<   2011年 04月 ( 14 )   > この月の画像一覧

デリー第一日 その2

再録アンのように生きる インドにて
デリー第一日 その2

同じ頃平田よう子もまた、最初の宿を提供してくれた教員一家の家で朝を迎えた。

一人息子と三人の教務主任の家であった。
青森から赴任してきた熱血漢と言った感じのその家の主人坂田は話したいことが山ほどある、と到着の午前3時から結局5時まで学校の事情を細やかに話し出した。

平田久雄は次期教務主任候補だったので、これもまた熱心に

「私は飛行機で寝てきていますから、」と質問もさまざまにしながら話あった。

妻のよう子は体調がすぐれないので、と断って、娘明子と共にベッドルームへ案内してもらっていた。
表情もくらいので、坂田夫人は少し気が重くなっていた。

坂田夫人は学校の夫人たちの中でも なんでも卆なくこなす人として一目置かれ、中学校の音楽の教師であったことを生かして、音楽の非常勤講師をしていたから、学校のことにも発言権がかなりあった。

小学校教員であった平田よう子に、是非自分のポストを譲ろうと考え、この初対面を楽しみにしていた。 しすぎていたのかもしれない。

到着し、広々としたセッティングルームに通して冷たい檸檬ティを出したが、一口のんだだけで、話にも殆どのってこない。

やはりデリー赴任は重荷なのかも知れないと思わせる雰囲気で、腕の中で眠る一人娘明子を放そうとしない。

坂田家にはアヤという職種の子守のベテランがいて、さっそくそのアヤに面倒を見させようとしていた坂田夫人の思惑はすっかり外れてしまった。

坂田夫人はこれから一週間よう子を面倒見るのであったから、自分の張り切りだけが浮いてしまった形になった。
明日から他の二組とも一緒に買い物をと思っていたが、これは別行動がよそさそうだ、と既に頭をめぐらせていた。

「う~~ん、これは難しいものね。」坂田夫人はどうしたものか、悩んだ。

「でも、まだ一日目。しかたがないかもしれないわ。」そう自問自答した。

他の二組のお世話をしている夫人たちに電話をしてその日の日程を別行動で行うことを伝えると、それぞれに快諾、車を彼女が出すことになっていたが、皆それぞれにタクシーなど調達するという。


「よう子さん、とお呼びしていい?」そう気さくに坂田夫人はよう子に話しかけた。
「はい、すみません、ご心配かけます。急に自信がなくなりました。」

「わかります。私も最初飛行場が古い駅舎みたいで、ほんとにショックを受けたの。今年は新しい空港だったけど日本と違いすぎるかしら?」

「インドの人の目が怖いです。空港から出ようとした時の射抜くような目を見たら、外には出られないです。」

夫人ははっとした。こんなに小さな子供をつれて、この地を初めて踏んだら、それは正直な感想だと。

「そうだわね。私はもう気にならなくなってしまったんだわ。」

「慣れるものでしょうか?」

「えぇ、慣れますとも。でも今夜早速ある、日本人会のレセプションに明子ちゃんを置いていくのは不安だわね。」

「え?私もどうしても出なくてはなりませんか?」

「毎年恒例でね。よほどのことがなければ出席した方がいいわ。病気か何かと思われて、すぐに噂になってしまうから。でも貴方の気持ちは同じ一人っ子を持つ私はよくわかるので、今夜は私が欠席して明子ちゃんをお世話します。貴方は頑張って紹介をうけていらっしゃい。」

そう申し出てくれた坂田夫人の気持ちに打たれて・・よう子は

「ありがとうございます。でもこれからなれなくちゃなりませんから、今日もお宅のアヤ(子守)さんに明子をお願いします。」

健気なよう子を愛おしいなと、坂田夫人は思った。

それから二人は気持ちが打ち解けて、新しいよう子の家のためのカーテンはじめ、家財道具を買いに行こうということになった。

よう子は高級志向で、何でも買い物は吟味してきた。
だがここでの暮らしはそんな悠長なことを言ってはいられないようだ、と悟った。

坂田夫人に習い、導いてもらわねば、お金を換金することもできないのだ。

まず、T銀行に向かった。コンノートプレイスという中心地に近かった。

比較的立派なビルの一階にその銀行はあった。

内部はセピア色の風景のようなレトロな感じの場所であった。
よう子はまだ自分がデリーに住んでいるという感覚はなく、映画のワンシーンでも見ているように、呆然としていた。


一方、住宅街を歩いて、これから住む家に向かう、美沙と安岡夫人は新しいオーナーがシーク教徒であること、ターバンを巻いている男性はシーク教徒というヒンズー教とは異なる宗派の人々であることなど話してくれていた。

「感じの良い人ではあるけれど、私たちもまだ一度しか会っていないので、最初からあちらの言いなりにならないようにしてくださいね。」
と、念を押された。

家賃の交渉はこれからだからである。

安岡家とその新しい家とは川をひとつ隔てたブロックだった。
不思議なことにその住宅街は殆ど人が歩いていなくて、車の横行も少ない。

「こんな静かな住宅地があるんですね。」
美沙には何もかもが驚きの連続であった。

まもなく見えてくる家並みのちょうど三軒目が美沙たちの新居だという。

レンガ色に塗られた壁は新しい感じがした。
美沙たちは三階建ての2階のフロアーを間借りすることになっていた。

1階にオーナーが住んでいるのだ。

門番が立っていた。
深々とこちらに頭をさげて、

[グッドモーニング マダム]と言って、安岡夫人を知っているといったそぶりで、中のオーナーに知らせにいった。

今日からこの家に住む・・・その感慨で胸がいっぱいになる美沙だった。

                              つづく

にほんブログ村 小説ブログ 現代小説へ声援に感謝します。

小夏庵にも→☆
by akageno-ann | 2011-04-28 21:01 | 小説 | Trackback | Comments(0)

デリーの第一日

再録「アンのように生きる インドにて」

デリー第一日
安寿と厨子王という森鴎外の物語。
母と子供たちが離れ離れに引き裂かれて・・・日本海の荒波を
二艘の船が・・別れ別れになる図を絵本で見て、幼心に残っている・・・

美沙はついそんなことを考えてしまうほど、あたりは暗闇でこれから到着する場所はいったいどんな場所なのか・・・意外に・・・ということは起こりうるのか・・・デリーの生活上先輩である教員たちの家族は一行の到着を家で待っていてくれるという。

4月のデリーはまだ夜中のせいか予想していた暑さはない。

「実際は楽園でした~~~~」ちょっとサプライズ・・・なんてことはないだろうと・・・
考えを逡巡させながら・・明るく明るく振舞っていこう・・・と決心しながら

バスに揺られ・・40分ほどもたったであろうか・・・立派な佇まいの家並みがつづく住宅街に入ってきた。ポツンポツンと日本のそれと同じように、明かりのついた家がある。

同乗してくれている今晩の宿を提供する安岡カズオがにこやかに
「お疲れになったでしょう、今日はゆっくり・・といいたいのですが明日はもう学校ですから・・まず休んでください。」と話した。

その身なりのすっきりとした雰囲気にも安らぎを感じて、一段と煌々と2階の部屋の明るい大きな住宅の前に到着したことを片山夫妻は知った。

ご近所への配慮は?と、美沙たちは思ったが、比較的どっしりとした建物で、隣が隣接はしているがさほど迷惑ではないようで、かなり賑やかに二人の荷物は降ろされ、バスの運転手や荷物運びのためのスタッフに安岡は軽い労いのことばをかけて、その家に入っていった。

美沙は深々と頭を下げて彼らを見送った。日本ならここでご祝儀、外国だからチップは?と思ったが、安岡に任せていた。

「さあ、どうぞどうぞ。用こそいらっしゃいました。」
明るい若々しい声が二階から聞こえてきて、美しい日本女性が現れた。
安岡夫人だった。その後ろにひっそりと上品なインド人女性がいて、マリーというお手伝いさんだという。

美沙はまたここでとびっきりの笑顔で安岡夫人とは握手し、マリーには会釈した。

さっそく夫人の手で冷たい麦茶が出され、マリーは美沙たちの荷物を寝室に運んでくれたようだ。
「如何でしたか?フライトは・・順調でしたか?」
「はい、とても穏やかな飛行で時間も予定通りだったように思います。」

女二人はそこでかなり打ち解けて話をしているのを見て、男たちも明日からのスケジュールをさっそく話し合った。

時計はすでに午前三時をまわっていた。

安岡は
「積もる話は明日以降ゆっくりできますから先ずは今日は横になってください。」
と打ち切った。

逸る気持ちを抑えて美沙たちも与えられた寝室に入った。きちんとバスルームのついた
古いけれど暖かい部屋に落ち着いて、ベッドに横になるや一応は少し眠ったらしい。

6時にはもう目が覚めていた。うつらうつらの状態であったので美沙はここの主人たちが起きてきたら寝室を出ようと用意した。

[マリー、朝食は四人前よ]
と英語で指示する安岡夫人の声を聞いて、部屋のドアを少し開けてみた。

「あら、おはようございます。少しは眠れましたか?」

「はい、ありがとうございます。気持ちの良いベッドでした。」

部屋は朝の光と風が入ってきていて、爽やかさがあった。
開け放された大きな窓からベランダに出た美沙は、その清清しい空気に感動していた。
「こんなに涼しい朝なのですか?」
「えぇ、でも朝だけなんですよ。これからあっという間に気温が上がります。」

しかし、酷暑の夏をイメージしたデリーの初日の朝に清清しさを感じられただけでも嬉しいと、美沙は思った。

サーバントと呼ばれるお手伝いのマリーは年配だが細身で大変綺麗なインド人だった。
[グッドモーニング、マダム]とはにかむ姿にも楚々としたものがあっていい感じであった。
美沙の方も航空会社のお土産サービスで用意した、干物を土産の一つにしていたら
その朝の食卓にも塩鮭や卵焼き、味噌汁に白米がきちんとした膳に載せられている。
目を見張ったのは、その食卓を用意しているのは、マリーなのだ。

「こうしていつも彼女が作るのですか?」
「えぇ、はじめは教えましたが、今はもうこの朝の食事は彼女だけで作れるんです。片山先生のお宅の子はローズといいますが、若くて頭のよさそうな子ですよ。」

美沙はその言葉に大きな期待を寄せた。
翔一郎も元気に起きてきて、さっさと仕度もすませていて、やるき満々である。
おそらくほっとしているのであろう、と美沙は想像していた。

デリーの第一印象は相当に良かったのである。

夫たちは、7時過ぎに、昨日ここまで彼らを運んでくれたバスが、また迎えに来て、二人で乗り込んでいった。何人かすでに子供が乗っていて、今日は本来のスクールバスとして稼動していた。
綺麗な女性はコンダクター役で、にこやかに新参の教員の片山に挨拶した。
それに向かって手をふり、またコンダクターにも会釈して挨拶する美沙の笑顔は明るかった。初日は二重丸だと、美沙は思った。

「お茶にしませんか?」
と安岡夫人に声をかけられ、思い切り優雅な雰囲気を作り出そうとしてくれるその人に感謝をした。
女たちはこれからまた、ここでの新しい暮らしのために動き出さねばならない。
8時過ぎにはほんの2時間前の涼しさはどこへ行ったのか?と思わされる太陽の光の強さを感じられた。
ふたりのマダムはそれから9時頃まで様々な話をしたあと、新しい美沙たちの家にむかった。安岡家から歩いて10分ほどの場所であった。

                                    つづく

にほんブログ村 小説ブログ 現代小説へ声援に感謝します。

小夏庵にも→☆
by akageno-ann | 2011-04-27 07:56 | 小説 | Trackback | Comments(0)
少々時間があいてしまいました。こちらに訪問してくださり申し訳ありません。
また続けさせていただきます。

アンのように生きる インドにて

デリーへの道 その4


空港のすぐ外で待ち受ける人々の群れ・・その中に一列横に広がるように5~6人の日本人男性たちが、これはもう本当に日本人の笑顔!!という明るい顔で手を振ってくれていた。

現地日本人学校の先輩教員たちだった。
女性のインド人スタッフもいて、美しい山吹色のマリーゴールドで作られたレイを新参者一人ひとりにかけてくれた。平田よう子は、ちょっと怯えて、抱いている娘の明子をしっかり抱きなおし、そのレイは夫の久雄が受け取っていた。

よう子はますますの緊張感があるのだ、と美沙は感じていてが、彼女は相変わらずの笑顔を振りまくことに専念している。

「ようこそ、デリーへ。お疲れさまです、お待ちしていました。」

出迎えの日本人のその力強い言葉に『待っていてくれた、』という感動が伝わってきて、

『この初心を支えにしよう』 と平田久雄は強く感じていた。

美沙もまた、

[マダム、こちらへ]

というインド人スタッフの言葉にいい知れぬ感動を覚えていた。

この日から、3年間はまぎれもなく、インドに住む日本人マダムであった。

中型の日本製のバスは、日本人学校のスクールバスで、毎年この時期は任期を終えた家族を送るときと、こうして新任の一家を迎えるときにに一台ずつあてがわれることになっていた。

初対面の簡単な挨拶を インド人の烏合の衆のギラギラと闇夜に光る目に驚きながら、交わして三家族はここでばらばらにバスに乗り込む。

このときから三年間、三家族は様々に変化しつつ、また重い荷物を自ら運ぶことなどほぼなくなることに、まだだれも気付いていず、されるがままについていく美沙たちだった。

インド人の群れは全てが迎えの人々ではないのだ。
その人々の群れがどういう目的なのかもこれからわかるのかもしれないと、美沙も他の者たちも口にはしなかった。

空港はさすがに煌々と明かりがついていたが、車が長い空港へのアプローチである道路を抜けると、すぐ、そこは予想通り、いや予想以上の暗黒の世界だった。

灯り一つなく、バスが照らすヘッドライトの光だけで走っている、かなりのスピードで。
その光に映し出される家らしい陰も静まり返り、かなりみすぼらしいものが点在していた。
眠いはずだが、バスから外を食い入るように見る片山夫妻の目は爛々としていた。

                                    つづく

にほんブログ村 小説ブログ 現代小説へ声援に感謝します。

小夏庵にも→☆
by akageno-ann | 2011-04-24 18:03 | 小説 | Trackback | Comments(1)

デリーへの道 その3

東日本大地震の被災地の光景は映像には映らない面こそがいかに大変かが、少しわかる。
インドにいたときに 日本に送る映像の中に匂いはなかった。
匂いは「臭い」があっているかもしれない。

アンのように生きる インドにて

デリーへの道 その3

空港は想像以上にきれいで、白を基調とした壁も本当にまっ白い。

大きなエレベーターがあり、三家族の全員が乗ることができた。
一行と一緒に『ブ~~ン』と一匹の蚊が入ってきた。

美沙の夫の翔一郎が

「あ!蚊が」
と小さく叫んだ。
航空会社支店長は落ち着いた声で

「蚊はおります。」と応えた。
一同は思わず苦笑した。

蚊がすべてマラリアの媒体の蚊ではない。

なんと臆病なものたち・・・新参者の教員チームは一瞬にして自分たちがある種の畏れを持ってここへ到着したことを見破られてしまった・・と苦笑いになった。

だが、そのことを偉そうに説明するでもなく

「蚊はおります」とにこやかに言ってその場の雰囲気をとりなした航空会社支店長の風格は新参者たちに大きなエネルギーを与えた。

エレベーターも無事二階から、一階まで降りた。

片山夫妻と、平田久雄は、この時のことをその後もずっと覚えていた。

入国審査は外国人枠に並び、パスポート片手に係官の前にたつ。
一人ひとりに長い時間がかかり、これほどパスポートを裏も表もひっくりかえしてまじまじと眺める図は珍しいとヨーロッパにちょこっと旅行しただけの知識でも、美沙には異様に感じられた。

夫の次に並んでいたので、無愛想につったっていた翔一郎を見ながら、美沙は初めてここで会話するインド人に思い切り笑顔で接しようと決めていた。

[ハロー] と、明るい声で挨拶して、にこやかな表情で相手を見た。

係官は相好一つ崩さず、美沙が差し出したパスポートを片手で開き、顔はこれ以上ない、というほど胡散臭そうに・・見返していた。

「デリーは甘くない・・」と美沙が感じた瞬間だった。

到着ロビーを抜けて預けた荷物の出てくるターンテーブルに向かう。
既にインド人のスタッフが何人もいて、それが各家族に3人ずつあてがわれ、二人はカートを、一人は回ってくる荷物を持ち主に確認してもらいながら、順調に取得していった。

キビキビと動き、にこやかな笑みまで新参者の美沙たちに向けて、一家に二台のカートに積まれた大きなトランクや超過料金をかなり支払って持ち込んだ、ダンボール箱数個を出口に向かって押して行った。

そのあとをなるべく間をあけないように注意されながら、先ほどの領事の方が厳しい顔になって、次々と到着ゲートに誘ってくれた。

何人ものインド人係員がその荷物をじっと見守る姿をみて、

『そうだ怪しまれて、そこで荷物検査に引っ掛からないための緊張感だ』とわかった。
幸いどの荷物も引き止められることもなく、無事出口へ、真夜中1時半を過ぎていたが驚くほどのインド人の人の波に息を呑んだ。

匂いも、日本のそれとは全く違って、異臭ではないが、これがインドの匂いと印象付けられる、まだ得たいの知れないものが流れていた。

                              つづく

にほんブログ村 小説ブログ 現代小説へ声援に感謝します。

小夏庵にも→☆
by akageno-ann | 2011-04-14 22:54 | 小説 | Trackback | Comments(5)

デリーへの道 その2

アンのように生きる インドにて 
デリーへの道 その2

いよいよ美沙たち三家族は、インドニューデリーの地に降り立つことになった。
日本の地方の空港のような大きさの それでもしっかりとした白亜の空港ビルが見えた。
しかも蛇腹のゲートが飛行機のドアにつけられるようだ。

「ちゃんとしているじゃない。」 

美沙がデリーの地で最初に発した言葉だった。
小さく自分のために。

無事に着陸し、出口は開けられた。殆どがインド人の乗客たちが・・ざわざわと降り立ったあと、最後まで残された三組の教員チームが、客室乗務員の丁寧な導きで飛行機を降りた。

その降り口には二人の日本人が立っていて、

「ようこそ、デリーへ、お待ちしていました。」と迎えてくれた。

一人は航空会社のデリー支店長であり、もう一方が在インド日本大使館の領事だった。

その丁重さに驚きつつ、教員チームはぞろぞろと彼らについて、入国審査に向かった。

立派な建物で、新しく綺麗だった。

どれほどその三家族の面々がほっとしていたか日本に残した家族は想像できないであろう。

新築したばかりのこの空港に降り立てたことは、デリー初対面の三家族の彼らには かなりの幸運であったといえよう。

1年前のこの空港はどこか小さな異国の古びた駅舎のようで、初めて到着した人々を恐れおののかせたと、あとで今年の新参者は聞いたのだった。

せめて玄関で『ぎゃふん』と言わせまいとする その堂々とした新しいインディラガンジー空港のたたずまいは、美沙たちを心より歓迎してくれるように感じられた。

                                     つづく

にほんブログ村 小説ブログ 現代小説へ

小夏庵にも→☆

c0155326_2143101.jpg
c0155326_21433757.jpg

by akageno-ann | 2011-04-13 21:42 | 小説 | Trackback | Comments(1)
昨日の一章(インドという国?)に「アンのように生きる」のタイトルのきっかけを書いたら、友人が長いメールをくれた。
「前にも読んでいたけれど、今回改めて 赤毛のアンの小説の中にインドに行くと行っていた友人の宣教師夫妻がいて結局日本に住んでいる・・という件があったのを私も思い出しました。この時期に今日本が世界の先進国の仲間に入って突っ走っていたところに、ふと天に引き止められたような気がしていたけれど、そうではなくて・・世界中が平等に進んでいく時代なのだ、と思いました。・・後略・・・」との言葉・・・あり難く読ませていただいた。
インドの暮らしの中の不便さやチェルノブイリ原発の事故のことも、当時他人事のような少し上から目線でみていたことがあるのではなかったか・・と反省もあります。
人々は気づいたときに、またそこから一歩ずつ進んでいくのだ・・との思いを強くします。
本当に謙虚であれ・・ということはこういう事態のときに気づかされます。

一ヶ月前まで皆そこそこに幸せであった・・という感を持っておられるでしょう。
一瞬にしてどん底に突き落とされるようなことがこうして起る。
私は親しくしていた従妹が脳内出血で倒れた6年前の日が正にそうでした。
生死を彷徨った彼女が一命をとりとめ、しかし二週間後目覚めたときは左半身不随だったときのことをまざまざと思い出します。

だが諦めずにここまできたら、今は絶対不可能と言われていた彼女の左足は体温が戻りリハビリ中に動きの可能性を見出せるようになってきているのです。復活の道を確実に歩んでいます。

では、小説を続けます・・

「アンのように生きる」インドにて
デリーへの道

成田を午後4時に離陸した飛行機は、途中バンコクでトランジット、一緒にここまで乗ってきたスリランカ組はここで乗り換えることになっていた。

初めて出会った人々も多い中で、また機内で親しく話すというのでもないのに、これから始まる未知の生活への不安が、互いの連帯感をつないで、およそ15人ほどの大所帯で空港待合室で記念写真を撮った。

皆一応に明るい表情をしていたが、平田よう子だけは幼い娘の明子を抱いたままひどく暗い表情であったのが美沙は気になっていた。
デリー組のもう一家族、山下文子は、ここでは二人の男の子を連れて気丈な明るさを示していた。

バンコクからデリーは4時間ほどのフライトで、そのとき既に現地時間、夜の8時を回っていたから、到着は真夜中になることは間違いなかった。

最後の機内食が出たとき、添えられてくるワインや、ジャム、バターに至るまで、美沙は食欲が落ちていたのを言い訳に、それらを使わず、そっといただいて、手提げカバンに忍ばせた。

ふいに明日からのデリーでの食事をどうするかが急に不安になったのだ。

こんなに行き届いた食事がいきなりデリーでできるかどうか自信がなかった。

パンは、ご飯は、そして夫のお弁当は・・・何度も反芻して考えていたはずの細々したことが、再び蘇り、そしてすべて闇の中に落ちていった。

出発までの疲れがあったために一寝入りしたらしく、しばらくして、美沙はふと目覚めて機内から窓の外をのぞいた。

眼下は真っ暗で もう1時間もすればインディラガンジー国際空港に到着と言うのに灯りがないのはどういうことなのか?

暗黒の世界にでも降り立つような覚悟でもしなければならないように緊張感が走った。

機内では入国審査のカードが配られ、不慣れなのでガイドブックを読みながら記入していった。職業・・ハウスワイフ・・主婦と初めて書いた。

機内放送が流れて、いよいよ高度が下がる。もう一度眼下を見下ろすと、ほのかな灯りが見え始め、黄土色のような大きな建物が見えてきた。

その建造物からは太い広々とした道路がまっすぐに走っていて、そこだけが美しい光景だった。
インド門・・・パリの凱旋門のように素晴らしいものであった。

リンドバーグの「翼よあれがパリの灯だ。」の名言をふと思い出し、

「そうだ、ここも外国。きっと心ときめく素晴らしいできごとも待っているに違いない。」
と一抹の不安を心から追い出そうとしている美沙がいた。

夫は比較的冷静で、これから始まる日本人学校の教師としての人生にかなりの期待感を寄せている。しかし、すべてそのプロジュースは自分の肩にかかっていることをこのときはまだあまり感じていなかったのかもしれない。

日本からほぼ9時間かかった、ここまでのフライトによって、日本での生活は完全に過去のものになってしまっていたのだ。

機は着陸態勢に入った。


                     つづく

にほんブログ村 小説ブログ 現代小説へ

小夏庵にも→☆
by akageno-ann | 2011-04-12 23:40 | 小説 | Trackback | Comments(0)

インドという国は?

アンのように生きる インドにて

インドという国は?

一口に海外派遣といっても、それは国によって全く印象も心構えも異なるのはあたりまえだが、単に東南アジアというのと、インドというのでも、またその感触は全く違ったものになる。

美沙のインド行きが決まってから、職場の先輩、同僚、後輩ともに様々な反応を示した。
「え?片山先生・・・インド。あのバナナの皮にカレー載せて食うとこでしょう?」

美術の先輩教師だった。

「マラリヤの蚊がいるんじゃないの?蚊に刺されたら大変じゃないの?」

「ええ、なんだか予防薬というのがあるそうよ。」

「ああ、そう、うちの犬も5月から毎年飲んでるわ。」

「それはヒラリヤでしょう・・心臓がやられる・・」

仲良しの同僚の女性教師とこんなやり取りもした。


生徒の方は、美沙のインド行きを聞きつけると
「片山先生、インド行くってほんと?コブラ使いとかみるの?」

「先生、あっちでも学校の先生やるの?インド人教えるの?」

「海外青年協力隊に入ったの?もう帰ってこないんですか?」

と、支離滅裂な質問を投げかけてくる。

しかし無理もない、大人だって、いやこれから間もなく渡印しようとしている美沙自身
でさえ、赴任先のインドを殆ど知らないのだから。

美沙は大人達のほうの、単なる軽い好奇心は捨ておいて、前途洋々の好奇心旺盛の子供たちにはきちんと話をしておこうと、ホームルームの時間を使って自分の知っていること、考えていることを話し始めた。

「私は、この3月で中学校を退職し、主人が今度、インドのニューデリーにある日本人学校に赴任することになったので、一緒に現地に行き、暮らします。
今のところ私の仕事は決まっていませんが、きっと何か役に立つことがあるように思います。

皆の卒業まで一緒にいられなくて残念だけれど、私も新しい場所で新しい気持ちで頑張るので、皆にもこれから自分の人生をどう切り拓いていくか、考えながら進んでほしいと思っています。」

突然、一番前の席に座っていた女生徒が泣き出した。
「先生なんで、やめるの?」

「えぇ、私も本当は昨年の今は全くこのような事態は想像していませんでした。
でも主人と相談して、(本当は主人が勝手に決めたことだったが・・ここは夫をたてておくことにした)新しい挑戦をすることにし、主人が試験を受けました。

私が受けたんだったら、辞めないでまたここに戻って教師になれるんだけど、二人で受けちゃったら、場所も違うしね・・」とここはみんなで笑った。

『私が受けたら女だったから、もう少し安心な国だったろうか?』
など邪な思いも過ぎったが、それも笑って心にしまっていた。

「この制度は公立や、私立の、小中学校の教員に海外で暮らす日本人の子供たちの教育をなるべく日本と同じように与えられるように、考えられたものなの。
もちろん日本人学校の無い国もあります。だから日本人学校のあるインドは、日本の企業や商社、また国同士の交渉をする外務省やそのほかの省庁の人たちが家族と共に現地に住み、その子供たちが学校で勉強しているわけです。
皆も社会でいろいろな国の勉強をしているでしょうけど、インドのことはどれくらい知っているの?」
と、問いかけてみた。

子供たちは、それぞれにインドに対する思いをめぐらしてみているようだ。

「先生、やはりインドはカレーを食べるんでしょうか?」

「インドは英語なの?」

「インドは暑いんですか?」

次々に、子供たちは答えとも質問とも違う、自分たちのうる覚えの事柄を述べ始めた。

「そうね、実は私も皆と同じくらいの知識よ。だからインドに決まったときは、どんな準備をしたらいいのか、戸惑いました。そして調べてみると、日本とはずい分違うようなのです。

先ず、食事、私は皆も知っているとおりの食いしん坊でしょう、何をおもに食べるのかはとても大事なことです。」

子供たちはとてもいい目をして、真剣に聞いていた。

「やっぱり、三食カレーらしいのよ。でもね、日本の人々は工夫して日本食を食べているようよ。だから私もお米、味噌、醤油、いっぱい持っていきます。」

クラスは和やかな笑いに満ちた。

「そして、言葉はヒンドゥ語なんです。
メーラ、ナーム ミサ カタヤマ へーイ」

勘の良い生徒が 笑いながら
「マイ ネーム イズ~のことでしょ?」と口を挟んでくれた。

「そうそう、似てるわね。でもちょっと文法が日本語的かもね。
へーイが 日本語のデスに当たるようだわ。」

「先生、すごい、もうしゃべれるんだ。へーイ・・って可笑しいね」

「あはは、これだけよ。でもね、幸いなことにニューデリーの第二外国語は
英語なの。昔イギリスの植民地だったこと、習ったでしょう。」

「なんだ、そうか。でも英語はしゃべれるの? 先生!!」

「鋭いねえ、君たちは・・・だめよ、だから中学校の英語の教科書持っていくわよ。日常会話は今の あなたたちの英語力だって、しゃべろうとする気持ちで通じるのではないかしらね。」

子供たちのまだまだ純粋な気持ちとこうして触れ合っていられる時間が
この時の美沙には何物にも代えがたい貴重な時間に感じられた。

様々な会話の最後に美沙は

「私はこうして教師をしているのは、小学校の時に読んだ、『赤毛のアン』という小説の主人公アン シャーリーがやはり教師をして、それから夫について様々な引越しをし、そこの人々と触れ合い、子供を育てて、人生を深く生きていく姿にとても感動したからなの。

その中でね、確かアンが結婚するころ・・『アンの夢の家』・・だったと思うんだけど、結婚式に出席してほしい仲良しだった友人の一人が、ご主人が宣教師で、日本に赴任中でアンのいるカナダに帰ってこられないっていうのね。
そしてその時、かつてその友人はインドに行くかもしれないと言っていたのに、今は日本よ・・とアンがいうところがあったと思うけど・・・・」

と、いう不確かな話にも、美沙自身ここではっとしたことがあった。そして

「アメリカや、カナダの人から見れば、インドも日本も 遠くの全く未知の国であることには変わりはないのだわね。だから私もきっとインドで元気で暮らせると思うわ。」

と、結んだ。デリーへの道の第一歩を踏み出した。

生徒たちは、特に女生徒には、この時の美沙の言葉はその後も深く印象に残ったようであった。

           つづく

にほんブログ村 小説ブログ 現代小説へ

小夏庵にも→☆
by akageno-ann | 2011-04-11 22:01 | 小説 | Trackback | Comments(1)
インドというと一様に
「え?あの暑くて貧困の国でしょう?」とかつては評されていただが、この20年の間の発展は非常に大きく、当時輸出入の規制も多かったその国は 経済発展の著しいBRICsに数えられ、コンピューターソフトの開発事業は大きく先んじることに成功していた。
かつてイギリス領土になっていた時代もあり、準公用語に英語が使われるなど、自国の原語が15種リ以上あると言われる多民族国家ながら、世界に共通する教育理念ができあがろうとしていた。
会話としての英語が普通に使われている姿は、英語の読み書きが得意な日本人にとってはかなりな脅威であった。

小説「アンのように生きる インドにて
インドへの 出発まで その4

片山翔一郎もまた、翌年の1月始めに、インドニューデリー日本人学校派遣の内示を受けた。

その日まだ正月気分で家にいた翔一郎は、電話で学校長より知らされたまま、その場に立ち尽くしていた。

思いも寄らぬ、派遣先に唖然としたままだった。

美沙は、その日から2日ほどは まだ新学期の始業式前だったので風邪をこじらせ寝込んでしまっていた。

思った以上にことは厳しく展開したようだ。

友人の三井が一回の応募でドイツへ赴任したと聞いて、
『どこへでも行きます』という踏み絵があるぞ、
と提出書類の書き方など助言をうけていたが、そのとおりに書いたわけだから、
仕方のないことだが、それにしてもあまりにも友人とのギャップが大きすぎる。

翔一郎から、決定を聴いた瞬間、美沙はドイツ・・インド・・の語呂合わせを頭の中でしていた。

インド・・・数日前・・そろそろ決まる・・きっとどこかへ行くことになるだろう・・と心配が募り、夢に見たのは、まったく未知の南米ウルグアイに決定したというものだった。

何故なのか・・ものすごく蒼い海が広がって・・・そこでの~~んびり暮らしている我が身があった・・

だからもし、赴任地が南米ならもっと『そうかア』と納得できたかもしれない・・など全く意味不明な感慨に襲われていた。

美沙の引いていた冬の風邪は珍しく発熱もあって、そのまま倒れこむように臥せったまま
1日は殆ど起き上がれず、姑の信子がさすがに心配して二階にあがってきた。

「美沙さん、大丈夫かしら? 貴方にはご苦労をかけるわね・・」
美沙はびっくりして、部屋のドアを開けて信子の声のする階段に歩み寄った。

「無理しなくていいのよ。ただショックが大きかったのではないかしら、と心配で」

美沙は素直になれず
「お母さん、大丈夫です。丁度風邪で熱が出ていたので、すみません。移してもいけませんから、もう少し寝たら起きますから・・」

と、他人行儀に応えた。

そのまま、もう一度ベッドに戻り、『このままではいけない、何とか元気を出さねば』と
自らを奮い立たせようとしていた。

 emoticon-0160-movie.gif
 片山美沙と平田よう子は同じニューデリー派遣教員の妻として霞ヶ関の国立教育会館の研修室で会った。

同時期に派遣される様々な国への健康管理の注意点などが講師の医師等によって説明されるのだが、インド・・ここほど、健康管理が危ぶまれる場所も少なかった・・

今回同時にニューデリーに派遣されるのは三家族。もう一家族の山下文子の夫は四国からの派遣だった。

始めはそれぞれに牽制しあっていたが、美沙は口火を切った。

「はじめまして。片山です。今後ともよろしくお願いします。」

「こちらこそ。お仕事は?」と、よう子が聞き返した。

「中学で教えてます。」

「そうなんだ。私は小学校よ。」よう子は美沙が教員であるのを喜んだ様子だった。

それを黙ってみている山下文子にも美沙は

「貴方はどちらからいらしたのですか?」と聞いてみた。
やや固い表情で

「愛媛です。」と関西訛りの返事が戻ってきた。

「どうぞ、よろしくお願いします。」と美沙がいうと

「私は教員ではなかったのですが、よろしくお願いします。」
と、文子は冷ややかに応えた。


2月、東京霞ヶ関で、寒さも忘れた3人の初対面だった。


           つづく

にほんブログ村 小説ブログ 現代小説へ

小夏庵にも→☆
by akageno-ann | 2011-04-10 14:25 | 小説 | Trackback | Comments(0)
今年も公立学校の教職員の間には来年度の在外派遣教員の応募を間もなくする季節になった。
どこの国へ派遣されるかは、先方の国の派遣施設の特別な要請が無い限り応募者の希望は全く通らない。それよりも筆記試験通過後に面接も重視され、持っている教員免許の種類、家族構成 などによって今はその年の暮れに発表がある。かつて20年ほど前は翌年の1月に入ってからの発表で、相手国の情況によっては三ヶ月に満たない準備期間はまことに短いものであった。
が、しかし 企業の人々はもっと厳しい情況の転勤命令が下っていた。 


小説「アンのように生きる インドにて
インドへの 出発まで その3

「何故?このタイミングなの?」

「お母さんより、私には先に話してくれなくちゃ!?
私は仕事を辞めなくてはならないんでしょう?
私の仕事ってそんなに軽いものなの?」

いくつもの疑問を夫翔一郎に投げかけたが・・「いけない」と思いつつも
泪が止まらない・・・

その日は階下の母信子が息を潜めて聞いているのを十分意識しながら美沙は不満をぶちまけていた。

翔一郎はその日の最後の捨て台詞に

「それじゃおれが一人で行くからいいよ」と言い残して、先に寝てしまった。

昨夜の食事の時に初めて翔一郎の海外への希望を聞いた二人の女たちは全く別の感慨で朝を迎えていた。

美沙は初めてその早朝一人だまって家を出て出勤した。

『親子二人で暮らせば良いのよ』と心で泣きながら呟いていた。
今夜は帰れるかどうかわからない・・・

しかし朝学校につくやいなや、教頭が

「片山先生、お電話ですよ、ご主人から」と少々冷やかし気味に取り次いだ。

美沙がいつものような軽口で受け取らず、少し緊張気味に受話器を握るのを見逃さなかった。

「はい、なに?」

『美沙、夕べは悪かったな、今日は夕食は外でしよう。お袋には言ってあるから心配ない。
池袋に出るからそこで待ち合わせしよう。』

電話の向こうの翔一郎は美沙に有無を言わせない。

「はい。わかりました、では。」

簡単に終えて職員室を出て、担任している教室に向かった。

2年生の一クラスを担任しているが、35人のクラスの子供たちは最近心身共に成長し、時には美沙にも友達のように接してくる。
美沙が比較的話のわかる教師であることを認めてはいるが、逆にそこで甘えが生じるらしい。軽い朝の挨拶を交わしながら、昨日の夜のことを忘れようと心がけた。

「先生、どうしたの?顔色悪いよ。」子供というのは時として、何気なくドキッとするようなことを言ってくれる。

「そうかしら?今日は気をつけてね・・機嫌悪いかもしれないわよ。」
と、美沙がいつになく暗い返事を即座に返したので、何気なく口にしたであろうその生徒のほうがちょっとひるんだ。

「さあ、朝自習始めなさいね。」

教室に入って、生徒の顔を見ながら、

『きっと、この1年で私はこの子達と別れることになるのだ。』と、わかっていた。

その日の夕刻7時に池袋の、昔よく待ち合わせをした駅の改札口で美沙と翔一郎は会い、しばらく歩いて、気に入りのパブに入った。

二人が好きなギネスビールにフィッシュ&チップスを頼むと、翔一郎はおもむろに語り始めた。
「わるかった、昨日は。あまりに突然だったよね。」

「わかっていたわよ。三井君がフランクフルトに赴任するって聞いた時の貴方の顔は、ようし俺も行くぞ~~て顔してたもの。」

「わかった!?さすが美沙ちゃん」とすぐにおどけるので

「あのネ、調子に乗らないでね、だからって、いきなりお姑さんと同列はないわよ。」

「ごめんごめん、でもね、多分あの形の方がお袋は簡単に承諾すると思ったんだよ。」

「なるほどね・・そこまで考えていたのなら許すと、言いたいけど、もっと簡単に考えていたよね、君は・・」

美沙はギネスのハーフパイント一杯目で酔ってしまう弱さだが、気持ちも楽になっていたようだ。

姑を持ち上げるのは、少し悔しさも残るが、

『これでもし受かって、派遣となればお姑さんを一人にすることになるのだ』

と現実的に考えると、これも仕方の無いことなのだと、美沙は納得せざるを得なかった。

これから先の二人の長い道のりは、この日を境に急に方向がかなり変更になったのを二人それぞれに再認識して、その夜はあまり遅くならずに、ヤキモキして二人を待ちわびる母 信子のいる家にもどった。

まだ年度初めの5月の爽やかな空気の夜だった。

つづく


にほんブログ村 小説ブログ 現代小説へ

小夏庵にも→☆
by akageno-ann | 2011-04-09 10:31 | 小説 | Trackback | Comments(0)
昨夜11時30分頃 入浴中の私の携帯がまたエリアメールの警報を鳴らしてくれた。
急ぎ着衣して間もなく、大きな横揺れ・・・また被災地がすぐに心配になった。
夜の余震は特に不安なことだと思った。

様々な不安材料をそれぞれの日本人が抱えながら生きていく春・・・
まだまだ予断をゆるされない日本の情況の中で小説を綴るのは、かつての生活地
インド ニューデリーでのインド人に学ぶ底力を感じる生活力を再び思い出したくて、2007年から1年間連載した小説「アンのように生きる インドにて」を編集再録させていただきます。

アンのように生きる インドにて」 出発まで その2

片山美沙は都内の公立中学校で国語の教師をしていた。

夫翔一郎は埼玉県の小学校に勤務し、その年の海外日本人学校派遣の試験を受けていた。

二人は結婚して6年になるが、まだ子供をもたなかった。

家庭は翔一郎の母親との3人暮らしである。翔一郎の母も教員であったので美沙が勤めることにも協力的で家事の殆どは母の信子が受け持っていた。

傍目には美沙は気楽で幸せな嫁だったが、美沙にとってその家庭はまだ自分のものではなかったのだ。

翔一郎はそれを感じ取っていた。一人息子の自分と母親信子との関係はどうしても密になり、言葉にはできない、プレッシャーや寂しさを美沙に感じさせていると分析してた。

そんなところに、学生時代の親友がドイツのフランクフルト日本人学校に派遣されたと知らせをうけ、そんな制度も知らないでいたことに衝撃を受けて、悶々とする日々をこの年度初めにもっていた。

翔一郎の一人っ子としての習性なのか、『やりたいことはすぐさま行動にしたい、できる、』
と感じて5月にさっそくあった今年度の募集に応募したいと思っていた。

埼玉県の彼の勤務校ではまだ派遣に応募するものもなく、校長も熟知していないようであった。

当時市内では3人ほどの教員が現在の勤務校に籍を置いて、アジア、豪州に派遣されているようだと、校長はさっそく調査してくれた。

「片山先生、僕は若い人たちはこういう挑戦は素晴らしいと思いますよ、推薦状はしっかり書くから頑張ってみては・・ただ母上の信子先生をお一人にしてしまうのがどうなの?」

校長は、母信子の後輩であったので、彼女の気性を知りながらも、型通りの心配をしていたのだ。

「校長先生、母は喜ぶと思いますし、恐らく赴任地にも遊びに来るでしょう。
ではどうぞよろしくお願いします。」

と、その時はまた妻の美沙にも話していない状況のまま自分の中で決定していた。

『美沙も おふくろから離れるいい口実になる。』そんなふうに考えていたのだ。


その晩、夕食のときに翔一郎は母信子、美沙の前でこの海外への思いを告げた。
                           
         つづく

にほんブログ村 小説ブログ 現代小説へ

小夏庵にも→☆
by akageno-ann | 2011-04-08 07:41 | 小説 | Trackback | Comments(2)

かけがえのない日本の片隅からの発信をライフワークとして、今は老いていくにも楽しい時間を作り出すことを考えています。


by ann