じていた。

「思い出の品はどれですか?」

そう美沙が聞くと 大きな絨毯を指差して

「こんな絨毯 日本で敷くスペースあるのかなあ」と

そんなことまで不安になってくるのだ。


やがて荷物はパッキングを終えて、TATA印の立派なトラックに詰まれて
行ってしまった。

 
                                         つづく

バトン皆さんやってくださいました!!感謝!!ありがとうございます。
「かあちゃん、あのね」のCHILさん素晴らしい子育て絵日記!!

「とーちぃママのブログ」のママさん4人の男の子を明るく楽しく育てる可愛いママ!!

「キミコのパリ日記」のキミコさん大好きなパリの風物詩!!


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by akageno-ann | 2008-04-24 22:21 | 小説 | Comments(20)

第3章はじまったところで、ブロ友 ロッキー山脈のさりすけ女史
家族6人犬一匹、ロッキー山脈ふもと生活よりバトンを受け取りました。
彼女のバイタリティに溢れ、ユーモアたっぷり、愛情いっぱいのブログ是非ご覧になってね。

バトンとは・・自己紹介のような質問に答えさせていただきます。
久しぶりなのでちょっと楽しく「そこまで聞いてないよ」というほど詳しく・・
書かせていただきます。(笑)

☆名前は

  ann です。この小説を書くにあたって、アンシャーリーの名前を拝借しました。

☆恋人は

  半世紀以上生きてるので、心の恋人は二人います。多分死ぬときに思い出すと
  思います。良い思いでです。

☆好きなタイプは

  自分と違うものを持っている人は好きになる確立が高い・・
  若い人とか、物知りの人とか、特技のある人とか・・・いろいろ

☆嫌いなタイプは

  無意識に図々しい人。意識ある場合は許せるかな!!

☆好きな漫画・・ちょっと長いけど暇な人は読んでね

  今読んでるのは、森 薫 「エマ」19世紀ヴィクトリア朝の英国恋物語
  ビッグコミックオリジナル連載の「あじさいの唄」子犬が可愛い!

  探しているのは、少女コミック 水野英子 「白いトロイカ」帝政ロシア時代の歌姫の
  物語・・感動して何度も読んだのに・・・紛失

  「エースをねらえ」は学生時代にはまりました。

  永島慎二「銀河鉄道の夜」は名作だと思います。

  漫画は様々なジャンルを気楽に読ませてくれるけれど
  その時代背景、作者の洞察力は学ぶものが多いと思います。

  これからも良い漫画に出会っていきたい。

☆好きな食べ物

  大好きなのは寿司とラーメン
  これに勝るものは今のところないですが、
  嫌いなものはほぼないです・・・食いしん坊

  ああ、一つあった・・インドのお菓子・・ライタという
  ライスプディング・・香辛料が強くて
  どうしてもこれがいただけないのでした。

☆好きな音楽

  ショパンピアノ曲  フォーレ「レクイエム」
  ユーミン  小田和正 エディットピアフのシャンソン

☆好きなブランド

 クリスチャンデイオール(昔は結構バーゲンがあったのに・・)

 今は残念ながら・・・ダメ・・・体型が・・・・


では、このバトンを受けていただくのは

「かあちゃん、あのね」のCHILさん素晴らしい子育て絵日記!!

「とーちぃママのブログ」のママさん4人の男の子を明るく楽しく育てる可愛いママ!!

「キミコのパリ日記」のキミコさん大好きなパリの風物詩!!

そして、回そうと思ったら・・タッチの差で、既に回ってた・・笑
でも・・ご覧になってね!
「いっちゃんの美味しい食卓」のいっちゃんただ今美味しい鯖のレシピとバトンが日記です!

このバトンのルールは下のとおりです。よろしく!

・3人の人に、3日以内にまわすこと
・嘘、偽りなく答える
・アンカー禁止
・回した人は回された人がルールを守ってるか見に行く
・ルールが守られていなければ罰ゲーム

私の考えた罰ゲーム

 家の大掃除・・・どう?(私の場合はこれが絶対罰です)

さりすけちゃんありがとう・・かなり楽しませてもらっちゃった・・

今日はこのエキサイトブログがメンテナンスだったのでちょうどいい御題でした。

皆様こんな私ですが、どうか「アンのように生きる インドにて」の小説に
時々お付き合いくださいね。
心を込めて書いています。

ただ今終章133話です。どうぞよろしく
この機会にいらしてくださった方に 冒頭 あらすじを下におかせていただきますね。

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インドを舞台にした日本人女性の生き方を綴る小説です。
1話だけでもお付き合いください。あらすじは下にあります。
この小説の冒頭は・・こちらへ

あらすじはここから
by akageno-ann | 2008-04-23 21:25 | 番外編 | Comments(32)

終章の2・・・・妊娠

インドを舞台にした日本人女性の生き方を綴る小説です。
1話だけでもお付き合いください。あらすじは下にあります。
この小説の冒頭は・・こちらへ


第133話

美沙の家のシーク教徒のオーナーのところに孫が生まれた。
目の大きな可愛らしい女の子だった。

何かお祝いをと思い、現金も相応しいとは聞いていたが、美沙は手作りの
毛糸のチョッキにした。

白い純毛で鈎針で編まれたそのチョッキは、難しいものではなかったが、目が揃っていて
心がこもっていることがわかったのか、オーナー夫人に大変喜ばれた。

美沙はこの時にはすでにある決意をしていた。

子供を持つことであった。
美沙はこのデリー赴任半年後に自分で妊娠に気づかぬまま、早期流産をしてしまった後悔があった。

インド赴任のための準備には自分が勤めていた中学校の退職の手続きも重なり知らないうちに体力を必要以上に消耗していた。

そしてデリーに渡るとすぐに様々に出会う異文化の中の生活に終われ、五月の夏休みころにやっとほっとしたものの、今度は夫が仕事上の忙しさから少々精神不安定になり、共に心を病む日々が続いていた。

しかし、そのころから親しくなり始めた北川夫妻、とりわけ怜子との交流によって美沙は心のよりどころができていたようだ。

そんな中の流産の兆候を初めて行った健康管理休暇場所のシンガポールで知り、幸い対処はよかったのだ。

怜子は美沙に

「若いのだからまた絶対にできるから」
と、励ましていた。インドで産むのなら看護士としての経験があるから手伝うのだとも
言ってくれていた。

しかし、美沙はデリーで産む自信もなく、また夫を残して日本に帰国して生むという勇気もなかった。

だが、2回の夏をデリーで過ごして、少しずつ自信がつき、またインドに嫁いだ日本の女性との出会いもあり、様々な知識が美沙の中に芽生え育っていたのだ。

しかし、美沙は子供をもたぬまま子宮癌に冒されていた怜子に対し、知らぬうちに遠慮をしていた部分であったのだ。

しかしどんな難しい話も不思議に自然に話すときが来るものなのである。

怜子は自分の判断で夫より少し早く日本へ帰国し、気になり始めたリンパ腫という
新たな癌の発病をきちんと調べなければならないと思っていた。

デリーの気温がすっかり下がるようになった12月の末のある日、少し高熱を出したことをきっかけに帰国の準備に入っていた。

在外教育施設派遣教員としての義務には、病気などで帰国するにも文科省への申請が必要であったのだ。

むろん、大きな病の危険性の高い怜子の申請は比較的早く許可された。

美沙はそれに併せて自分も怜子につきそって日本に一時帰国する旨、自分の体調についても不安があるために検査のための一時帰国を申請し、怜子のそれに少し遅れたが許可されていた。

「美沙さん、一緒に帰ってくれるのね、どうやって許可をえたの?」
怜子はそこのところを聞きたがった。

「怜子さん、私はいつか流産でお世話になりましたが、あの時小さな筋腫の存在も言われていたの。妊娠するにはその存在が大きくなっているようだと問題があるんですよ。」

「そうなのね。で?赤ちゃんもつ決心ついたのね・・」

「えぇ、挑戦しようと思います。だから今回一緒に帰国します。」

「そう、よかった・・・頑張ろうね。」

本来なら二人のこの立場の違いは厳しいものがあった。
一方は癌の再発を懸念し、もう一方は新しい命の可能性をかけるための帰国であった。

しかし互いに過ごしたこのデリーという特殊な地域での様々なかかわりから、互いが互いの立場を十二分に理解し思いやれるようになっていたのだ。

不思議な感覚であった。

二人は「赤毛のアン」で共感したように、腹心の友の意味をここで感じ取っていた。

少女時代を遠く昔に偲びつつ、デリーの地で育んだ友情に感動しつつそれぞれ、帰国の日のための準備をしていた。


                                    つづく


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あらすじはこちらから
by akageno-ann | 2008-04-22 22:23 | 小説 | Comments(14)

これまでのあらすじ

 片山美沙は夫翔一郎の在外派遣教員としてのインドデリー赴任に伴い、中学校教員という職を辞して渡印した30歳前半の女性であった。

子供もまだおらず、デリーで始まった異文化の中での暮らしは戸惑うことも多く、一緒に渡った夫の同僚教員の家族との交流から始まった暮らしであったが、子供のいる家庭とそうでない家庭のここでの日々の違いから、1年早く同じ立場でここに居住していた、高知県出身の北川怜子(さとこ)の家と近くであることから、次第に親しく交流するようになった。

怜子夫妻にもやはり子供はなく、怜子自身は日本で看護士という職を退いて夫に伴われてきえいたことにも互いに共通点を見出していた。

しかし、怜子は1年目の終わりころに、子宮癌が発覚し、一時日本に帰国して手術し、抗がん剤治療を行っていた。

怜子は抗がん剤治療の半ばでその薬をインドに持ち込みながら、再びデリーに戻ってくるという強靭さをみせた。

北川、片山両夫妻は互いに打ち溶け合って、デリーの暮らしを二分するように、喜びも暑さによる苦しみも共に分かち合うのだった。

美沙の二年目の夏は二夫婦はヨーロッパに旅に出て、さらに親交を深めたかのようであった。

デリーの暮らしは厳しい暑さと戦いながら、インドの人々の文化やしきたりを学び、その中で強く生きていかねばならないことを美沙も、怜子もそれぞれの立場で感じていた。

とりわけ美沙は最初の酷暑の中で早期流産をしていまい、心と体に少なからず打撃を受けていた。

二人の女性は偶然同じ、互いの愛読書「赤毛のアン」のシリーズ本を心の支えに、インドの暮らしを自分の中に取り込み、時に心揺るがせながらも勇気を持って生活していく。

生まれ育った環境も、年代も違う二人の日本女性が、厳しい環境、異文化の中で、次第に寄り添おうとする姿を、そして癌という病のためにまた確実に別れが迫っている二人をインドの風物と季節のうつろいと共に描いている。

三年の任期をあと数ヶ月で終えようとしていた北川夫妻に、訪れた試練、それは怜子の癌の再発の恐れと早期帰国の決断を迫られた。

怜子という一人の強い意志を持つ女性の力によって支えられていた片山夫妻と怜子の夫北川の葛藤、死を決意したように一人で日本に帰ろうとする怜子本人の思いをもって
終章に入る・・・・・・

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第132話

 怜子の本帰国までにおよそ2週間が必要だった。

怜子の発熱はほんの少し本人の体力をそいだが、怜子自身はいよいよ日本へ帰るという現実が心の支えになり、帰れば少しは物事は好転するように思え、短い間でも一人で仕事をしなくてはならない夫のためにできる限り帰国の荷物を片付けておこうとしていた。

日ごろから従順で気の効くサーバントのファトマはマダムが先に日本へ帰ることを知ってからというもの、そのマダムに尽くす気持ちはさらに強まり、己を殺して怜子に尽くすのだった。

荷物は殆ど怜子の指示をファトマが聞いて作業するというしっかりとした主従関係が出来上がっているようだった。

「美沙さんにも手伝ってもらって、ほんとに悪いわね。」

「いいえ、私だって来年同じように荷物するんですもの。いい勉強になります。」

「そうやって貴方は本当に私に良くしてくださった。感謝してもしきれない、
日本で待っているからきっと高知に遊びにきてね。」

「はい。それから怜子さん、実は私も一時帰国の許可が出たので一緒に帰ります。」

思いがけない申し出に怜子はびっくりして言葉もなかった。
しかしそのことがどれほど心強いことか誰もが簡単にわかることだった。

「よく文科省の許可が出たわね。」

そこで美沙はあることを怜子に告白するのだった。

                                              つづく

                                      
「annと小夏とインド」
庭と犬です・・・こちらもよろしく

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終章に入りました。本日コメントは閉じさせていただきますが、
どうかどうか応援のクリックよろしくお願いします。
by akageno-ann | 2008-04-21 22:38 | 小説

第131話 決断

怜子のサーバント ファトマに呼びにこられて、美沙は急いで怜子の自宅へと走った。

ここの生活で走るということは殆ど無かったので、そのあたりの人々は少し驚いて見ていた様だが、だからと言って興味を持つものはなかった。

怜子の家の門扉は開けられたまま、門番(チョキダール)が敬礼をして中へ誘う。

ファトマが歩きながら「マダムは熱が出ました。」と言っていたので大事ではないとは
思ったが、気持ちは逸った。

「美沙ですよ、怜子さん・・どうしました?」

そう話しながら入って行った。
怜子はベッドルームに横たわりアイスノンを枕に寝ていた。

「ごめんなさいね、驚かせて。でもどうも立ち上がるのが億劫で電話がかけられなかったの。
薬をとってほしいの。あそこの引き出しに解熱剤が入っているので。」

と、引き出しの鍵を美沙に渡した。

家の中はオープンにしていてもベッドルームだけは貴重品を置いているので、怜子も美沙もサーバントにはあまり勝手に入らせないようにしていた。

それは暗黙の了解であり、そのことでサーバントがいやな思いをしている様子はない。

インド人のマダムたちのサリー姿の腰にはジャラジャラと鍵をつけて、管理しているのが風潮だったのだから。

バスルームの脇のクローゼットの引き出しには怜子のための薬がひしめくように入っていて、看護士であるというだけでなく、病気と闘っている怜子自身の現状を改めて思い知らされたようであった。

抗生剤や風邪薬、ビタミン剤、胃薬、・・・そういえば美沙も随分この薬たちに世話になったと思いながら、解熱鎮痛剤を取り出して、ファトマに白湯を持たせて怜子に飲ませた。

「美沙さん、私帰るわ、日本に。」

美沙は両手で怜子の左手を握って、小さく何度も頷いた。

「主人は何度かそう言ってくれたけど、いつも大丈夫自分のことはわかるから自分で決める、って言ってしまってたから・・」

「もうちょっとだから大丈夫だと思ったんだけど・・・この冬になって暑かった夏の疲れが出ちゃったみたいね。微熱が最近こうして高くなるようになると、ちょっと危ないって思うの。」

不思議なことに悲壮感もなく、怜子はまるで他人の病状を語るように淡々としてかつ詳細に美沙に話した。

「リンパ付近のブツブツが増えてきて、それと共に体のだるさがひどくなったの。暑いときは暑さでだらだらできたし、体力は保持できていたのだけど、最近食欲がなくて、それと共に気力がないのよ。微熱は風邪かとも思うけど、悪い細胞には熱は一番いけないの。
今日はちょっと高めに出てしまって、これ以上自分もここでは無理だとわかったわ。」

「北川先生に連絡しましょうね。」
美沙は思いついて言った。

「大丈夫よ。もうすぐバスが出るでしょう。この熱が下がって体調が楽になったらすぐに帰国します。貴方には本当にお世話になったわ。」

「何をいうのですか?それはこちらこそです。怜子さん少し頑張りすぎですよ。ご自分が病気のときは職業を忘れないと・・・」

「そうよね・・・看護士になって15年でここへ渡って来て、少し自意識過剰だったかな?」

「そういうことではないですよ。ただ人に甘えないという気持ちが強いから。」

「可愛気がないって、主人にも言われたのよ」といいながら笑いの出た怜子をみて
美沙もあまり深刻にならなかった。

ファトマに もう一度美沙の家に行って、夫が帰宅したらこれを渡すようにシャンティに渡してほしいと、メモを託した。

「先生がお帰りになるまでいますね。」

「ありがとう、貴方は本当に癒し系で主人もとっても貴方が好きよ。」

「何をおっしゃるやら・・」と笑ったが、心は少し揺らいでいた。

「わかっているのよ、貴方も主人を嫌いではないわよね。いえ、私が貴方に頼るあまりここへいつも呼び寄せて、貴方はそのつど優しさを置いていってくれたから、主人だってあなたのファンになったのは当然・・私が引き寄せたんだもの。」

「怜子さん、私北川先生に対して特別な感情ないですよ。お兄さんみたいな感じかな?強いて言えば・・」

怜子はそれには答えず

「主人をお願いします。」

「・・・・・・何をおっしゃるの」

「いえ、私が帰国したあとの主人を・・」

そうだった。そういうことだった、と美沙も思いなおして

「はい。わかりました。心配せずに日本で帰りを待ってください。」

あと3ヶ月ですもの、すぐですよ。

美沙は何を言っても恐らく、怜子のこの研ぎ澄まされた感性の中では何もかもが見えているのだと、確信していた。
じたばた言い訳してもはじまらない。

人間同士の感情はどうしてもいろいろに絡まるものだ。
その絡まった糸は時と場合によっては無理に解く必要もないのだ。
無理にほごそうとして大事な糸を切ってしまうより、絡まったままにしておいた方がきっとそれなりの解決策がでてくるかもしれないと、このとき思えたのである。

間もなく、北川氏はこの家にもどり、幾分かの憂鬱をかんじるであろうが、再発したかもしれぬ病人を無事日本に帰すことに専念しその後の片付けなどは皆が手伝えばいいのだ、と美沙は考えていた。

できれば美沙は、怜子を日本へ送るよう同行しようと決めていた。

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 ジャイプールにて                         第2章 完

「annと小夏とインド」
更新しました。庭と犬です・・・

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長い2章にお付き合いいただきありがとうございました。
いよいよ、怜子は日本にもどり美沙のデリーでの3年目が始まります。
第3章もどうぞご高覧いただけますように。
21日より始まります。どうぞよろしくお願いします。
応援のクリックもよろしくお願いします。
by akageno-ann | 2008-04-20 14:51 | 小説 | Comments(21)

デリーの冬

インドを舞台に日本の女性の生き方をテーマにした小説です。
1話だけでもおつきあいくださったらうれしいです。 

第130話

デリーの気温は12月に入るとさすがにベッドに入ると、毛布がほしくなり、明け方はそのぬくもりでゆっくりと眠れることが幸福感でいっぱいになるようだった。

「布団かけて寝られる幸せをかんじますねえ」

家族的なパーティの多い時期にもなり、皆口々に「冬のデリーはいいなあ、」
と語り始める。

それほど、10月末までは、「いつまで続くのだ、この暑さは」
と、うんざりする一日中の暑さに滅入っていたのかも知れなかった。

暑さだけでなく、雨が少ないので乾燥し土埃は舞い上がり、哀しい状況があった。
しかし美沙の家のダスティングという家中の埃をはたく作業をサーバントのシャンティは
まめに行ってくれていた。

しかし驚くのは隙間があるらしく、少しではあったが、クローゼットの中までその砂埃は入っていた。ここでの洗濯はホテルで頼めるときいていたが、殆どのものを家庭で行っていた。
美沙や怜子はアイロン仕上げはサーバントに頼んでいたが、大きなテーブルクロスと
サリーだけはいつもの木陰のアイロンかけの家族に頼んでいた。

しかし洗濯はそれぞれ日本から中古の洗濯機を持ち込んでいたのだが、水が悪く、白い肌着は10回も洗わないうちに、灰色になってしまっていた。

自分はともかく、毎日勤めにでる夫たちにはシンガポールなどの買出しに行くときに
買い替え、なるべく白いものをと思っていたが、それも次第に諦めのような慣れに変化するのだ。

その水による色の変化は漂白剤で消えるものではなく、積み重なったものは毎朝フィルターを通して煮沸してから飲む水であって体の中でどういう変化をもたらしているのかと、不安になることもあったが、それすらもやがては慣れてくるのだ。

水に関して特に神経質なのは相変わらず日本人だけで、レストランに行っても
「ジャパーニ・・・」とわかると普通の水は出されなかった。

欧米人は気楽に飲んでいる向きを感じていたが、この水が生で飲めないという習性は大きな事件事故に巻き込まれたときは一番弱いことであると感じさせられた。

しかし、日本人同士の会話の中で水に気を使っているかどうかは、大きな問題で、特に子供同士の付き合いの中でも招待する家は与える食事や飲み物にも特に注意を払った。

もしお腹でもこわしたらそれこそ大変な問題になる。
この頃になると旅行者も増え、友人関係がここを訪れることがあるが、旅先のホテル住まいでやはり水と油にたたられ、家に招いて日本食のお粥や茶碗蒸しでもてなし、安らぎを与えたという話も少なくない。

夏ほど大変でないデリーの暮らしであっても、やはり注意していくことは不可欠だったのだ。

美沙も怜子の病状に気をかけながらもこの穏やかな空気のデリーの暮らしが長続きするように願っていた。

しかし、その日は突然に訪れた。

シャンティが呼び鈴で出て行くと、大急ぎで戻ってきた。

「マダム、北川マダムのところのファトマが、マダムに急いで来てほしいそうです。」

大分上手になった英語でシャンティは心配そうに告げた。

美沙は大急ぎでファトマについて北川家に向かった。

                                         つづく

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冬は日中は10度近くあるが、夏の日差しで汗腺が開いてしまった肌には寒さはこたえるようで、セーターを着る人が増える。        

「annと小夏とインド」
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by akageno-ann | 2008-04-18 08:21 | 小説 | Comments(22)

ドビーのいる風景


インドを舞台にした小説です。あらすじは下にあります。
この小説の冒頭は・・こちらへ


第129話

怜子の病状について三人は一旦口をつぐみ、少し本人の様子を静かに見守ることにした。

そのことで、いきなり具合が悪くなるようには思えない顔色であったし、何より本人がデリーに滞在することを強く望んでいることを夫の北川はよく承知していた。

親類縁者がいない、この地での暮らしは横槍が入ることなく、二人だけの時間を思うままに堪能できることが、北川夫妻にとって貴重なことであった。

日本の実家は高知にあったが、親戚も多く何やかにや世話を焼きたがる、また意見したがる人々に、デリー赴任前は囲まれて過ごしていた。

怜子が子宮癌の手術でインドから戻ったことは、大げさでなく、居住する街にひたひたと伝わり、おそらく殆どの町人が知っていたとしても不思議はなかった。

怜子はここでは有名な看護士で、高等教育を受けて大学の看護学まで学んでいたから、高知へ帰ればまた、病院からの引きはすぐにあるだろうと言われていた。
いわゆる、この街での成功者の一人に数えられていた。
実績だけでなく、溌剌として親切な態度は確かに皆に慕われていたようだった。

だが、子供を持たないことにはひどく手厳しく、結婚をしたものの次ぐべき家の跡取りをつくらん・・と男たちは酒の席では必ずなじるような輩もあった。

インドに渡るとき最後に

「はように子供を作って戻ってこなあかんぜよ」

という酔っ払った親類の男をひどく蔑んだことを怜子はふと思い出していた。

後悔するのではなく、その後彼女が子宮癌という病で大手術になってもどったとき

その男には会いこそしなかったが、何を思っているだろうと、想像しただけで傷は痛んだ。

あのまま日本に、その高知の実家にもどったままだったら、恐らくは今のこの穏やかな生活はなかったであろうと容易に想像できるのだった。

地方都市での密接な人との関わりは、時としてこういう苦しみを伴うことがあると、ここデリーでは客観視できることが救いだった。
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 そんな怜子はデリーの日常の中の、ある風景が大好きであった。

 怜子の家の前にはいつもドビーという洗濯物をアイロンかけする親子が大きな木の下に
ひっそりと陣取って、仕事をしていた。
真夏の日中も母親は炭火のアイロンをもって黙々と仕事している。
この2年半あまり雨と日曜日以外はおそらく殆ど毎日同じ木の下でその母子4人が寄り添って仕事する姿を見ることができた。

朝は比較的ゆっくりで、先ず長身の男の子が母親とリヤカーを引きながらその木陰にアイロン台を設え、そのそばで母親が炭火を熾す。男の子はその間に自転車でお得意さんの家々を回りアイロンかけの仕事をもらってくるのだ。
日中は母親が一人で汗をぬぐうこともなく、サリーやテーブルクロスなどにアイロンをあてる。
仕事がいいらしくかなりの量の洗濯物を預かったようだ。
水を殆ど使わず、大きなテーブルクロスもパリッとさせる技を怜子も実感したことがある。

昼はほんの少し休んでいる姿がある。それをみると怜子はほっとしていた。

午後になると、学校に行っていたのだろうか、今度は男の子が自転車の前と後ろに可愛い女の子を乗せ、連れ戻ってくる。

女の子はまだ小学校1年生くらいの幼さだが、二人で歩いて周れる家に出来上がった洗濯物を届けて小さなお金をもらうのだ。

怜子の家ではサーバントのファトマがたいていの場合受け渡しをしていたが、たまに怜子が出ると、インド人でないことがわかるのか、少し物怖じするような姿が可愛らしかった。

兄らしい男の子は自転車で届けるからかなり遠くの家からも預かっていたのかもしれない。

そして夕暮れになると、その仕事の道具を片付けて、リヤカーに母を乗せて、子供たちがそれを引いて帰るのだ。

この2年半の間に母親は変わらない様子だったが、少年は大きく成長し女の子もとても受け答えがしっかりしてきていた。

怜子はこの光景をずっと覚えていたいと思い、体が辛いときは居間の窓を開けて、外が見えるソファに横たわって眺めることがあった。
デリーの風景は心を慰めてくれる優しいものがあった。
                                         つづく

「annと小夏とインド」
konatuの動画第二弾・・アップしました。

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by akageno-ann | 2008-04-16 19:59 | 小説 | Comments(20)