出発まで その3

「何故?」
「お母さんより、私には先に話してくれなくちゃ!?
私は仕事を辞めなくてはならないんでしょう?
私の仕事ってそんなに軽いものなの?」

いくつもの疑問を夫翔一郎に投げかけたが・・「いけない」と思いつつも
泪が止まらない・・・

その日は階下の母信子が息を潜めて聞いているのを十分意識しながら美沙は不満をぶちまけていた。

翔一郎はその日の最後の捨て台詞に

「それじゃおれが一人で行くからいいよ」と言い残して、先に寝てしまった。

昨夜の食事の時に初めて翔一郎の海外への希望を聞いた二人の女たちは全く別の感慨で朝を迎えていた。

美沙は初めてその早朝一人だまって家を出て出勤した。

『親子二人で暮らせば良いのよ』と心で泣きながら呟いていた。
今夜は帰れるかどうかわからない・・・

しかし朝学校につくやいなや、教頭が

「片山先生、お電話ですよ、ご主人から」と少々冷やかし気味に取り次いだ。

美沙がいつものような軽口で受け取らず、少し緊張気味に受話器を握るのを見逃さなかった。

「はい、なに?」

『美沙、夕べは悪かったな、今日は夕食は外でしよう。お袋には言ってあるから心配ない。
池袋に出るからそこで待ち合わせしよう。』

電話の向こうの翔一郎は美沙に有無を言わせない。

「はい。わかりました、では。」

簡単に終えて職員室を出て、担任している教室に向かった。

2年生の一クラスを担任しているが、35人のクラスの子供たちは最近心身共に成長し、時には美沙にも友達のように接してくる。
美沙が比較的話のわかる教師であることを認めてはいるが、逆にそこで甘えが生じるらしい。軽い朝の挨拶を交わしながら、昨日の夜のことを忘れようと心がけた。

「先生、どうしたの?顔色悪いよ。」子供というのは時として、何気なくドキッとするようなことを言ってくれる。

「そうかしら?今日は気をつけてね・・機嫌悪いかもしれないわよ。」
と、美沙がいつになく暗い返事を即座に返したので、何気なく口にしたであろうその生徒のほうがちょっとひるんだ。

「さあ、朝自習始めなさいね。」

教室に入って、生徒の顔を見ながら、

『きっと、この1年で私はこの子達と別れることになるのだ。』と、わかっていた。

その日の夕刻7時に池袋の、昔よく待ち合わせをした駅の改札口で美沙と翔一郎は会い、しばらく歩いて、気に入りのパブに入った。

二人が好きなギネスビールにフィッシュ&チップスを頼むと、翔一郎はおもむろに語り始めた。
「わるかった、昨日は。あまりに突然だったよね。」

「わかっていたわよ。三井君がフランクフルトに赴任するって聞いた時の貴方の顔は、ようし俺も行くぞ~~て顔してたもの。」

「わかった!?さすが美沙ちゃん」とすぐにおどけるので

「あのネ、調子に乗らないでね、だからって、いきなりお姑さんと同列はないわよ。」

「ごめんごめん、でもね、多分あの形の方がお袋は簡単に承諾すると思ったんだよ。」

「なるほどね・・そこまで考えていたのなら許すと、言いたいけど、もっと簡単に考えていたよね、君は・・」

美沙はギネスのハーフパイント一杯目で酔ってしまう弱さだが、気持ちも楽になっていたようだ。

姑を持ち上げるのは、少し悔しさも残るが、

『これでもし受かって、派遣となればお姑さんを一人にすることになるのだ』

と現実的に考えると、これも仕方の無いことなのだと、美沙は納得せざるを得なかった。

これから先の二人の長い道のりは、この日を境に急に方向がかなり変更になったのを二人それぞれに再認識して、その夜はあまり遅くならずに、ヤキモキして二人を待ちわびる母 信子のいる家にもどった。

まだ年度初めの5月の爽やかな空気の夜だった。

つづく
# by akageno-ann | 2007-12-05 00:08 | 小説

出発まで その2

片山美沙は都内の公立中学校で国語の教師をしていた。

夫翔一郎は埼玉県の小学校に勤務し、その年の海外日本人学校派遣の試験を受けていた。

二人は結婚して6年になるが、まだ子供をもたなかった。

家庭は翔一郎の母親との3人暮らしである。翔一郎の母も教員であったので美沙が勤めることにも協力的で家事の殆どは母の信子が受け持っていた。

傍目には美沙は気楽で幸せな嫁だったが、美沙にとってその家庭はまだ自分のものではなかったのだ。

翔一郎はそれを感じ取っていた。一人息子の自分と母親信子との関係はどうしても密になり、言葉にはできない、プレッシャーや寂しさを美沙に感じさせていると分析してた。

そんなところに、学生時代の親友がドイツのフランクフルト日本人学校に派遣されたと知らせをうけ、そんな制度も知らないでいたことに衝撃を受けて、悶々とする日々をこの年度初めにもっていた。

翔一郎の一人っ子としての習性なのか、『やりたいことはすぐさま行動にしたい、できる、』
と感じて5月にさっそくあった今年度の募集に応募したいと思っていた。

埼玉県の彼の勤務校ではまだ派遣に応募するものもなく、校長も熟知していないようであった。

当時市内では3人ほどの教員が現在の勤務校に籍を置いて、アジア、豪州に派遣されているようだと、校長はさっそく調査してくれた。

「片山先生、僕は若い人たちはこういう挑戦は素晴らしいと思いますよ、推薦状はしっかり書くから頑張ってみては・・ただ母上の信子先生をお一人にしてしまうのがどうなの?」

校長は、母信子の後輩であったので、彼女の気性を知りながらも、型通りの心配をしていたのだ。

「校長先生、母は喜ぶと思いますし、恐らく赴任地にも遊びに来るでしょう。
ではどうぞよろしくお願いします。」

と、その時はまた妻の美沙にも話していない状況のまま自分の中で決定していた。

『美沙も おふくろから離れるいい口実になる。』そんなふうに考えていたのだ。


その晩、夕食のときに翔一郎は母信子、美沙の前でこの海外への思いを告げた。

 つづく→☆
# by akageno-ann | 2007-12-04 07:50 | 小説

出発まで  その1

3学期の始業式で平田久雄は心も晴れやかに次年度の在外教育施設派遣教員としてインドニューデリー赴任の辞令を受けた。

発表から2日後のことである。

しかし思いがけなくも、発表の日の大きな落胆と言いようのない不安は、妻よう子の一言で払拭された。

『日本人の子どもが住んでるんでしょう・・大丈夫よ、行きましょう』

結婚して10年になるが、よう子のことを久雄はまだ知らなかった部分が残っていたことをここで思い知らされた。

一見 お嬢さん育ちで、わがままで、マイペース・・しかし久雄にとって実に可愛らしい女性である よう子、久雄はパリか、ニューヨークへでも派遣されるのを楽しみにしている様子だった彼女が、インドのニューデリー派遣を聞いて、
『私は行かない、そんな国行かない』と、絶対に言うだろうと覚悟の上に、あらゆるポジティブなデリーの情報を・・と考えて内示の当日にはついにそのことを言えなかったのだ。

しかしそれをそのままにしておくわけにもいかず、もちろん辞退するなど久雄の律儀な性格ができるはずも無く、だが・・インドの情報は全く厳しいものばかりで、八方塞がりを感じるばかりだった。
だが、翌日の朝食の時に、よう子が

「パパ、昨日はお風呂も入らないでどうしたの?風邪?すごく具合悪そうよ?」
の言葉に、続けて

「ママ、一生のお願いがあるんだ。ぼくにずっとついてきてくれるか?」
よう子はちょっと顔をこわばらせたが・・

「どこに決まったの?ニューヨークじゃないの?」

「ニューデリー」
よう子は一瞬・・『それはえ~~とどこ?』という風に瞬きしながら

「インド!!!??」
「そうなんだ・・・インド・・」

しばらく沈黙は続いたが、

「パパ、いいわよ。どこでも行く覚悟してたから。」

「ありがとう、よう子。君と明子を僕は責任を持って守るから。」
と、喘ぐように言う久雄を見て、よう子は微笑んだ。

「パパ、日本の子供がいるんでしょ!!!大丈夫よ!」

久雄は、その時ほどよう子を頼もしく思ったことはなかった。

学校では久雄のインド行きを誰もが驚き、

「平田先生、大丈夫ですか? 奥さんは?」

「明子ちゃん、まだ2歳ですよね、あの国は汚いんでしょう。」とか

「イヤア、平田先生には一番向かない国のような気がしますが・・」

などいろいろと心配されたが、その時の久雄にはよう子が素直に愛娘明子と一緒に
ついてきてくれるということが何よりもの強みになっていたのだ。

出発まではもう三ヶ月を切っていて、これからの果てしも無い準備の忙しさを想像するだけでため息になりそうだったが、久雄はよう子とそれに向かって進んでいく心構えが
しっかりとできていたのである。
つづく→☆
# by akageno-ann | 2007-12-03 07:53 | 小説

その3

平田よう子はその年の3月まで千葉県の教職員で船橋市内の公立小学校に勤務していた。

しかし、夫の在外教育施設派遣に伴い、インドのニューデリーに赴任するべく、仕事への思いを断ち切って退職をした。

この頃、夫婦で教員の者は、伴侶の在外派遣に伴って任地へ赴くとき、伴われる方は、退職と決まっていた。

よう子は子ども一人を保育園に預けてここまで頑張ってきた。
夫は誠実な先輩教員で、ここまで子育て家事共に分担して協力してやってきた。
瀟洒なテラスハウスの賃貸で、いずれは一戸建ての新築を買おうという夢もあった。

夫の平田久雄が
「海外の日本人学校へ行ってみないか?」と言い出したときは、

「え、そんなのあるの?どこの国?」と聞きながら、よう子はヨーロッパあたりの素敵な町で暮らせるならそれも良さそうだと、安易に考えていた。

仕事はきつくは無いが、夫からの提案で仕方なく仕事を辞めてついていく、というのも
これまでの自分のとってきた道とは全く異なることが、面白く、周囲の反応も楽しみだった。

そして初めての異国での主婦生活への憧れが夢のように広がっていった。
よう子は,久雄とあまり話し合うことも無く、夫が在外教育施設派へ応募しているのを黙認していた。

この制度は古く、昭和37年に国立大学付属小学校の教員1名がタイのバンコクの日本人学校に派遣されたことに始まる。

当時は外務省の外務公務員としての赴任で、臨時的な措置を取られていたが、やがて海外在留邦人の激増に伴い、文部省(現文科省)にゆだねられ、昭和60年台には、公立私立に勤める教員の応募によって試験選考が行われ、文部大臣の委嘱で、派遣されるようになった。

一次試験は県内選考だが、ほぼ書類審査で済み、所属学校長の推薦が必要である。

二次は文部省(現文科省)での論文と面接であった。

久雄は『在外教育に臨むに当たっての心構え』のような論文は卒なくこなし、
面接では『貴方は醤油などのすぐに手に入らない国でも暮らしていく自信はありますか?』
との、質問に、それまでの在外派遣経験者の知人からのアドバイスもあって「あります」とキッパリ応えたが、その時から、合格したい希望と、どこの国へでも赴かねばならぬという不安がない交ぜになってそれからの日々を過ごすことになった。

発表は受験した翌年1月、正月気分も抜けぬ松の内にあった。
その日、冬休み中の日直で出勤していた久雄に、内示の電話が入った。

「ニューデリー、印度です。派遣決定おめでとう。」

そのあとの言葉を全く覚えていないほど、その瞬間
久雄は頭をかなづちで不意打ちされたような衝撃をうけた。

まだやっと歩き始めた幼い子どもと、あのプライドの強いお洒落好きな妻を連れて、よりによって、印度へ派遣。その通知は愚かにも全く予測をしていない内容だったのだ。

妻にはなんと、話そう・・・そのことだけで強い頭痛に襲われるようであった。

つづく→☆
# by akageno-ann | 2007-12-02 09:18 | 小説

その2

思い出はふとしたきっかけで蘇り、今は亡き人がその場にいるように語り掛けてくる。

美沙はデリーの思い出を語るとき、いつも必ず怜子(さとこ)が傍らにいて、うなづいたり笑ったりしているのを感じていた。

怜子の言葉で一番大きな印象で残るのは

「美沙ちゃん、貴方ね、誰とでも親しくしようなんて思っちゃダメ・・例えばよう子さん、あの人と付き合うのは程々にしたほうがいいわよ。」

この言葉だけ聞いたら、なんて支配力の強い、お節介な人だと怜子を評する人がいるかもしれない。

でも怜子の言葉は美沙の悩みを常に言い当てていた。

こんな言葉を残したのも彼女が亡くなる半年ほど前のことで、彼女はこの世に残していく自分の愛するものを心から心配し、『もうかばってあげられないから』

とできる限りの力で思いを伝えているのを、その時は、そうとは知らずとも・・感じていた美沙であった。

デリーは不思議な場所で、日本人が突然放り込まれると、気取っている暇もなく自我をむき出しにせざるを得ない場面が多くあったのだ。


怜子は美沙にとっては誠実な人であったが、本人に言わせると 『私は結構な狸』だったのだ。

だから、デリー滞在二年目の怜子が美沙を子分のように従えるのを、周囲の者たちは好奇の目で見ていた。

そして二人が決裂するのも間もなく・・とある種の期待感も持っていたのだ、と今さら美沙は分析できる。

そうしながら、傍らにいるような怜子に
『私たち結構注目されて、みんなに楽しませてあげちゃったわね。』と、悪戯っぽく笑ってみた。

しかし、そんな時、思いの他急激に寂しさが襲ってくる。

私たちはもっと日本で語り合い、デリーでの思い出を語り合って暮らして行きたかったのに・・

『私のこと、覚えていてね。そして日本の色々なところへ連れて行ってね。』

と、怜子は亡くなる1ヶ月前に彼女の『アンの家』に二泊して過ごした最後の日に、スタールビーの指輪を美沙に渡した。

美沙は、何かを感じてはいたが、その時が二人のこの世でまみえる最後になるとは決して思えなかった。

だが、世の無常は、それが当然であるかのように、二人を引き離した。

その夏は異常に暑さが長く続くと言われた晩夏の明け方に、怜子の魂は昇天したのだった。

そのとき、間違いなく美沙に別れを告げて。

                           つづく→☆
# by akageno-ann | 2007-12-01 14:46 | 小説
怜子(さとこ)が亡くなってから、17年が経っていた。

美沙は東京近郊のベッドタウンに住んでもう20年以上をすごしていた。
本屋が家の付近にないので駅前までバスで出かけて新しい形式の古本屋で
時間をつぶすことがあた。
その古本屋で偶然、『アンの夢の家』の文庫を手にして、美沙は思わず購入した。
315円だった。

どこかの家から、不必要とされたその本は、古びていなくて、もしかしたらあまり読まれなかったのかもしれない、という美沙の思いがそうさせたのだ。

久しぶりに小さな文字の羅列に懐かしい名前や言葉を見出して、美沙はせつなく思い出を手繰り寄せていた。

怜子はカナダのモンゴメリーの小説『赤毛のアン』が大好きで、結婚してから二度目に建てた家は写真集で見たという、カナダのプリンスエドワード島の『アンの家』を模して屋根は緑色の瓦で和風だが可愛い平屋建てだったのだ。


怜子と美沙はそのカナダとは遠く離れたインドのニューデリーで出会っていた。
たった三年の短い付き合いの中で、二人の気持ちを引き寄せるのに大きな役割を果たしたもの、それが『赤毛のアン』シリーズの存在だった。

アンは小学生の女子の間に人気のある、ある孤児が男の子に間違えられて二人の老いた兄妹の家にもらわれて、新しい人生を切り拓いていく物語の主人公だった。

誰もが知っているようでいて、10冊以上にも及ぶこの本のシリーズを読み耽ったという共通点は初対面の二人の距離をぐっと引き寄せるのに最高のものだったのだ。

それは、出会って1週間のうちに互いの家を訪問しあうという、デリーでの日本人同士の付き合い方にのっとって、始めに美沙とその夫が、先に赴任していた日本人学校の先輩夫妻の怜子の家を訪問し、翌日のお茶の時間には怜子が美沙を訪問するという具合だった。

怜子はすでにこのとき、病に冒された状態で他の家族からはその体を気遣って訪問を遠慮されていたのだ。
まだ、デリーに着任して1週間の美沙の家は殺風景で、ソファの三点セットとダイニングテーブルが広いセッティングルームにぽつんとおかれているだけであった。
そして作り付けの小さな本棚に置かれた、懐かしい日本の書籍が少しだけ異彩を放っていた。
その中の1冊がこの『赤毛のアン』の日本語訳の本であり、その隣には少し大きめのその原書だった。

「いいかしら?」と断って、怜子はその洋書を手にして、


「アンシリーズではどれが好きかしら?」 聞くと、

「私はやはり『アンの夢の家』です。」と 即座に美沙は答えた。

怜子はそれに微笑みながら、

「私は最後の『アンの娘リラ』かしらね」

美沙は、

「あぁ、あれはまた別の意味で気に入っています。」

そう応えた。

「別の意味?」

「はい、私は子供がいないものですから、アンの子沢山な様子がうらやましいのです。」

そういう美沙の切なそうな言葉はこのとき、怜子の心に深く届いた。

「私はね、子どもはもう諦めたのよ。そういう思いに至るまでの気持ちの葛藤は、もう今さらあまり語りたくないけど、貴方とは少し話しておきたい気がするわ。」

美沙は少しひるんでいた。単刀直入に話してしまった自分はもしかしたら怜子にとって、とても失礼な発言をしてしまったのかもしれないと、はっとしたのだ。

「私、貴方と仲良しになれそうよ。デリーは人間関係は想像以上に大変なことがあるけど、よかったらなんでも相談してくださいね。」

その怜子のさりげない言葉は、デリーに突然送り込まれたばかりの美沙にとっては大きな支えになっていったのだ。

美沙は、その言葉と、そこにいる怜子を強く自分の分身のように感じて、そのまま打ち解けていった。出会って、3日目のことだった。

                                               つづくここをクリックしてください。
# by akageno-ann | 2007-11-30 22:49 | 小説

かけがえのない日本の片隅からの発信をライフワークとして、今は老いていくにも楽しい時間を作り出すことを考えています。


by ann