アンのように生きる・・・(老育)

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かけがえのない日本の片隅からの発信をライフワークとして、今は老いていくにも楽しい時間を作り出すことを考えています。

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停電

インド人家庭は大きな冷水扇風機というような、水の力で冷風を送り込む器械を取り付けて暑さを凌ぐが、外国人家庭はどうしてもエアコンを入れざるを得ない。

夜半になっても壁の熱が少しも冷めず、バスタオルをしいていると一晩でぐっしょりと汗を吸う。

平田よう子の家は日本製のエアコンを航空便で持ち込んだので、すぐさま寝室に取り付けて快適な睡眠をとることができた。

「パパ、他の家はどうしてるのかしら?このエアコンもってきてよかったわねえ。」

と、小さな明子(めいこ)のいるこの家庭の用意周到さは功を奏していた。


「1階にすんでいる人は大丈夫らしいけど、片山さんとこは2階だから大変そうだよ。」

「でも彼等は元気だから大丈夫よね。」と、深く考えるのはやめにした。

ここはとにかく、自分のことは自分で守っていくしかないのだ。

よう子は大分ここの少し不衛生な感じの暮らしにも、家庭さえきちんとしていれば、健康が守れると思えるようになってきていた。

無理をしてこの風土に合わせることはない。この家は日本となるべく同じ環境に保つよう努力しよう、と決心していた。

山下家は幸いにもクマールビルダーズという電機商会のようなところから、前年日本人から買い取ったという日本製のエアコンをレンタルすることができたのでほっとしていた。

夫人の文子はしっかりもので、何か買い物やタクシーを使うとき、大工を入れるときでも

「うちは子供が二人いるのだから、優先にしてもらわないと困ります。」と強く出ていた。

美沙は、このようなことで恨まれるようなことになりたくないので、言われるがままに順番をまった。
ここでも言われる、『子供がいないから大丈夫でしょう』・・・の言葉をいたしかたなく受け入れていた。

美沙の家には、所謂インド製の音の大きな しかし、なかなかの威力のあるエアコンが入れられた。

手際のいい、技術者のお陰で2時間ほどで3つのエアコンを入れてもらい、その機械工場のような大きなうるさい音のエアコンではあったが、部屋はすぐに冷やされて、ほっとした。

学校の勤めから帰る夫も喜ぶであろうと、嬉しい日になった。

学校は停電のためにクーラーが効かず、この夏の猛暑は軽く摂氏45度を記録し、息も絶え絶えに授業した様子を聞くだけで夫に感謝の念がわいた。

翔一郎は毎日5時過ぎにスクールバスで帰宅した。

「イヤア・・生き返るなあ・・今日も時間は短かったが停電があって、自家製発電機も容量が小さくて間に合わず、2階の高学年の部屋は暑い中での授業になったよ。でもね、子供の中には夕べ家の方でも停電で殆ど眠れず大変なのに、授業はしっかり聞くんだよ・・感動ものだな・・」

そうなのだ、こんなに大変な場所であっても子供たちはとても真摯に学習していた。

そういう姿をみていると頑張らねばならないと、翔一郎を支える家庭をきちんとしなくてはならないと、美沙は改めて思うのだった。

停電は猛暑になるほどに、電力消費を加減するためらしく、ブロック毎に時間を決めて停電させる。
それは2時間に及ぶこともあり、そういう時は留守宅のメンサーブは停電していない友人宅やホテルに避難するのであった。

 つづく
# by akageno-ann | 2007-12-30 20:41 | 小説 | Comments(4)

酷暑・・・・

デリーの5月はいよいよ暑さが厳しくなってくる。
インドは大きな国土なので、地域によって気候の様相はかなり違っている。
1年中そこそこに暑さの感じられる南インドとは違って、デリーには冬があると知って美沙たちはどんなにほっとしたかしれない。

ただただ暑いというだけの国に 四季のある日本から移り住むのは恐怖に似た感覚もあった。

4月当初は朝はかなり爽やかな空気も流れ、夜もさほどに暑くはなかったが、気温はじわじわと高くなっている気配は日ごとに増しているようだった。

5月になると、日中は常に摂氏35度を越え、その日差しの強さは想像を超えた。

ある日美沙は夫翔一郎と買ったばかりの自転車二台で町に繰り出した。

暑い日中はそんな人通りもまことに少なく、マーケットも客は疎らであった。

一応日陰を探して自転車を置き、盗難もありそうなので、鍵をかけて小一時間、二人は様々な店をひやかした。

まだ香辛料などの知識もなく、どう使うのかわからないが、黄色を基準に赤まで様々な段階の
色の変化で円錐形に盛られた香辛料の店の鮮やかな山吹色がターメリックという、あのカレーの色の素であることだけはわかった。

唐辛子のような真っ赤な色は思わず写真に収めたほど、美しかった。

ただ、天上を見たときに、破れたテントの上に青空が見えて、『ここは雨はふらないのかしら?』と誰かに問いたいようだった。

衣類はインド系のものはなかなかに面白く美しいものがあったが、いわゆる下着などの日常の衣類は手に取らずともその縫製の粗雑さが感じられた。

しかし品は実に豊富で少しも貧しい感じはしなかった。

特に買い物をしたわけでもなく、ここの生活の様子を見て戻ろうと自転車に戻った二人は

そのサドルが触ることもできないほど熱くなっていることに愕然とした。

そして、やっと家にもどると、メタルフレームのサングラスは美沙の頭に熱伝導でその熱さを伝え、ひどく頭痛がしてきた。

物見遊山は決してしてはならぬ、と思った瞬間だった。

酷暑という言葉を思い知る5月がゆっくりじっくりと太陽の高さとともに進んでいくのを肌で感じ始めていた。

ここから始まる夏は実に10月半ばまで続くのであった。

つづく
# by akageno-ann | 2007-12-29 20:59 | 小説 | Comments(2)

サーバントたち

デリーの暮らしに ここのサーバントたちの存在は欠かせず、最初ここでインドの人を初めて使わなくてはならないことに、日本人は臆する場合が多い。

しかし、到着後すぐに日本人家庭に滞在させてもらった美沙たち新人メンサーブ(マダム)は、このサーバントたちの威力を感じていた。

若い日本のメンサーブが、それほど堪能でない英語でもうまく使いこなしている姿を目の当たりにして、「使いこなす」という言葉にも多少の抵抗を感じながらも、やはり郷に入りては・・・の感覚を身につけようと思い始めていた。

現実は思っていたほど色々な問題がいきなり入り込んでくるわけでもなく、じわじわっと生活に慣れるようなのがわかって、少しほっとしていた。

しかし1ヶ月でメインのサーバントを切らねばならなかった、平田よう子は最初に大きな試練をくぐり抜けなければならなかった。

コック兼アヤという子守を引き受けてそつなくこなしていた、ミウリという女のサーバントは世話を焼きすぎて失敗した。

よう子が華奢で大人しそうな雰囲気だったことに乗じて、先んじて様々にデリーの暮らしを知らせようと進んだミウリの失敗ともいえる。

もう何年も何代も日本人家庭に仕えていた彼女は、慣れから来る雑さがあったのだ。

日本料理も何でも作れ、インドの材料で和食ができることから、他の家のメンサーブたちにも一目置かれ、時には偉そうに料理のレシピを教えたりしていたが、そうした他のメンサーブたちとやけに親しそうなのも、よう子には不愉快だった。

よう子は家庭生活が完璧に自分のものであることを好んだ。
サーバントも偉そうにするのでなく、傅いてくれる者を好んだ。

子供の躾にも他人からとやかく言われたくなかった。

娘は自分が手塩にかけて育ててきた。それを異国の人にいきなり
「めい子ちゃん、大人しすぎる、」だの「めいちゃん、外遊び必要!」と庭の砂場で遊ばせたり、まだここの衛生観念もわかっていないときから、彼女には過激な日々だった。

このままにしていて、子供の躾けの主導権を握られ、別な意味で甘やかされたりしたら本当に大変だ、と思ったのだ。

ミウリが解雇されたことはまことに噂が早く広がり、驚いたことに翌々日から、日本人の推薦状を持つインド人たちが「雇ってください。」と日に何度か面接を受けに勝手にやってくるのだった。

ここの新学期は他より夏の厳しい暑さが早く始まるために、5月末には夏休みに入る。

したがってその夏休みに入る前にはだれかをきめなくてはならなかった。

当初は世話係をしてくれた家のアヤが貸し出され、買い物と洗濯を手伝っていた。

よう子はその貸してもらった、リリという女が気に入っていた。

よう子は遠慮がちに、しかし強かに、

「ねえ、リリちゃん、今のおうちの先生が日本へ帰国したらうちに来てね」と頼んでいた。

しかしそれまでの1年をどうするか? これは重大な問題だった。


サーバントはメインの者は料理を受け持つクックと呼ばれた。

来客の多い家ではベアラーという給仕の者もいて、持て成し方を徹底的に仕込まれた者もあった。

アヤは子守りをしながら洗濯とダスティングという簡単なほこりおとしの掃除を行った。

アヤはメインのクックと家族の場合が多かった。同じ家に住み込んで働いていた。

チョキダールは門番として家の警備を行っている、二交替制をとり、終日門の傍にいた。
寒い季節はこれでもか・・というほどの厚着をして、小さな暖をとって夜通し警備をしていたが、それほどに治安が乱れていたわけではない。

いやもしかしたらこのチョキダールの存在こそが治安維持につながっていたのかもしれなかった。

そして何と言ってもかっこよかったのが、ドライバーである。

ドライバーつきで出かける夫(サーブ)たちはなかなかいい気分を味わっていたようだ。

昼間は時間の空いているときにまた自宅に車とドライバーは戻り、今度はメンサーブ奥様の買い物に付き合う。

行く場所の駐車場は良く心得ていて、奥様が買いものを終えてもどるとささっと車を側につけ、重い荷物を決して持たせるようなことはしなかった。

店からそこのボーイに持たせた荷物がそのまま車のトランクに納められ、家に戻ると部屋まで荷物を運ぶのがドライバーの役割だった。

不思議に眉目秀麗なインド人が多く、そのことがまたメーサーブたちの話題にのぼったりしていたものだ。

 つづく
# by akageno-ann | 2007-12-28 22:45 | 小説 | Comments(2)

晩餐

北川怜子の家のサーバントはなかなかの情報通で、マダムにもなかなか有益な噂をもたらす。

怜子は英語が比較的堪能なので、よけいにしっかりと把握していた。

だからといって、それをまた他所で吹聴することはなく、ただ知っていることはかなり精神安定に役立った。

平田家を追い出されたコックは結局フランス人の家庭で雇われて、幸せにしているという情報も聞いていたが、あえてそのことを美沙にも言わなかった。

言えば、美沙は平田よう子にそれを話さないわけにもいかず、そうなると、怜子と美沙の親しい関係を誇張することにもなる、と考えていた。

美沙と怜子はここで1ヶ月のうちにすっかり親密度を深めた。

最初に美沙が、人懐こく、遊びに来ていたが、すぐに自分の家にもお茶に招待し殺風景な部屋ながら彼女の人となりがわかる部屋の雰囲気を見せてもらって、怜子は安堵した。

「こうして互いの家を訪問しあうってうれしいわね。より距離が近く感じるわ」

怜子は素直に喜んだ。

また美沙たちの航空便が届いたということで、和食の真髄白米が届いたから簡単な夕食をご馳走したい、という申し出には驚かされた。

ちょうど、その頃新人教員三組は互いの家を訪問し合い、夕食を共にしていたようだ。

平田家は例のコックがまだいる時だったから、なかなかおいしいインド風中華料理をご馳走になった、と美沙は言っていた。

山下家はすっかりコックのことが気に入って、和食三昧の日々を送っているようだ。
育ち盛りの男の子の母親である文子はさうがで、米もかなり手荷物でもってきていたし、航空便は日本食でいっぱいであったようだ。

そして最後にローズという若い女のサーバントが一人の美沙の家では、美沙の手料理で持て成した。

美沙は姑が料理上手であったので、知らず彼女も腕をあげていた。姑は高知の出身で、お客を持て成すのが非常にうまかったし、好きであった。

高知には土佐料理に皿鉢(さわち)料理という、大皿に様々な料理を盛り込むバイキングのような豪快な持て成し方があった。

それがそのままここで役立つとは思わなかった・・・と美沙が一番驚いている。

もともと皿鉢には鰹のたたきなどもそのまま並べられたが、ようするにお客は何人きてもいいよ・・という太っ腹な料理だ。


美沙の姑信子は大人も子供も大勢で呼ぶのが好きで、直径50センチもある大皿に太巻き寿司、から揚げ エビフライ、一人分ずつ取り分けられているきゅうりと若布の酢の物、鯛の尾頭付き、サザエのつぼ焼き、鶏の松風焼き、羊羹、伊達巻、メロンと、要するに和洋折衷の料理が形よく盛り込まれ、それを銘銘の皿に好きなものをとって食べさせていた。

ふとここの教員ファミリーの歓迎会でそれぞれが一皿ずつ人数分の得意料理を持ち込んでテーブルに並べ、それを皆で取って食べるパーティの形を見たとき、美沙にはそんな皿鉢の閃きがあった。

最初の新人三組を持て成すときもちょっと貧弱ではあったが、大人も子供も喜ぶような盛り込みを一人でやってみた。

子供たちが歓声をあげていたのが嬉しかった美沙だった。

その美沙が、高知出身の怜子を皿鉢で迎えるのは大きな意味があった。

北川夫妻だけを招いたその晩、美沙は渾身の力を振り絞って、一枚の皿鉢を作った。

鶏のから揚げ、サモサ、(これはサーバントに作らせた) 缶詰の蟹缶を開けて、きゅうりと金糸卵で酢の物を小さなアルミ箔に一人分ずつ取り分けて4つ載せ、オレンジを食べやすく切って盛り込み彩りにし、ソーラー米という特殊なもち米の赤飯を炊いておにぎりにし、蟹缶の残りと卵、きゅうり、干瓢 椎茸を煮て太巻き寿司を作って全て盛り込んだ。

北川怜子は美沙の気持ちに涙で応えた。

「美沙さん、よくここまで作られたわね。そしてこの皿鉢、航空便で持ってきたの?」

「はい、主人の母からのプレゼントで、まさかこうして喜んでいただけるとは思っても見ませんでした。義母に感謝ですね。」

「いいお嫁さんなのね。可愛がられている証拠よ。本当に嬉しいわ、ねえ貴方。」

その夜の怜子の喜びをさらに喜んだのは怜子の夫だった。

「いい同僚、いい隣人が来てくれたね。」

そんな怜子と美沙のふた夫婦の最初の晩餐があった。

 つづく
# by akageno-ann | 2007-12-27 18:04 | 小説 | Comments(4)

デリー番外編・・・

いつもこの「アンの生きる道」を読んでくださり感謝しています。

今日はちょっと一休みで、この時期のデリー番外編を書きたくなりましてお付き合いください。

考えて見ますと、インドの暮らしは日本では想像もつかないものでした。

渡ればすぐに、コレラやチフスに襲われてもしかしたら早期帰国もありか???など

予想以上に恐れることも・・日本の知人友人の中には『よく行くねえ、そんなところへ』と呆れる人も・・・そうなのかもしれません。

それだけにあちらの暮らしはまるで夢のように今も思います。c0155326_7484928.jpg

この時期はまた格別な生活があり、今も大変懐かしく、もう一度味わいたいと思ってしまいます。

デリーは10月末のディワリという光の祭り(ヒンズー教)がまるで新年を迎えるような賑やかなものでしたから、クリスマスや新年については特に目立ったこともなく、静かなものであったようです。そして日本人社会もまた冬休み休暇にインド国外に出る家族が多くて、ひっそりとしていました。

インドを出る・・・それは主に健康管理休暇と買出しです。

もちろん自腹ですが・・・私たち夫婦はもう思い切り羽を伸ばしました。

それは日本の柵からも、日本人会の関わりからも外れた不思議な感覚がありました。

デリーの冬は確実に参ります。あの暑さはどこへ行ったのか?と思うほど、肌寒く、雨は殆どふりませんので、乾燥して、砂埃は家の中まで入り込みます。

掃除は念入りにしませんと、ほこりっぽくなります。

サーバントたちが気をつけてくれて、ソファや絨毯も丁寧にブラシをかけて掃除してくれていました。しかし、一番気になったのが、鼻の掃除です・・・いつも鼻の粘液は黒いのです。

風邪はそれほど引くことはありませんが、気になってティッシュで鼻をふくと・・どうやっても黒いのです。それはちょっと哀しいことでした。

私たちは始めての冬休みに、シンガポールへ出かけました。

先輩の皆さんと同様に日本系のホテルに泊まりました。そのホテルの一階は日本のデパートが入っていました。食料品はほぼ日本のスーパーマーケットと同じです。

かつて夫婦で初めて日本から海外に出たのはシンガポール観光でしたが・・別段さほどの感動もなくリゾートと買い物の街という印象でしかありませんでした。

インドから飛行機で5時間、近いという感じでチャンギ国際空港に到着しますと、それはもう美しい空港と溢れんばかりの物たちに出会い・・一瞬お伽の国に迷い込んだように思われました。

日本の香りまでしてきます。もちろん中国的でもあるし、インドの人もいます。
飛行場から直接タクシーにも気楽に乗って・・その運転手がインド人だと・・もう英語もバリバリ話せます。独特の発音に慣れたのです。

ホテルについてチェックインすると・・最初に行うのはバスタブに綺麗な湯をなみなみと張ります。インドでは湯は湯沸かし器が小さいので二人が別々に使うとすぐなくなってしまい、悲惨になりますので、遠慮気味でした・・ですからここでは久しぶりに私が先に・・手足伸ばしてゆっくり入浴タイムです。

そしてここで2日過ごしただけで・・鼻の中まで白くきれいになります。

空気が悪いのだなあ・・デリーはと改めて思います。

でも大した病気もせず、元気でいましたから、人間は皆環境に適応する力を内在しているとつくづく思いました。

そしてその1週間の滞在に、病院で健康診断をし、買出しをし、そして和食を食べまくりました。

ホテル暮らしは大掃除もなし、年賀状もなし、この頃は一応クリスマスカードを代用させてました。親戚の集まりなし、でたまに同じ日本人会のメンバーと夕食を共にすることはありましたが、それも気の合う人とおすし屋さんで待ち合わせて・・一緒に楽しく食べてそこで別れるといった気楽なものでした。

買い物は最初の日にホテルの下のデパートのいわゆるデパ地下で、デリーの先輩方が築いてくれたここの店員さんとの人間関係を利用して、インドへお持ち帰り用に特別措置をしてもらいます。先ず、日本語堪能な現地人スタッフがついてくれて、肉、魚、冷凍品を細かく買い出して保冷用の箱につめ、大きな冷蔵庫にデリーへ帰る日まで保管し完全冷凍しておいてくれます。どれほど大きい冷蔵庫があるのだろうと・・妄想していたほどです。私たちが二箱でしたが、家族の多い方や出張者を持て成す商社員の家ではそれはたくさんの買い物でした。

あの時期のデパートの冷蔵庫はフル回転だったでしょう。

デリーはとにかく外で食事は少なかったので、お客様ごっこのように次第に親しくなる人々との交流は日本人同士では和食の押収になりました・・・笑

魚は刺身を買いました。結構冷凍でいけました。

肉は100グラム単位で、すき焼き用、しゃぶしゃぶ用と切ってラップに包んでくれて・・小家族はたすかりました。

あの頃行くたびに世話をしてくれたスタッフに今も心から感謝してます。

インドが何にもないところだと、本当にわかったことでしょう。でも冷やかすことも、呆れることもなく、私たち駐在員のために・・サービスしてくれました。

そういえばカップめんまで買ってましたね。マヨネーズお醤油も貴重です。

それにまつわるお話もこれから出てまいります。

そしてあの気楽な暮れと正月のシンガポールをもう一度体験したくなりました。

それだけ日本の暮らしも煩瑣になってきています。

人間心も体もリセットが必要で、海外にいると、それができる・・・しかも短期の生活では正にそのことの連続だったように思いますと・・・どんな場所でも行けてよかった・・・とつくづく思います。

今日の番外編・・ここまでにいたします。明日からはまた小説の続きをよろしくお願いします。

 つづく
# by akageno-ann | 2007-12-26 23:40 | 番外編 | Comments(10)

メンサーブたち

Aブロックの住宅地には日本人家庭が8軒あった。
北川怜子と片山美沙はそのブロックに所属していた。

朝10時のメンサーブ会・・昼まで2時間の会合ということで、美沙はちょっと意気揚々と北川怜子と連れ立って、その日の当番の家に向かった。

その家のメンサーブは商社員夫人、子供はまだ小さいかったので、日本人学校とのかかわりはない。

玄関で迎え入れてくれた彼女は若くて美しい人だった。
コックは別にいるそうだが、給仕をしたのは年配の大柄なインド女性だが優しそうな雰囲気があった。
出されたお茶菓子は・・なんと利休饅頭。手作りだという。

久しぶりの日本の菓子にただ感動した。

「皆さん、おはようございます。 無事出産しまして、戻ってまいりました。留守中主人がお世話になりました。子育てもこれからいろいろ教えていただきたいと思ってます。」

「元気な男の子さんのご出産本当におめでとう。このアヤ(給仕をしていた女はアヤという子守だった)さんはしっかりしているし、経験者だから大丈夫。多分日本で新米ママさんやってるより安心よ。」

と、先輩格のメンサーブが口火を切った。

北川玲子は

「子育ての経験はないけれど、小児科で勤めてましたから、何かご心配の節は、いつでもおっしゃってください。」

「北川先生の奥様、ありがたいですわ。そして奥様もお元気にお帰りなさい。」とその日のホストのメンサーブが言葉を続けた。


「本当に、良く帰っていらっしゃいましたね。その後お体は如何ですか?」
と、もう一人が続けた。

「はい。すっかりいいというわけにはいきませんが、お酒も飲んでいいといわれましたし・・・」

と、ここで美沙以外の一同が爆笑した。

どうやら怜子はかなりいける口であることが、有名らしい、と美沙も遅れて微笑んだ。

美沙もここで自己紹介をさせられて、この界隈のメンサーブの一員になった。


話は暑くなるデリーの話におよび、美沙を励ますためか、

「サーバントをうまく使うことが、夏をいかに乗り切るかにかかわりますよ。」

と忠告された。そして自然に、Bブロックに所属する平田家のサーバントが首を切られた話題におよんだ。

「平田先生の奥様は、かなり神経質でいらっしゃるのかしら?
ここの生活はまだ1ヶ月でしょう。そんなに簡単にあのミウリを辞めさせてこれから暑くなるここでどうやっていくのかしら?」

と、噂はさっさと広がっていた。怜子が制するかと思ったが、意外に何も言わずに聞いていることに美沙は驚いた。

「平田先生はなかなか実直な方で、奥さまの希望に沿うため努力されていますよ。」
初めて怜子が言葉をはさんだ。

日本人学校の仲間意識を感じたのか、他の人々もあまり深入りしなかったが、要するに役に立つサーバントを得るのは大変であるようだ、と美沙にも感じられた。

自分のまだ1ヶ月の体験など、何の役にも立たないことなのだ、と思い知った。

その日は只の新客にしか過ぎない美沙だった。

帰りながら、怜子が自分の家に美沙を誘い、二人でインスタントコーヒーを飲んだ。
ここのサーバントが美沙を既に歓待してくれるまでになっていて、とても嬉しくほっとしていた。

「どうだった?疲れたでしょう・・」
と、怜子に言われて、正直に

「はい、疲れました。」と美沙は応えた。

「まあ、最初からあまりとばさないことよ。色々な人がいるからよく観察すること、人の話は先ず耳を傾けておくこと・・・」

なるほど、だから怜子は最初から口を挟まず、人々の話をようく聞いていたのだ、と理解できた。

「どう結論づけようとしても、また何か良い案を出したとしても、日本にいるときほど通らないことがあるわよ。私もいろいろ失敗してるから、そのことはなるべく伝えるわね。でもやはり貴方は貴方の経験で慣れていくと思う。ゆっくりね」

「ゆっくり」

そうなのだ、ここは日本の時間よりゆったりと流れているのだ、と感じていた。

 つづく
# by akageno-ann | 2007-12-25 21:25 | 小説 | Comments(2)
なにがなんだか分からないうちに・・新しい生活は始まり、到着の翌日にはメンサーブとして使用人であるサーバントを使わなくてはならなかった。
便利といえば、便利だが、面倒なことも多いのもいたしかたない。

まずメインのサーバントは家族で住み込みとなる。

借家やワンフロアーだけを借りる間借りの家でも、日本人家族の住む家には必ずクオーターとよぶサーバントの為の部屋が隣接してた。

片山家の2階のフロアーの曲がりにも寝室の壁の向こうはサーバントのローズの一家の部屋であった。
だがその出入り口は区別されていて、いきなりドア一つで入ってこられないように表玄関の面した道路とは全く反対の裏側の露地に小さな入り口があって、隣の家との間に小道もなかったから・・2軒先の家の横を回って表道路に出て、きちんとブザーを押して入ってこなくてはならなかった。

その不便さから美沙たちはローズを信用して、合鍵を渡した。

それでも一応、いきなりは入らせず、ブザーで入室を知らせることにしていた。

ローズは朝7時に家に来て、10時まで家事をして、その後三時にまた戻ってくるという形にしていたので、自分の子育てにも時間が割け、ここは良い条件の家庭のほうであった。

まだコックとしての腕前ももっていなかったので、500ルピー(当時約5000円)の月給で雇えた。

夫は中心地のそこそこのホテルでコック見習いをしていたから、彼女たちのクラスとしては共働きでもまずまずの暮らしぶりだったようだ。

英語の能力は会話に関しては美沙とはトントンくらいで・・バイリンガルな頭脳があって彼女の方は日本語の単語をよく覚えていたようだ。

インドは10以上の方言というより、言語があり、北と南ではずい分と発音や意味も異なっていた。デリーには様々な土地から出稼ぎに入った者たちがそのままいついている。出稼ぎの家族は色々な家庭に仕えるサーバントを生業とする者もあり、語学に関しても書く事こそできなくても話すことに関してはなかなかの力を持っているものが多かった。

生活力の旺盛な人々が多いのだ。言葉それは彼らには一番の武器であるように感じられた。

ローズの出身も南インドということで、肌の色は黒々としていた。苦労したのか、努力家で新しいことを覚えようとする意欲があって、美沙を喜ばせた。

朝の水つくりに麦茶つくり、朝食の味噌汁と焼き魚、大根おろし、卵焼きは1週間で習得した。
水、これは日本人家庭が一番気を使う飲み水を煮沸して湯冷ましにし、さらに冷やして毎日作られた。

一番上手で日本人が舌をまくのは、天麩羅の揚げ方である。

パコラという似たような食べ物がインドにもあるせいだろうか?

カリッとさせて、揚げたてを食べさせてくれるようになり、客人へのもてなしにも立派に通用するまでになった。

それ以外にも掃除洗濯、アイロンかけを手際よく行っていた。

掃除は案内書のとおり、トイレ、下水、ゴミの処理はさらに下層と言われる人々に任せ、そのものたちにはまるで上司のように指示している姿があった。

階層の差は確かにあるのだが、だからと言って下層と言われる人々が飛び切り不幸、ということではなかった。

実に生き生きと生活する姿にも接することができたのだ。

美沙は一応サーバントを使いこなしている、という自負をもって、初めての地域別日本人婦人の会、『メンサーブ会』に出席した。

つづく
# by akageno-ann | 2007-12-24 22:06 | 小説 | Comments(3)

デビュー

4月は日本でも、新旧の入れ替えがあり、なんとなく落ち着かぬ時期だが、様々な形でデビューがあり、新人はもとより、先輩たちも心躍ることである。

デリーは一日でも先に着任したものが、偉い・・・という冗談が本当のようにまかり通っている。
1日でも早くこの暑さを、混沌とした風景を、不便さを体験したものが・・先にデリーを制する、というのだ。

だからデリー滞在の1年先輩は年齢に関係なくちょっと偉そうにしている。
と、いって威張っているわけではないが、デリーの暮らしに風格が感じられる。

昨年自分たちが通ってきた道を、落ち着いてレクチャーし、そうしながら自分たちの成長に感動しているのかもしれなかった。

ヒンズー語がうまくなったわけではないが、インド英語、買い物の時の値切り方、様々なクレームのつけ方も習得している。

だから、今年の新人たちの最初の買い物や、言葉、サーバントの使い方など、つい気になってしまうようだ。

平田家のサーバント、ミウリは日本人学校の職員の家庭にいるサーバントの最古参で、日本語も単語ではあるが、かなりわかっていた。

少々先回りして家をきりもりすることで よう子にうとまれ、5月はじめについに解雇されることになった。あまりの展開の早さに皆息を呑んだ。

だが、慎重で綺麗好きな よう子には、衛生観念がもう一つ気に入らないし、姑みたいに口出しされることに、日々ストレスが溜まっていった。

「パパ、明子が彼女を怖がるのよ・・。」

夫の久雄も、よう子が子供のことを持ち出してきたら、それは最も愛おしい娘、最優先に
考えることにしていた。

ここで他の新任二人はそれぞれの思い出平田家の動向を見守っていた。

片山家では指をくわえて見ているしかできないことに腹立たしさがあった。

美沙はミウリが気に入っていた。所詮隣の芝生のようなものなのだが、その解雇されたミウリをほしいと思った。

が、ここでは横流しのようなことはしてはいけないと、いう暗黙の了解があった。

ましてや同僚の家でうまく行かなかった者を、『うちなら大丈夫』という身勝手な想像はしてはならぬとの掟があった。

ミウリのその後まで、心配する先輩たちは、よう子を恐れてしばらく遠巻きにしつつ、様々な噂をしていたようだ。

『長いことうまく使われていたのに、性急過ぎやしない? ミウリがかわいそう』 と、いうのがおおかたの見方だった。

同じ一年目としては、

『最初から宛がわれたものがもしも合わなかったとしたら、それを改革していくこともまた大切』と庇う必要もあったようだ。

同士である感情もわきあがる美沙だった。

山下文子は、事態を静かにしかし少しだけ批判的に見守っていた。

そのことが、先輩方には受けがよかった。

そしてこのことはいずれ新米たち誰もがかかわる問題の暗示だったのだ。

よう子の積極性はこの頃から出てきて、彼女にとって、この事件はある意味良い傾向に変化していくことになった。

つづく
# by akageno-ann | 2007-12-23 22:48 | 小説 | Comments(4)

もう一つの自立

片山翔一郎の母信子は高知生まれで、幼い頃は満州で生活したこともあり、終戦後の引揚者でもあった。

彼女の妹は満州で生まれている。その妹は高知で結婚して両親の傍でその面倒も見ながら暮らしてくれているのだ。

信子は夫の上京に伴い結婚後、翔一郎を産んで1年半後に上京し、はじめはアパート暮らしであったが、子供の成長に伴い、埼玉の今の家に落ち着いた。

夫も教育者で若い頃は講師として大学で教えていたが、最後は一応小さな短大の教授になって退職できた。

それから1年で夫はあっけなく病死してしまった。
当時は信子も小学校の教員をしていて溌剌としていたので、夫の病死も意外にしっかり受け止めて、まだ学生だった翔一郎を教員にしなければ、と張り切っていた。

翔一郎が教員になって、ホッとした信子は、まだ定年まで数年あったが、おりから早期退職優遇措置という多少退職金が多くなった時期に職を辞し、家庭でのんびり過ごす時間をもつことにした。

それは彼女にとってとても良い決断で、仕事に追われて家庭的なことを後回しにしていたが、いざ家に落ち着いてみると、その面白さに毎日が新しい刺激でいっぱいであった。

息子の新米教師としての会話にもかかわれて、心楽しい日々を送っていた。

翔一郎と美沙は大学時代の友人関係から長い付き合いを経て、結婚に至ったので、信子もその結婚には賛成であった。

中学校の国語の教師である美沙のことを支援するから一緒に住もうと・・・提案したのも信子だった。

しかし、どんなに互いに気遣っても、なさぬ仲というのは難しいものだと、同居2年目には互いに距離をおくようになってしまった。

それから淡々と過ごした3人の関係もこの翔一郎の突然の海外赴任で様相はがらりと変わり、気楽に一人暮らしを楽しみにしていた信子だったが、3日目には寂しさで精神が不安定になる自分に気付いていた。

60を過ぎて、健康に、とくに心臓に問題が出て来てから、一人暮らしの夜の不安は予想以上に大きいものだった。

食事も一人分は虚しい。

今からこれでは先が思いやられる、と気をひきしめたが、息子翔一郎のことより、嫁の美沙は自分をどんな風にみていたのか、と気になった。

彼女は今きっと羽を伸ばしているだろう。

考えてみると、翔一郎の身の回りのことにずい分当たり前のように手を出していた信子だった。

仕事をしている美沙に対して、最初から

「貴方は仕事中心でいいのよ。」と家事を殆ど取り上げてしまっていたことに、ここで初めて気付いたのだ。

もしそれが自分だったらどんなにか心を傷つけられ、もっと自分を押し出したであろう。

だが、美沙は大人しく従い、そしてそれは我慢していたのだ、と感じてきた。

遅い発見だった。

彼女に詫びの手紙を書こうと便箋にむかった。

『美沙さん、そちらの暮らしは如何ですか?

ずい分忙しい思いをしていたので、そちらについて疲れが出ていなければいいのにと思っています。

貴方にはずい分と気を遣っていただいて、一人の方が気楽よ・・などと今回のことでも、私の一人暮らしを心配してくださるあなたの気持ちに嘯いた私ですが、今、貴方の優しい気持ちに遅ればせながら、気付き、寂しさを感じています』


と、正直に書けた。そして結局この手紙にも

「翔一郎をよろしくお願いします」と我が子を頼んでいる愚かな母であることにも気付いていた。

三年後、二人が帰ってくるまでに、しっかりした人生を確立しておかねばならない、と信子はここで新たに気持ちを引き締めるのだった。

つづく
# by akageno-ann | 2007-12-22 22:14 | 小説 | Comments(6)

自立 その2

北川怜子(さとこ)は大使館の医務官に相談をして、手術後の抗がん剤の注射を定期的に行っていた。
副作用で髪も抜けるというから鬘も用意して戻ってきていた。

実家のある高知を出るとき、父親が引き止めたくて、仕方が無いのに、それをふり払うようにインドに帰る準備をする怜子とは結局最後は口をきかずに終わった。

そのことが、ずっと心に突き刺さっていたので、怜子はこのデリーの家に落ち着いて、なんとかやれそうになった自分を詳しく手紙にしたためて送った。

『父上様・母上様

ご心配をおかけしながらの再渡航で、申し訳なく思っています。

インドは大変厳しい生活だと、表面上は思われるのですが、1年をここで過ごしてみますと意外に良い面がたくさんあることに気付きます。
それを詳しくお話して発てばよかったのですが、私の病状を心配してくださるお気持ちが痛いほどわかって、冷静に説明できず、無愛想に出発した私を許してください。

およそ9時間の機内でも、主人が事情を航空会社のデリー支店長に話しておいてくれましたので、とても寛ぎやすい場所を選んでおいてくれまして、スタッフもまめに声をかけてくれ、楽しい空の旅になりました。

デリーでは日本人会の結束がしっかりしていますので、私などのためにも、インドに帰ってくるということで大変歓迎してくれまして、丁重に扱っていただきました。

こういう経験も貴重なことと思っております。

何より、一人で3ヶ月頑張っていた主人は本当に大事にしてくれますし、

[お前はここにいてくれるだけでいい、]と言って、本当に食事作りもそうじもしない、優雅な暮らしをしています。

どうかご安心ください。

隣のような近い距離に新しい教員夫妻がみえて私より10も年下のようで、可愛らしく、よく訪ねてくれます。彼女の義理のお母さんが高知の出身と聞いて、運命のように感じ、仲良くしてもらってます。

お父さんが満州時代に感じたある意味で優雅であった暮らしがここにはあります。

以前はよくわからなかった使用人のいる家庭のよさ、あり難さをつくづくと感じるのです。
実家で療養中はお母さんに本当にお世話になりました。

怜子はそれなりに元気にしておるから・・と親戚の皆さんにもお伝えください。

私が癌を患ったことで、いろいろ噂にのぼっているのもここにいると忘れることができます。

不肖の娘とて、元気になればまた大使館の医務官の医師のお手伝いもでき、学校の保健係のような仕事もして少しはこのデリーの日本人会の役にたてます。

どうか、私がインドに行ったから癌になったとは思わないでください。
これは運命だと思っています。

そしてお父さん、お母さんもくれぐれもお体大切にしてください。あと二年しっかりここで暮らして元気に帰ります。』

これを読めば、頑固でマイペースの父とて納得してくれるはずであった。
そばにいれば、娘のその日の体調の変化がつぶさにわかり、見ている側も辛いことを、怜子はよく知っていた。

異国の地で使用人に傅かれて暮らしているという事実は満州で満人とよばれた中国人を手伝いや子守に使って暮らした幼少期を懐かしむ父には、怜子の話がうそでないこともまた理解できるはずだ。

なにより親戚などの柵は病気をすると、近くにいるだけうるさいし、煩わしいものであった。

今デリーにもどって、新しい人との出会いもあり、その優しさに触れることにできたことを大変に喜んでいる怜子であった。


怜子と美沙の交流は出会った日から、親しくなるべく時間がゆったりとつくられているようだった。


美沙に怜子を紹介してくれた安岡夫人はその年日本人会夫人部の役員になっていたので、4月当初からなにかと会合や食事会があって忙しくしていた。

闘病中の怜子のことも気がかりだが、昨年のようには一緒に行動できないことを、彼女なりに申し訳なく、また仕方なく感じていた。

そこへ入ってきた美沙は誠に好都合の代役をしてくれそうであった。

しかし初対面ですっかり気持ちが通じそうな怜子と美沙を見て、ほんの少し寂しい思いをしたのも偽らざる気持ちだった。

3年という、きめられた枠の中で親しくなる関係は、果たしてどこまで本当の友人になれるか・・そこのところはまだ安岡にもわからなかった。
ただ、昨年赴任したての頃、デリー生活の上での先輩格に

「いいですか、新人だからって遠慮することはないのです。先に来てる者がしっているのはここの暑さが思った以上に厳しく長いことと・・そういう暑さの中でどんな風に暮らせば楽しいかという術くらいなもんです。私たちは来年にはもうここにはいない。
だからこれからここに長く暮らすあなたたち新人の方がずっと偉いんですよ・・がんばって・」というエールをくれたとき、ものすごく嬉しく励まされた時の気持ちを今ここで思い出した。

そうなのだ、片山美沙の存在する新しいデリーの暮らしがまた安岡や北川怜子たちの暮らしにもきっと良い変化をもたらしてくれるだろうと、期待をすることにしていた。

それが本当の意味でデリーに彼女たちより長く住んでいる先輩としての姿になるだろうと考えていた。

そのことで新しい人々を心から迎え入れることになる、と思われたのである。


怜子と美沙は、そんな安岡の気持ちにいつの日か気付くこともあるのだが、今は二人の運命的な出会いに感動し、互いの距離をどんどんと近づけていくよう努力を始めていた。

 つづく
# by akageno-ann | 2007-12-21 10:53 | 小説 | Comments(2)