アンのように生きる・・・(老育)

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かけがえのない日本の片隅からの発信をライフワークとして、今は老いていくにも楽しい時間を作り出すことを考えています。

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もう一つの自立

片山翔一郎の母信子は高知生まれで、幼い頃は満州で生活したこともあり、終戦後の引揚者でもあった。

彼女の妹は満州で生まれている。その妹は高知で結婚して両親の傍でその面倒も見ながら暮らしてくれているのだ。

信子は夫の上京に伴い結婚後、翔一郎を産んで1年半後に上京し、はじめはアパート暮らしであったが、子供の成長に伴い、埼玉の今の家に落ち着いた。

夫も教育者で若い頃は講師として大学で教えていたが、最後は一応小さな短大の教授になって退職できた。

それから1年で夫はあっけなく病死してしまった。
当時は信子も小学校の教員をしていて溌剌としていたので、夫の病死も意外にしっかり受け止めて、まだ学生だった翔一郎を教員にしなければ、と張り切っていた。

翔一郎が教員になって、ホッとした信子は、まだ定年まで数年あったが、おりから早期退職優遇措置という多少退職金が多くなった時期に職を辞し、家庭でのんびり過ごす時間をもつことにした。

それは彼女にとってとても良い決断で、仕事に追われて家庭的なことを後回しにしていたが、いざ家に落ち着いてみると、その面白さに毎日が新しい刺激でいっぱいであった。

息子の新米教師としての会話にもかかわれて、心楽しい日々を送っていた。

翔一郎と美沙は大学時代の友人関係から長い付き合いを経て、結婚に至ったので、信子もその結婚には賛成であった。

中学校の国語の教師である美沙のことを支援するから一緒に住もうと・・・提案したのも信子だった。

しかし、どんなに互いに気遣っても、なさぬ仲というのは難しいものだと、同居2年目には互いに距離をおくようになってしまった。

それから淡々と過ごした3人の関係もこの翔一郎の突然の海外赴任で様相はがらりと変わり、気楽に一人暮らしを楽しみにしていた信子だったが、3日目には寂しさで精神が不安定になる自分に気付いていた。

60を過ぎて、健康に、とくに心臓に問題が出て来てから、一人暮らしの夜の不安は予想以上に大きいものだった。

食事も一人分は虚しい。

今からこれでは先が思いやられる、と気をひきしめたが、息子翔一郎のことより、嫁の美沙は自分をどんな風にみていたのか、と気になった。

彼女は今きっと羽を伸ばしているだろう。

考えてみると、翔一郎の身の回りのことにずい分当たり前のように手を出していた信子だった。

仕事をしている美沙に対して、最初から

「貴方は仕事中心でいいのよ。」と家事を殆ど取り上げてしまっていたことに、ここで初めて気付いたのだ。

もしそれが自分だったらどんなにか心を傷つけられ、もっと自分を押し出したであろう。

だが、美沙は大人しく従い、そしてそれは我慢していたのだ、と感じてきた。

遅い発見だった。

彼女に詫びの手紙を書こうと便箋にむかった。

『美沙さん、そちらの暮らしは如何ですか?

ずい分忙しい思いをしていたので、そちらについて疲れが出ていなければいいのにと思っています。

貴方にはずい分と気を遣っていただいて、一人の方が気楽よ・・などと今回のことでも、私の一人暮らしを心配してくださるあなたの気持ちに嘯いた私ですが、今、貴方の優しい気持ちに遅ればせながら、気付き、寂しさを感じています』


と、正直に書けた。そして結局この手紙にも

「翔一郎をよろしくお願いします」と我が子を頼んでいる愚かな母であることにも気付いていた。

三年後、二人が帰ってくるまでに、しっかりした人生を確立しておかねばならない、と信子はここで新たに気持ちを引き締めるのだった。

つづく
# by akageno-ann | 2007-12-22 22:14 | 小説 | Comments(6)

自立 その2

北川怜子(さとこ)は大使館の医務官に相談をして、手術後の抗がん剤の注射を定期的に行っていた。
副作用で髪も抜けるというから鬘も用意して戻ってきていた。

実家のある高知を出るとき、父親が引き止めたくて、仕方が無いのに、それをふり払うようにインドに帰る準備をする怜子とは結局最後は口をきかずに終わった。

そのことが、ずっと心に突き刺さっていたので、怜子はこのデリーの家に落ち着いて、なんとかやれそうになった自分を詳しく手紙にしたためて送った。

『父上様・母上様

ご心配をおかけしながらの再渡航で、申し訳なく思っています。

インドは大変厳しい生活だと、表面上は思われるのですが、1年をここで過ごしてみますと意外に良い面がたくさんあることに気付きます。
それを詳しくお話して発てばよかったのですが、私の病状を心配してくださるお気持ちが痛いほどわかって、冷静に説明できず、無愛想に出発した私を許してください。

およそ9時間の機内でも、主人が事情を航空会社のデリー支店長に話しておいてくれましたので、とても寛ぎやすい場所を選んでおいてくれまして、スタッフもまめに声をかけてくれ、楽しい空の旅になりました。

デリーでは日本人会の結束がしっかりしていますので、私などのためにも、インドに帰ってくるということで大変歓迎してくれまして、丁重に扱っていただきました。

こういう経験も貴重なことと思っております。

何より、一人で3ヶ月頑張っていた主人は本当に大事にしてくれますし、

[お前はここにいてくれるだけでいい、]と言って、本当に食事作りもそうじもしない、優雅な暮らしをしています。

どうかご安心ください。

隣のような近い距離に新しい教員夫妻がみえて私より10も年下のようで、可愛らしく、よく訪ねてくれます。彼女の義理のお母さんが高知の出身と聞いて、運命のように感じ、仲良くしてもらってます。

お父さんが満州時代に感じたある意味で優雅であった暮らしがここにはあります。

以前はよくわからなかった使用人のいる家庭のよさ、あり難さをつくづくと感じるのです。
実家で療養中はお母さんに本当にお世話になりました。

怜子はそれなりに元気にしておるから・・と親戚の皆さんにもお伝えください。

私が癌を患ったことで、いろいろ噂にのぼっているのもここにいると忘れることができます。

不肖の娘とて、元気になればまた大使館の医務官の医師のお手伝いもでき、学校の保健係のような仕事もして少しはこのデリーの日本人会の役にたてます。

どうか、私がインドに行ったから癌になったとは思わないでください。
これは運命だと思っています。

そしてお父さん、お母さんもくれぐれもお体大切にしてください。あと二年しっかりここで暮らして元気に帰ります。』

これを読めば、頑固でマイペースの父とて納得してくれるはずであった。
そばにいれば、娘のその日の体調の変化がつぶさにわかり、見ている側も辛いことを、怜子はよく知っていた。

異国の地で使用人に傅かれて暮らしているという事実は満州で満人とよばれた中国人を手伝いや子守に使って暮らした幼少期を懐かしむ父には、怜子の話がうそでないこともまた理解できるはずだ。

なにより親戚などの柵は病気をすると、近くにいるだけうるさいし、煩わしいものであった。

今デリーにもどって、新しい人との出会いもあり、その優しさに触れることにできたことを大変に喜んでいる怜子であった。


怜子と美沙の交流は出会った日から、親しくなるべく時間がゆったりとつくられているようだった。


美沙に怜子を紹介してくれた安岡夫人はその年日本人会夫人部の役員になっていたので、4月当初からなにかと会合や食事会があって忙しくしていた。

闘病中の怜子のことも気がかりだが、昨年のようには一緒に行動できないことを、彼女なりに申し訳なく、また仕方なく感じていた。

そこへ入ってきた美沙は誠に好都合の代役をしてくれそうであった。

しかし初対面ですっかり気持ちが通じそうな怜子と美沙を見て、ほんの少し寂しい思いをしたのも偽らざる気持ちだった。

3年という、きめられた枠の中で親しくなる関係は、果たしてどこまで本当の友人になれるか・・そこのところはまだ安岡にもわからなかった。
ただ、昨年赴任したての頃、デリー生活の上での先輩格に

「いいですか、新人だからって遠慮することはないのです。先に来てる者がしっているのはここの暑さが思った以上に厳しく長いことと・・そういう暑さの中でどんな風に暮らせば楽しいかという術くらいなもんです。私たちは来年にはもうここにはいない。
だからこれからここに長く暮らすあなたたち新人の方がずっと偉いんですよ・・がんばって・」というエールをくれたとき、ものすごく嬉しく励まされた時の気持ちを今ここで思い出した。

そうなのだ、片山美沙の存在する新しいデリーの暮らしがまた安岡や北川怜子たちの暮らしにもきっと良い変化をもたらしてくれるだろうと、期待をすることにしていた。

それが本当の意味でデリーに彼女たちより長く住んでいる先輩としての姿になるだろうと考えていた。

そのことで新しい人々を心から迎え入れることになる、と思われたのである。


怜子と美沙は、そんな安岡の気持ちにいつの日か気付くこともあるのだが、今は二人の運命的な出会いに感動し、互いの距離をどんどんと近づけていくよう努力を始めていた。

 つづく
# by akageno-ann | 2007-12-21 10:53 | 小説 | Comments(2)

自立 その1

ほんの10日ほど前は日本のなんでも揃っていて、食事もなんの不自由もない生活を営んでいた者たちが、突然未知のかなり文化のことなる世界に飛び込んで、「仕事は日本と同様に行え」という指令を受けたとしたら、誰でもそこにすぐ飛び込んで活動できるものなのか、渡航前は皆それが不思議だった。

そして、来てみたらインドはすごく近代的で、そこにはそこの素晴らしい生活があって・・というサプライズも期待したが・・やはり予想と同じような状態があった。

新任三組のそれぞれの家庭はその家族形態にあわせて新しい暮らしを始めていた。

山下家は2歳と4歳の男の子がいて、やんちゃざかり、家の中で遊ばせるだけではとてもエネルギーの発散にはならず、妻の文子も手をやいていた。

ナーサリーといって、日本の幼稚園のようなところも歩いて行ける所にあって、外国人の子供たちもいるという情報を知って、文子も思い切っていれてみようか・・と考えていた。

そうでもしないと、ここでは遊ばせる友達が少なく、かといってサーバントの子供たちと年中遊ばせるわけにもいかないことを感じ取っていたのだ。

自然に日本人教員夫人の中で子供のいる人たちとの交流がしげくなってきていた。

片山家は夫婦二人で気ままな分、ほったらかしにされているような

『このふたりは、なんとか同化してそれなりにやっていけそう』と判断されたような、10日もたつと周りも誠に静かになった。

そろそろ自立せよ・・ということのようだと感じた。

お金も銀行でルピーを手に入れたし、先ず最初に必要だったカーテンも

『インドって結構早い』と感じる早さで室内に取り付けられた。

ライナーという裏地がしっかりついた立派なもので値段は二部屋分で10000円ほどかかったが、日本よりははるかに安いのに、なかなかの仕上がりであった。

しかも柄が豊富で布もしっかりしている。

インドを軽く見るな・・・・・と言われそうだ。

そうかと思えば、サーバントに合鍵を渡す方が便利だということで合鍵を作りたいとそのサーバントに相談すると、
『ラジパトマーケットにある、』というので二人で出向くと・・・・・テントの奥に小さな棚があって、そこで作るという・・

なんだか怪しそうで・・・大切な家の鍵だからどうしようかと思ったが30分すればできるというので、張り付いて待っていた。

え?こんな道具で・・と思うようなやすりで似たような鍵を探し出してマスターキーと合わせて削る・・・

まあ、そのマスターキーもさして高級なものでなく・・見ながら

『これは日本から持ってきた錠前をもう一つつけておかないと危ないなあ』
などとつい疑い深く考えてしまっていた。

でも、たしかに30分もしないうちにできあがり、100円ほどとられただけで・・

半信半疑で家に持ち帰り鍵穴にいれてみると・・合う・・・・

う~~~~ん・・ますます信じられない・・・・・・と片山夫妻はそういうことをちょっと楽しんでいるようだった。


平田よう子は相変わらず、全てに慎重に暮らしていた。

こだわろうとすれば、ここの暮らしは一つ一つが気に入らない。

『今一番嫌なのはコックである』

彼女にとってはまるで姑のような年齢で、しかも

『この家について何でも知ってるから心配するな、前のマダムはああした、こうした』と、偉そうに言うのが気に入らない。

『前のマダムの話を持ち出さず、私の言うとおりにやってほしい』と

拙い英語でもきつく話す。

しかし彼女はめげることをしらない。

なんでも『ノープロブレン』  問題ない・・と片付けるところがまた大いに気に入らないのだ。

三組の新任の夫人で会って話すと、皆その時の興味の対象が異なることに気付きながら

それぞれの不平不安を語り合うことになる。

初めから、なるようになる・・という感じで過ごしている片山美沙と、何事も面白おかしく感じて一見デリーの生活を楽しむ山下文子。

しかし二人とも ここで一つ一つこだわり、気難しく捉える平田よう子をある意味で立派だと感じていた。

面倒がらない・・・それを貫いていくのはここではとても精神力がいることだった。

だが平田家は夫の久雄がまことに献身的であった。

妻と娘に不自由な思いをさせられない、という思いが両肩にしっかりぶらさがり、それを決して辛そうにしないのだ。

山下文子はその久雄の男らしさに内心で嫉妬したほどだったのである。
# by akageno-ann | 2007-12-20 17:05 | 小説 | Comments(4)

混沌 その3

日本人学校は本来どの地においても日本と同様の教育が受けられるように・・・と配慮されるべく、派遣教員は使命を帯びている。

その学校運営はその地域の日本人会、進出企業のトップ、在外公館職員、日本人学校長、保護者代表などにより、運営委員会がもたれていた。

その日新学期始まって最初の運営委員会が開かれ、学校側からは校長、教頭の二名が参加していた。

「新任の三人の先生方も少しずつインドの暮らしにも慣れられ、張り切っているようです。」

との校長挨拶に

「『憧れのインドへ赴任して』と挨拶くださった平田先生の言葉ありがたいですね。」

と、まず大使館の領事が言うと

「片山先生は子供たちのためにいろいろ文具を日本からお持ちいただいたようで、うちの子供の話によると図工の時間に先生のカッターを借りて一人ひとり切り紙ができた、と言ってますが、ありがたいことですね。」

と、一人の保護者が言った。

だが、その発言はちょっと物議を醸して、赴任教員にそういう教育に必要な物品を託していいものだろうか・・・・・

それは学校運営上話し合って日本から別個に輸送してもらうべきではないか・・というのである。

校長は大らかな人でにこやかに

「いや、今年の先生方は気が効くなあ」 などと気楽な発言をしていたが、

北川教頭は新任の教員を集めて日本と違う現状や保護者、子供たちへの発言で共通理解が必要だと、感じていた。

デリーはこういう僻地であるからこそ子供たちにより良い教育を与えたいという気持ちが大人たちの間で共通理解をされていて、在インド日本大使館の大使はじめ職員や、各企業の人々がかなりの力を注いでいてくれた。

また古いインド人の屋敷を改装してやっと教室を間に合わせている現状の学校校舎を 近い将来に新しく建設する予定が立ち、その委員会も発足していた。

このインドの地に日本人学校の校舎を建てるというのはまことに難解なことでもあった。

児童生徒は小中あわせて100人をわずかに下回るという状況で、この厳しい環境の中でも子供たちは元気に学習、運動に勤しみ、友情を深めていた。

4月はまだ大したことはないといわれる暑さも5月の声を聞くと、一年で一番の酷暑の時期になる。最高摂氏48度を記録する日もある。

そんな日に限って電圧が低下したり、停電があったりと、クーラーの効かない狭い教室で子供たちは・・教師は・・頑張っている。

学校にはジェネレーターといって自動発電機があったが、容量は小さく、なかなか校舎全体にいきわたらなかった。

 平田久雄は長身の痩せた体躯ではあるが精神力のしっかりとした男で、新しい環境をじっくり眺めながら率先して仕事をするタイプである。
さっそく6年生を受け持たされて、心身共にきついのであるが、不平は決して言わず、家庭でも妻にこぼすことはなかった。

6年生は12人のクラスで、比較的まとまっている。こういう小さな社会では子供たちもあまり我侭な行動に出ないという特徴がある。
自我を抑えなくてはならない場面が日本にいるときより多いかもしれない。

それだけにストレスもあるはずだが、子供たちは実に環境に順応していると久雄には感じられた。

『この子達のために、できるだけのことをしてやりたい』、と、強く感じていた。

山下哲夫はやわらかい関西弁で日本語はしゃべるが、中学の英語を担当していた。
考えてみるとここデリーでは英語が公用語であるから、よけいに大事な教科で、山下はなかなか堪能な英語力を持っていたので学校側としても大いに期待するところだった。

英語ができるというのはまずこうした外国生活には大変役立つことであったのだ。

駐在の人々もそれ相応の語学力を身につけてきているので、教員は大してしゃべれない、というイメージを払拭てくれるようで、頼もしかった。


片山は数学と美術を担当した。中学生にはなるべく本格的な技術を身につけさせたいと、様々な用具や材料を持参してきていた。

人数も少ないし、こういう場でこそ本領発揮できるのではないか、と期待するのだった。
またインドの風物にも目をむけて、日本ではできないこともやってみたいという希望をもっていた。

対外的には国際交流としてインドや他の外国人子弟の学校との交流も深めたいと考えていたのだ。

北川教頭は早急に新任教員たちを自分の家に招こうと考えていた。

妻の怜子はまだ本調子ではないが、アフターディナーの用意ならコックのシンさんで十分できるし、彼女もまた新しい先生方と知り合うことは喜ぶであろう。

さっそく週半ばではあるが、3人の教員を招いた。

食後とはいえ、まだ若い3人である、アルコールにつまみはインドのサモサという揚げ餃子のような香ばしいスナックやパパドゥという薄い大きな煎餅のような珍しいものを用意させた。

3人は初めてゆっくり男同士で飲めることに喜び、ほぼ1週間すぎたデリーの、4月だというのに夜になっても涼しくならないこの気候を改めて感じていた。

「いやあやはり暑さはじわじわっときてますねえ」 と平田が口に出した。

「いやあ・・・・まだまだこれからですよ。暑くなるのは・・」

「でも、思った以上に面白い興味深い場所ですね。」とは、片山が語った。

「片山先生は美術専攻だからこういう風物をやはり絵などにしたい、と思われるんじゃないかな」と、北川は受けた。

「いやああ、正直まだどんな風に作品にするかなど全く思い浮かばないほど衝撃を受けています。」

と、率直に語った。

北川はその場を借りて

「先日の美術の時間に片山先生はご自身のもっていらしたカッターを子供たちに貸して授業された、と保護者が感動してましたが・・」

「えぇ、カッターは切り絵にの場合刃が新しいことが大切なので、たくさん用意してきました。子供たちも真剣に取り組んでくれました。」

「自分のものを提供していくときりがありませんから、どうか必要なものは言ってください。なるべく現地のものを代用していくのが本意ですが、どうしても必要なものに対してここの親御さんたちは熱心に協力してくれますから。」

と、いう北川の意見に

『なるほど、勝手な行動をしない様に』という示唆が込められていることを3人それぞれに汲み取った。

ここではここの掟があり、いわゆる足並みを揃えるということを日本と同じように、いやもっと気をつけねばならないのだと、感じていた。

山下は静かに好きな酒を楽しみつつ飲み、その後は談笑になって、男たちの寛いだ時間が初めて訪れていた。

北川怜子はこのとき既にこの3人の新任教員たちの性格を分析して、今後のデリーの暮らしの中での役割を想像しながら、夫の横で静かに微笑んでいた。

デリーの夜は長く、8時に集まった3人も結局11時過ぎまで話し込んでいった。

つづく
# by akageno-ann | 2007-12-19 08:00 | 小説 | Comments(2)

混沌 その2

安岡夫人と買い物をしたり、ホテルで食事をしたりしているうちに、美沙は彼女と自然に親しくなっていった。

美沙の素直さは 安岡夫人も安心感を覚えたのか、親身になってデリー生活の様々なことをレクチャーしてくれていた。

「ランチョンマットを早速買うなんて、お客様でもするのですか?」

と、カトラリーを色々売っているなかなかお洒落なブティックのような店で美沙は尋ねられた。

グレーターカイラシュという町にはちょっとびっくりするほどお洒落っぽい店があった。
もちろん少ないが、商品のレイアウトも綺麗で、客のインド人もお洒落なパンジャビスーツやサリー、時にはジーンズ姿もあった。

「えぇ、安岡さんもお招びしたいですし、1年目の人たちともたまに情報交換をしたくて。」

「今度の皆さんは仲良しでいいわね。」と安岡夫人は少し意味深な笑みを浮かべた。

「えぇ、やはり同士という気持ちはありますけど。」 と、美沙はやんわり応えた。


「私たちは4人で配属されてきたけど、なかなか難しい関係なのよ。」

と安岡は声を落とした。

「どういう風にですか?」 美沙も興味を持って聞き返した。

気に入った厚手の布の美しいそのマットは6枚一組で、美沙には多い気がしたが

安岡の来客は意外にある、というアドヴァイスでそのまま求めることにした。125ルピー
約1000円くらいの感じで、安いと思えた。

美沙の質問には答えず、安岡は
「このランチョンマットでいいの?決まったら、帰りに北川先生の家に寄りましょう。」

ふいな誘いに少し驚いた美沙だったが、別段ほかに予定があるわけでもなくて、また新しい人との出会いはとてもありがたいとも思えたので、ほかに枕カバーとベッドカバーを見て、急いで買い物を済ませた。安岡のお陰でなかなかいい買い物ができ、満足していた。

「北川先生の奥様はこのたび日本で子宮がんの手術をされて戻っていらしたばかりなの。
ご自身は看護婦(現在は看護士)でいらして、学校の保健の先生としての役割を果たしてくださってます。北川先生は教頭先生なのはご存知ね?」

「はい、奥様のことも少し伺っていましたが、癌でいらしたとは知りませんでした。」

安岡は続けて

「でもその病名に対してそんなに神経質になることはないの。ご自身がきちんとメンサーブ会で私たちに話してくださり、・・そうそうメンサーブというのは奥方のことなの・・主人が偶然同じ血液型でAB型だから、もしこちらで手術するなら、献血します。と申し上げたら本当に喜んでくださって。」

「親しくしていらっしゃるのですね。」 美沙は念をおした。

「えぇ、そうなの。北川さんも去年一緒に赴任しました。なかなか個性的な方ではあるけれど、かなり年下の私のことはとても可愛がってくださるんです。美沙さんのこともきっと気に入るわ。ご紹介するわね。」

どこにも派閥があって、美沙は学校勤務時代にもそのことは苦い経験として持っていたので

「やれやれここももつれているのか・・・?」 と閉口したが、郷に入りては・・の教えのごとく、ここは黙って安岡に従うことにした。


北川怜子(さとこ)の家は、なんと美沙の家から7軒目の、まるで隣のような感覚の場所にあった。

「日本人では一番近い方でしょうか?」

「そうなの、だから早く知り合っていた方がいいでしょう・・」

タクシーからおりると、門番が満面に笑みを浮かべて挨拶し、急いで中に知らせてから、美沙たち二人を招き入れた。

「いらっしゃ~~い」明るい声で迎えてくれた北川怜子はソファに少ししんどそうに座っていた。

「北川さん、こちらが新しくいらした片山美沙さんです。」

「片山です、はじめまして」

「はい、はじめまして。どうぞよろしく。一番近い日本人ですもの、仲良くしましょう。
安岡さんゴメンなさいね、こんな格好で。少々今日はしんどいのよ」

ムームーのような裾の長い半そでワンピースでそれでももう暑そうだった。
怜子の言葉には関西系の訛りがあった。そのことがかえって美沙に親近感を覚えさせたようだ。

「お加減いかがですか?無理はしないでくださいね。」

「うん。大丈夫。ここの方が実家にいるより気が楽ですもの。家のことはシンさんとパトナがやってくれて、こうしてのんびりできるから、ただ昨日は抗がん剤は打ってもらったから・・そのしんどさが残ってるの。」

「北川先生も嬉しそうでしたね、奥様が帰られて。先日日本人会のパーティはお一人でしたけど、家内が帰ってきたから安岡さん遊びにきて、って誘ってくださいました。」

「えぇ、あそこでご挨拶できなかったから、新しい先生の奥さんともお知り合いになりたかったわ。」

美沙は静かに佇んでいた。その様子に怜子は安心感を覚えた。
こういう病気にひどく感心をもって、やたらと大仰に見舞いの言葉を述べられると今の自分の精神状態を逆なでされるようで嫌だったのだ。

「えと、片山さんだったかしら。」

そのカタヤマというイントネーションが懐かしくて美沙は思わず

「失礼ですがご出身は高知でしょうか?」と尋ねた。

「どうしてわかるの?」と嬉しそうに怜子はさらにイントネーションを強めた。

「私の義母は高知の人です。」

その瞬間に、このふたりの間の初対面の壁は崩れ去ったのだ。

この瞬間を、美沙、怜子、安岡夫人の三人はそれぞれの思いで忘れられない光景になった。

青いソファに横たわる怜子、サーバントによって運ばれた、香ばしい香りの冷たい麦茶

その麦茶の入ったコップに敷かれた、藍染のコースター。

天上には古い大きなシーリングファンがゴトンゴトンとゆっくり静かな音をたてて回っていた。

安岡はグレーのシックなワンピースに見舞いの花かごを抱え、その花は黄色のグラジオラスが元気にたくさんの花をつけていた。

美沙はそのグラジオラスの黄色にもまけない山吹色の軽やかなワンピースに脱いだばかりのつば広の白い帽子を膝においていた。

外は日差しが高く風はなく、これから次第に暑くなるデリーの日々を暗示する空気がまったりと流れていた。

 つづく
# by akageno-ann | 2007-12-18 08:19 | 小説 | Comments(6)

混沌 その1

美沙のお腹の調子はなかなかよくならず、夫の翔一郎は学校でのトイレにも不自由しながらの凄まじい新学期になってしまっていた。

しかし、下痢がつづいているというだけで、熱があるわけでもなく、痛みも日陰ではちょっとシクシクするのだが、気温の高い4月のデリーではなんとか持ちこたえられる状態であった。

美沙と翔一郎は一緒に渡印した三組の仲間との最初の集いである山下家の夕食に参加した。

食べながら治して行こうと、二人で決めていたので、あとのトイレ通いを覚悟しつつ、約2時間山下家に滞在して、ここのジョージという太っ腹の、実際の腹も太いコックのなかなか立派なもてなし料理を楽しんだ。

献立はおでん風煮物に茶碗蒸し、ほうれん草のお浸し、炊き込みご飯に若布の味噌汁だった。

ダイニングテーブルには前任者が置いていったというランチョンマットが敷かれて、これまたどうしたのか箸置きに割り箸がセットされている。

きちんとご飯茶碗は左に置いて、など山下夫人に言わせるとなにも教えることはないほど、きちんと日々の料理を作り、また彼の妻が二人の子供たちの面倒を楽しそうに見ているというのだ。

「美味しいなあ、この茶碗蒸し・・すも入らずにきれいにできてますねえ。」

茶碗蒸しが大好きで、母親の作るそれをいつも楽しみに食べていた翔一郎が先ず言った。
下し腹にはこういう優しい和食は涙が出るほどありがたいのだ。

「うちのミウリもかなり頑張ってくれてるがこれにはかなわないね。ママ」
と、思わず妻のよう子を振り返って、『しまった』と思ったのが平田久雄だった。

よう子は、顔色を変えていて、

「いいわねえ、山下家は、これで安泰だわね・・」と、憎らしそうに言葉をはなった。

美沙は急いで

「我家が一番だめよ。まだ新米さんだから。」

と口を挟んで、険悪なムードになるのを避けた。

こういうお節介はいずれ嫌がられることにもなるのだが、このときはまだ効き目があった。

大人しい山下氏は二人の男の子と平田家の一人娘明子との相手をしてやっていた。

大変、子煩悩な人であった。

なかなかハンサムなので、平田よう子は彼を気に入ったのか、明子を預けて珍しく会話の中心になっていた。

そのことを平田久雄も喜んでいた。

美沙は、日本から持ってきていた子供たち用の日本のお菓子をお土産にしていて、こういう場所柄、思いがけず大変よろこばれた。日本で100円ほどのスナック菓子だが、中におまけがあって、子供たちは懐かしそうに歓声をあげた。

美味しいものを一緒に食べるのはやはり心をつなげるのか、ましてやここでは、余計に幸せを分かち合うような感触が互いの心の中に宿った。

「一月に一度はやりましょう、持ち回りで」と誰ともなく言って、最後は優しい空気が流れていた。


三組のデリー1年組がそれぞれに暮らし始めたのはその会食の翌日からだった。

美沙は、次回は自分の家に招きたいと思ったのか、この辺の家庭では皆が使っているランチョンマットを買いに行きたいと、世話係を引き続きやってくれてる、安岡夫人に案内を頼んだ。

買い物は殆どが車を仕立てて行かねばならない。

その辺を走っているオートリキシャと呼ばれるオート三輪の小型の乗り合いタクシーは便利そうで興味があったが、外国人はあまり使わないようだ。

何か掟でもあるのかもしれない、と思いながら、一方では一度は乗ってみたいという好奇心にもかられていた。

しかし、四月はまだ日も浅く、西も東もわからない状態ではお世話されながら買い物に行くしかなかったのである。

安岡夫人は幸いにも買い物が大好きなようで、美沙の申し出を快く引き受け、グレーターカイラシュという少し高級そうな店が並ぶ地域に連れ出してくれた。

タクシーで30分ほどのところにあった。

住宅街から本道のような広い道に出たとたん、混沌という文字がぴったりなインドに出会う。

『混沌とした悠久の地・・インド』とはここに渡る前に様々なインドに関する本やガイドブックに見つけられた言葉だった。

混沌としている状態は正にこれである、と、タクシーの車窓から見られる世界を不思議な感覚で眺める美沙だった。

道路には車が一方向に何列も折り重なるような走りをするが、決して事故はおこっていない。

だが、小さめの乗用車はいわゆる日本の軽自動車で、スクーター、バイクもどういうわけか、人が三人以上乗っているのも少なくない。

バスは二階バスがあるが、人が外にぶら下がっているようなのも見える。

その合間を縫うように、使役動物として象やらくだが材木や荷物を運んで悠然と歩いている。

そして牛は道路脇ではあったが、のんびりと横たわっているのだ。

ヒンズー教の国であるここは、聞いていたとおり、牛を神の様に大切にしているようであった。

というより、そのまま自然のままにおいているようだった。

つづく
# by akageno-ann | 2007-12-17 02:36 | 小説 | Comments(4)

洗礼 その3

平田よう子はその月曜日の朝、夫の久雄が学校へ出勤しても、ベッドルームから出ようとはしなかった。

ミウリという女のコックが朝食の準備もしっかりやってくれているし、明子はまだ眠っている。
久雄は

「よう子、無理しなくていいんだよ。ゆっくり慣れればいいんだからね。」

と朝の準備も全て自分でやっていくので、その言葉に甘えた。

8時になって明子が起きたので、一緒にダイニングに出て行った。

[グッドモーニング・・・マダム・・グッドモーニング 明子ちゃん]

とても明るい声で迎えてくれるこの人を認めなくてはいけないが・・しかし彼女の大きな体と
ギョロッとした目にはどうしても馴染めない。

テーブルにはすでにトーストとハムエッグがきちんと並べられて、ティーポットにはポットカバーがかけられ、紅茶がカップにつがれるのを今やおそし、と待っているようだった。

こういう図はイギリス式で、なかなか優雅な図なのだが、よう子はこんなことでだまされない、とまだ心を頑なにしていたのである。

9時になって同僚の妻山下文子が電話をかけてきた。

「平田さん、どうしていらっしゃいますか?」

「えぇ、なんだかまだ慣れなくて。そちらは?」

「子供がいると大変ですよね。そこへいくと、片山先生のところは暢気にもうインド料理を食べにいらしたそうですよ。」

「まあ、そうなの。私はまだここのサーバントの料理も食べられないのよ。」

「うちのコックの料理はなかなかいいですよ。一度一緒に食べませんか。?」

「ありがとう、片岡さんも呼びましょうよ。情報交換はしたいわ。」

「そうですね、電話してみます。」

と、山下文子は電話を切った。

文子は日本での人間関係も固執したものが多かったので、この三人の関係の中で、同じ子供のいる平田よう子と密にしておきたかった。

しかし、片山美沙の飄々とした態度も大いに気になり、早めにコンタクトをとっておこうと思った。


電話を片山家にすぐにかけた。

「マダムスリーピング。」

サーバントのローズが応えた。

文子はほくそ笑んで、またかけると言って電話を切った。

1時間ほどして、折り返し美沙が電話してきた。文子は

「お休み中にかけてしまってゴメンナサイね。いかがお過ごしかと思って。」

「すみません、起こしてもらえばよかったのに・・ローズが気兼ねしたらしくて。」

「いえ、いいんですよ。いいですねえ、ゆっくり眠れて・・・」

美沙はここではじめて、文子の人となりにいくばくかの疑問をもった。

「実はインド料理が合わなくてお腹を壊して夕べ眠れなかったので・・」

と、言い訳した。

文子は少し笑いたい衝動を抑えて

「もうインド料理に挑戦したのね。素晴らしいわね・・さすがだわ」

と、返してきたが、美沙はそれを厭味であると少し感じ取った。


電話を切ってから、子供のいない者に対する言い知れぬ差別を感じながら

それも予想していたとおりの展開なのだ、と諦めて、これからのデリーの暮らしに対し

自分の手綱を締めなおそう心に決めた。

子供がいる人たちは確かに大変である。

少しでも何か役に立ってあげられればもう少し、気持ちも通じるかもしれないと、

思いながら、翌日の夕飯に招待してくれた文子には感謝していた。

今日はとにかく、この腹痛をなんとかしようと、お粥をすすって気を引き締めるのだった。

そして、ローズには

[電話はいつでも私に取り次いでね]と、必死の英語で伝え、うかうかしてはいられない

日本人同士の暮らしにも一石が投じられたように感じたのであった。

つづく
# by akageno-ann | 2007-12-16 18:31 | 小説 | Comments(4)

洗礼 その2

デリーのトイレ事情は、いろいろで、水洗のような水洗でないような・・・

ウオシュレットのようなそうでないような、いたって複雑・・いや実に単純な
状況にあった。

住宅街の寝室にはきちんとバスルームがあって、水洗トイレもついていた。

美沙の家には二つのベッドルームにそれぞれのバスルーム。

一つのほうにはきちんと浴槽もあった。だがそれは美沙たち日本人のために
あつらえたのであって、本来はシャワーだけ・・。

オーナーのバスルームを見せられて、なるほど特別仕立てだとわかった。

とにかく、ピンクの浴槽でなかなか大きく良い感じだと、美沙たちは喜んだ。

だが、このバスルームは本当にいろいろな問題をはらんでいたのだ。


美味しいカレー料理を食べたその夜から、二人はそれぞれのバスルームに

足しげく通う羽目になってしまった。

食中毒にあたった、というのではなく・・どうやらなれないここのギーという牛乳からできる油にお腹がまだ慣れていなかったらしい。

その夜不安で二人は抗生物質を呑んで休んだが、翌朝まで何度トイレに通ったか・・

しかも水の出がすこぶる悪くて・・・気分が悪い。

しかたないので、浴槽に水をはって、手桶で水をトイレのタンクに移して流すということの繰り返しを何度したことか・・・これがデリーの現状だと・・・思い知ったような・・辛い夜を過ごした。

二人とも同じ症状・・・とにかく水分を補わねば、と朝サーバントのローズが作ってくれたボイルドウオーターをまめに呑んでいた。

ミネラルウオーターも買ってはみたが・・こういう体調の悪いときはなんだか不安で呑めない。

水はタンクから降りてくるから停電の時間は自然に断水になる。

しかも停電の時間が毎日必ずある。


朝の仕事はまず水つくり・・・ろ過器を持ち込んでフィルーターを通した水を大きな薬缶で沸騰させること15分・・・気のすむまで煮沸して・・湯冷ましにしたり、麦茶にしたりして冷蔵庫へ。

麦茶は日本から持ち込んだものであった。

お腹はそれほど痛いわけではないが、しぶり腹である。

翌朝も同じ状態、翔一郎は月曜日までには治るだろうと高をくくり、3日目はおかゆをたいて二人ですごした。

が、トイレ通いは収まらず、ついに月曜日に。

この状態を学校でもやれるのか不安になりながらもスクールバスに乗り込む。

美沙はなんとかつくったお弁当を翔一郎が満足してくれるのか不安であったが、見送ったあとはベッドに倒れこんだ。

翔一郎こそしんどい体のまま仕事だが、日本での準備に勤しんだ彼女はそこで力尽きるようにベッドに倒れこみ眠った。

日中は暑くなるが、四月はまだ眠ることができた。

夕べトイレ通いで眠れなかった分を取り返すように。

そして日本でゆったりお風呂に入っている夢をみた。

つづく
# by akageno-ann | 2007-12-15 20:54 | 小説 | Comments(5)

洗礼 その1

3日が経った。

美沙と翔一郎は、この不思議な世界に降り立って、新しい出来事に驚かされながらも一日一日真剣に生活し始めた。

幸い、心配していたサーバントというお手伝いの女の子も利発な元気な者に恵まれたようだ。

日本ではお手伝いさんを雇うということが最近は稀なことで、ましてや異国で現地の人間が家庭に入って家事を取り仕切る、ということを聞いていても、ただ不安になるだけであった。

が、美沙は最初の夜に世話になった、安岡家のサーバント マリーの存在を見て、意外に自然に溶け込んでいることに、美沙の家のサーバントにもかすかに期待した。

新しいサーバントはローズと言う名前だった。

初めて美沙が自分の新居に入っていくと、すぐにやってきて、少しはにかんだように

[グッド、モーニング マダム]と挨拶した。

細身の、肌の色は黒く、目の大きな女の子だった。
年は26歳、既婚者で子供は二人いるという。

サーバントは各家に併設のクオーターという部屋が宛がわれていて、ローズもまた美沙の住む家の続きに 出入り口を別にしてある一室に家族四人ですでに住み込んでいた。

安岡夫人が日本人会の婦人部の紹介で新しく見つけたサーバントだった。

インド人の中流以上の家庭には大抵家事を手伝うこういうサーバントがいるが、インド人のサーバントにとって、こうして外国人に仕えるというのは待遇もよく、希望者は多いという。

しかし、既に日本人宅で何年も仕えたものは日本人の気質や、日本食についての知識が多く、新しい日本人家庭にそのまま継続して勤める場合は家のことなどよく承知していて、大変便利で助かることだ、と美沙は聞いていた。

が、新しいサーバントは自分で指導していかねばならないので、やや緊張していた。

平田家や、山下家は家もサーバントもその前年の教員一家からのひきつぎであったからそのまま自然な流れで生活が始まったようだ。

子供のいる家庭はそれだけでもこの新しい暮らしが大変であるから、夫婦二人の美沙たちにこの新しい家とサーバントが宛がわれたのであった。

それはそれで、まだ日本人を知らないその若いローズとともに新しい生活を作っていくようで美沙は楽しみになってきた。

それはローズの笑顔がとびきり明るかったからだ。

最初の晩はさっそく彼女にインドの家庭料理を作ってもらった。

まだ航空便で電気釜もお米も届いていないので、しばらくはインドの料理を試そうということにした。

その日彼女が作ってくれたのは、キーマカレーというマトンのカレーをチャパティという主食で一緒に食べるものであった。

ささやかな、多分粗末な食事らしいが、カレーはそれはスパイシーでチャパティの焼き加減は抜群・・しかも焼き立てを次々に運んでくれるので、さながらインドレストランだった。

美沙も翔一郎も大変満足した。

食が楽しめるというのはその国に住む上で一番大切なことなのではないだろうか・・

その夜、片山家は幸せだった。


翌日は土曜日で学校も半日。昼食はホテルのインディアンカレーを食べようということになり、安岡夫妻に案内してもらい、住宅地をちょっと出たところにある小さなホテルのチャイニーズインディアンレストランに赴いた。

このあたりに住む日本人に人気の店ということだった。

薄暗い店で スパイスの香りでいっぱいだった。

チキンティッカという鶏肉のスパイシー焼き、ホット&サワースープという辛くて酸っぱいスープ、炒飯、その三点は、中でも人気があるということであった。

「一つ一つがはじめての味ですが、とてもおいしい。」

美沙は大喜びだった。

夫たちはインドのビールキングフィッシャーで喉を潤す。

「ちょっと変わった味ですね。でもなかなかいけますよ。」

と、到着して3日なんとか過ごせたデリーに腰を下ろし始めた。


だが、インド洗礼はこの日を境に美沙たちに襲い掛かるのだった。



つづく
# by akageno-ann | 2007-12-14 22:46 | 小説 | Comments(3)

デリー最初の日 その3

デリーの四月は夏が始まったばかり、その少し前にホーリーという夏を知らせる祭があって
色粉を皆で掛け合いながら、はしゃいで、これから来る暑い日々を元気に過ごそうと祝うのだ。

夏の暑さは少しずつ にじり寄るようにやてくる。

デリーで最初の夏を迎えようとする、美沙やよう子たちは、その壮絶な暑さをまったく予想することもできないまま、新居を構えるための準備に勤しまなければならなかった。

美沙の家はカーテンがついていなかったので、先ず日よけのカーテンが必要だった。

二階のフロアーを間借りする美沙夫妻は二晩目のデリーの夜を、ガランとした部屋で過ごすことになった。

明日から家具もカーテンも整うから、今夜一晩だが、

「ああ・・大変な生活だなあ・・・」 と ちょっと思わねばならなかった。

しかし、翔一郎も、最初の学校の様子を元気に嬉々として語った。

最低限のベッドとマット・・・ソファセット・・・ダイニングテーブルはある。

シーツと枕はその日に美沙が買ってきていた。

「買い物はどうだったの?」

「それが、意外になんでもあるのよ。なんでもあるじゃない
が、口癖になりそうよ。」

「そうか・・まあやっていけそうだね。」


「今までに逃げ帰った人はいないそうよ。」

「今夜の日本人会も盛会だったしね。」

「この家から一番近い教頭先生の奥様がいらっしゃらなかったわね。」

「どうやら奥さんは病気らしいぞ。」

「何の病気なの?私は何も聞いてないわ。」

「詳しいことはわからないよ。今日はもう学校のことで手一杯だったから」

「どんな校舎だったの?」

「小さいんだ。教室も狭い。まあ一クラスの人数は10人以下だから、
家で家庭教師してる雰囲気だな・・」

「きれいなの?」

「いや、それは残念ながら古いし、あまりきれいとはいえないな。」


翔一郎の落胆はそこにあったようだ。

3年先に新しい校舎が新築予定、と聞いたらしく、結局翔一郎たちはそこには入れずに帰国になる。

しかし学校の運営は、比較的上手くいっているようであった。

何しろ様々に不便で過酷な状況があるということが、人々の協力体制を作っているという。

日本人会総会は、皆の顔合わせの場所であり、この4月の総会は新しい赴任者を紹介する場になっていた。

美沙たちもきちんとよそ行きで出かけた。

新参者たちは衆目の的。特に日本人学校の教員は、保護者からの視線も熱いと聞いていた。

緊張して出席し、一人ひとり紹介されて、代表として平田久雄が挨拶した。

「憧れていたインドへ赴任することができました。」

ほんとうか?

しかしこの最初の挨拶は保護者たちを大いに安心させたようであった。


つづく
# by akageno-ann | 2007-12-13 22:23 | 小説 | Comments(3)