アンのように生きる・・・(老育)

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かけがえのない日本の片隅からの発信をライフワークとして、今は老いていくにも楽しい時間を作り出すことを考えています。

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水を得た魚のように

土佐弁でしゃべりだすと、それは元気を取り戻した怜子を見て、美沙は高知というところは少しこのデリーに似ているところがあるように感じていた。

夫翔一郎の故郷である高知は結婚報告で初めて行ったところだたが、酒宴が賑やかで、初めての客を歓迎し、皆でああでもない、こうでもないと世話を焼く。

気取っているより、ざっくばらんな人柄を好み、素直で可愛らしかった美沙は最初「東京のお嬢さん」と敬遠されたが、何度か高知を訪れているうちに、すっかり土佐弁も真似するようになってから、随分打ち解けてきたようであった。

インドに赴任する際に挨拶に二人で帰郷すると、みなが、
「美沙ちゃんはえらい、そんな遠いところで、どんなところかもわからんところへついて行くなんて」

「仕事をやめていくなんて・・・・」

と、随分と慰め、励ましてくれた。
高知、かつての土佐の国は・・太平洋に面していることや、かつてジョン万次郎や、坂本龍馬や、吉田茂や世界とかかわった偉人を輩出していること、ブラジルへの移民の多いことなどが県民の誇りとなっているようにも思え、県外や海外に出て行くことに対して前向きな気持ちでいる人が、比較的多かったのだ。

日本の都会の暮らしは、この頃では隣近所の付き合いも閉鎖的になりつつあるという中で、インドの都会のデリーでは、新しくやってきた外国人である美沙たちを、ああしたら、こうしたらと世話を焼くのを楽しんでいる風潮があったのだ。

この国は、特にデリーは、イギリス統治時代に培った英語での会話力が浸透していることも、ある意味で国際的に生きていける力を持ちあわせたように思えた。

怜子の家のサーバントのファトマは世話をすると大変喜んで「サンキュー」を連発するこの家のメンサーブの友人を大歓迎してした。

自分のメンサーブ(女主人)の怜子が明るく元気でいてくれることは、サーバントたちの真の幸せにつながった。

ファトマはここで怜子が元気に生活してくれることを援けることにやり甲斐を見出していた。怜子はメンサーブとして、実にきっぱりとしたわかりやすい性格で、なんともいえぬお茶目な素顔に知らず惹かれていたようだった。

時を同じくして、美沙たち新人三家族は、シンガポールへ出発した。

飛行機は同じシンガポールエアラインを利用して三家族はカシミールのときと同じように出かけたが、山下家は少し他の二家族と距離を置きたいらしく、日系でないホテルを予約し、チャンギ国際空港で別れた。

デリーへ着任して半年、こうしてそれぞれが自立していくのは喜ばしいことであるのだ。

一方平田家と片山家はこれまでの日本人教員家族と同様に、日系の有名ホテルに投宿して、その階下にある、日本のデパートの食品部でさっそくの買い物を始めた。

その前にふた家族は早朝のシンガポール到着に10時まではそれぞれ部屋で休むことにし、ホテルのレストランで遅い朝食の約束をして別れた。

飛行機で眠ることのできた美沙は、夫の翔一郎がベッドに倒れこんですぐさま鼾をかいて眠りに落ちたのをみて、自分は良くそうにふんだんに出る蛇口の湯を、満足げに眺めなながら入れて、幸せに浸っていた。

デリーの湯沸かし器は小さかったために、細い蛇口からショボショボと出る湯がたまる時間の長さや、少し色のついた感じの湯は今そこでみている透明度の高い白湯とは違っていた。

思えば半年振りの日本の風呂なのだと、そしてそのことがこんなに嬉しいことなのか、と一人でニヤニヤしてしまうのだった。

広くて大理石調の浴槽に体を伸ばして、日本の温泉に出向いた時の感触を深く味わっていた。

「でも、デリーもそう悪いところではない・・・・」

そうつぶやく美沙は、自分のことが可笑しかった。


 つづく
# by akageno-ann | 2008-01-27 22:40 | 小説 | Comments(10)

郷愁にひたる

堅田夫妻が、怜子たちを訪問し、1週間をデリーで過ごすことになった。
怜子の家はきちんとした来客用のベッドルームが、到着の1週間前には準備万端整えられていた。その準備には女性サーバントのファトマの力が大きく影響していた。

怜子たちは、途中2泊3日でウダイプールという観光地を共に旅行し、アグラのタージマハールは日帰りで案内することにしていた。
探せばあるもので、車はベンツの大型車をレンタルできることになり、怜子の体に障らないように配慮された。
日本人学校は暑さの中で8月も終日授業があり、生徒も教師も体力を完全に使い果たしていた。そしてやっと、最終週は1週間の休日になっていた。夏休みのおまけのようなものであった。

美沙たち新人組の待ちに待ったシンガポール健康管理休暇がやっと取れるのであった。三泊4日の予定で、美沙たちもまもなく出発の予定だった。

堅田夫妻が到着した翌日の夕飯は北川家でささやかな歓迎晩餐が開かれることになり、久しぶりに先輩教員の安岡夫妻と美沙たち夫婦が招かれた。
安岡夫人は美沙の赴任当初の世話役だった人だ。
すでに二年目のデリーで学校内でも、日本人会でも中心になって活動する一人になっていた。

「安岡さん、忙しい中ようこそいらしてくださいました。お陰で私もこのように元気になって、友人を呼べるようになりました。」
とちょっとおちゃめに怜子は堅田良子を紹介するべく口上を述べた。

「北川さん、本当にこんなに近くにいながらご無沙汰してしまってご免なさい。でも片山さんもお近くですっかり親しくなられたようですし、何よりお元気そうで本当に良かったですね。堅田さんは高知から本当にここへようこそおいでくださいました。昨晩はお休みになられましたか?」

「はい・・もう二人で土佐弁丸出しで殆ど朝までぎっちりおしゃべりして、午前中はゆっくり寝させていただきました。」と元気な土佐弁交じりで挨拶していた。

その土佐弁と、彼女たちがもってきてくれた、鰹のたたき、リュウキュウという珍しい蓮の葉のような野菜の酢の物、かまぼこ、などで、デリーとは思えない酒宴になった。

その間も大元の料理は堅田夫妻が包丁を握ってくれて、ファトマも目を見張るような見事な皿鉢(さわち)料理ができあがった。
堅田氏は土佐料理の板前だったのだ。

「まあ、なんて素晴らしいお客様。材料だけでなくてこの腕前まで日本からもってきてくださったのですね。」
と安岡夫妻は先ほどから感嘆の声をあげながら杯を交わし、料理を頬張っている。

「ほんとに欠食児童のようですが、こんな料理みたことないので、今日はもう許していただいて、いただけるだけご馳走になります。」
とすっかり上機嫌の安岡氏は土佐の日本酒が美味しい、と すでに真っ赤になっていた。

「いやあ、持ってきた甲斐があったというものよ。土佐はもう出された料理はしっかり食べて、ついでもらう酒はしっかり飲まんといかんがです。」

その飲みっぷりにすっかり機嫌をよくした堅田も、旅の疲れも出たのか酔っ払っている。

「堅田さん、さすがに疲れたろう、普段は絶対酔わん人が今日は酔うちゅう」と
怜子は嬉しくてたまらない。

「こういうがをやりたかったんよ。」と良子と手を取り合ってはしゃいでいる。

彼女はもちろん術後から、いける口のアルコールもすっかり我慢して、その日とて
ほんの少し乾杯の日本酒を口にしただけで、しかし、気持ちは明るくその空気に心地よく酔っているようであった。

その姿をみて、まだ1日目だというのに、良子もまた少しだけ安心をしていた。
その夜は、夜半過ぎまで、思わず皆が、時間も、ここがデリーであることも忘れて
土佐の高知に思いを馳せた。

南国土佐を後にして、1年半、怜子は、感慨深く、静かにその日々を振り返るのだった。
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                   皿鉢写真 by ウイキぺディア

 つづく
# by akageno-ann | 2008-01-26 00:31 | 小説

真夜中の訪問者 その2

四人はチャーターした2台のタクシーに男女別々に乗って自宅に向かった。
それほどこの真夜中の訪問者は日本からの荷物をダンボールで運んでくれたのである。

エグゼクティブクラスを張り込んだという堅田夫妻は、二人で70キロ以上を持ち込んでくれたようだ。本来はひとり25キロほどだが、機内持ち込みに重い餅や土佐特産品を片っ端から詰め込んで、さも軽そうに持って乗り込んだというから、友達のこの熱い思いに、北川夫妻は一瞬ドッと涙しそうになった。

だが、二人はここでの暮らしの良さを見せたかった。
それは偽りや虚飾ではなく、自然に暮らしているデリーの良さだ。
その中にはもちろん大変なこともいっぱいある。
でも何故か悲惨なことはないのだ。
だから最初から涙は禁物であった。

明るいデリーの印象を持って日本に帰したかったのだ。

アンバサダーのゴトゴトきしむ車はすでに、けっして良い印象ではなく、狭い車のトランクに持ってきてくれた荷物を入れれば、人間が後部座席に二人乗るだけで精一杯だった。

二夫婦は学生時代から仲良くしていたから気心は知れていた。

高知は車社会だから皆日本製の良い車に乗っているから、堅田たちはこの北川たちがこういう車に乗っていることにもまず驚いた。

「さとちゃん、あなたこのクッションの悪さは術後の傷に障らんかね?」
と、まず聞いてきた。

「うん、帰ってきたときは親切な大使館の方が日本製の良い車を出してくださって
まったく問題なかったし、いつもはこんなに長距離は乗らんのよ。それにもう大丈夫よ。
傷の痛みは、まあたまに疲れた時は感じるけど、ここはさむうないしね。」

「まあ、高知も決して寒いことはないよ。けどまあ、暗いせいもあるけど、灯りがつきよらんね。」

怜子は笑い出した。

「うん、けんどあまり見えん方がいいかもしれん。」

そうなのだ、デリーの空港から自宅のある街までは先ず貧民屈のような破れたテントの家や
道でそのまま寝ている人など、昼間の光景はちょっと怖い感じがする。

こうして暗闇の中をだんだんに街場に連れて行くほうがきっと安心する、とこの夜中の到着を感謝した。

案の定、グレーターカイラシュというマーケットあたりまで走ってくると、まあネオンらしいものもあって、この友人もほっとしたようだ。

そのまま住宅街に入っていくと、閑静な場所に大きな家が立派に立っていて、灯りも疎らについていた。その中に一際元気な灯りがついている家の前に車は止まった。

「お疲れさまでしたア~」と、飛び出てきたのは片山美沙だった。

「美沙さんありがとう。待っていてくれたのね。こちらが友達の堅田さんよ。」

「まあ、いや一緒に住んでるが?」

と、堅田良子はびっくりして、美沙を見た。

「いいえ、ご近所の同じ学校の先生の奥さんよ、・・あらあら先生まですみません。」

あとから片山翔一郎も出てきて荷物を運ぶのをさっそく手伝おうとしている。

もちろんタクシーの運転手も、その家のチョキダールという門番も、一番に働いているが
それほど荷物は多かった。

美沙はすぐに部屋に入って、勝手知ったる家のように女のサーバントに指図してお茶を出させた。冷たい麦茶はきちんとコースターを敷いて

「ウエルカムマダム」と恥らいながら挨拶し、「プリーズ」とそのお茶を勧めた。

「サンキュー」と微笑んだ遠来の客は、一先ずここにゆっくり落ち着いてくれるようだった。

 つづく
# by akageno-ann | 2008-01-25 12:27 | 小説 | Comments(13)

真夜中の訪問客

北川怜子(さとこ)は、子宮癌の術後半年を過ごして、なんとか少しずつ体調を元に戻しつつあった。一度は日本に帰って検診しなくてはならないが、ここデリーでの闘病生活は決して悪いものではなかった。

医療こそ、日本は最先端を走っているように見えるが、各病院での検査、そしてその検査結果を聞くまでの時間があまりに長かった。

怜子は幸いインドで疑わしい状況を調べ、英語の紹介状をもって日本の病院にもどった。
病院によっては、インドの紹介状というだけで取り合わない医師のいる場合もあるが、知人のいる大学病院で検査した結果、

「このインド人の医師の診断どおりですね。手術しましょう」
という結論に達するのに時間はいらなかった。

怜子は一度子供を流産している。その時に、この筋腫の存在を知っていたが、こんなに早く大きくなったのは、やはりインドの厳しい気候と、なれない生活に必死に喰らいついていこうとしていた自分の中に知らずストレスがたまっていたのかもしれなかった。

ここを元気に出発するときは、

「家族を増やして帰ってくるわ。」など元気に華やかに出ていったのだが、
その「幸せ」はもう不可能になる。

子宮は全摘出手術になるらしい。

淡々と宣告されて、取り乱すようなことはなかったが、これで、
『人生はまた少し面白みに欠ける、』と感じていた。

だが、手術は成功し、その翌日からしっかり歩いて、トイレにも点滴のスタンドを杖代わりに一人で行き、医師の指示通り回復のために努力をした。

医師はインドに戻りたいという怜子の意思を尊重していた。

病は気から、だと看護士免許を持つ怜子は、様々な患者と向き合ってきたので、よくわかっていた。

病気と共に歩み自然な形で過ごすことこそ、完全なる回復につながるのだが、のんびりはしていられなかった。

「デリーに帰る。」 
そう呟いたとき、その時の怜子の家は確かにデリーにあったのだ。

そうして過ごしたデリーでの4ヶ月はサーバントにも助けられたが、近所に着任した美沙によって、精神的に支えられた。

間もなく怜子の親友夫妻、が高知よりデリーへ遊びにくるという。

この暮らしぶりを見せて、安心させなければならなかった。

親友ははインドに興味を持って来るのではなかった。
ひたすらに怜子の病状を心配していたのだ。
彼女は看護士仲間で、見習い時代から親しかった。そして現役である。

今回のデリー訪問は怜子に薬を届けるという重大な任務があった。
そして、もう一つに、できれば一緒に日本に、実家のある高知に連れて帰りたかったのだ。



 インディラガンジー空港の深夜に北川怜子夫妻は友人堅田良子夫妻を迎えに出ていた。
8月の夜の気温もまだ30度を越えているようで、空港内に入るとさすがにエアコンが効いていて涼しかった。

怜子はドキドキする思いを隠せず、しきりに夫に話しかけていた。
北川氏は今の少し太った怜子を専門家として堅田良子の目にどう映るか不安を持っていたのだ。
決して無理強いして妻怜子をデリーに置いているのではないが、彼女が望むようにしてやりたかった。実際、彼女の手術には特別に休暇をとって夫として立ち会っていた。

その時の医師の説明は

「癌細胞はかなり完全な形で取りきりました。しかし、リンパの方に転移のおそれはぬぐえません。かなり大きな細胞でしたから。もし、また異変が生じた時は再入院が必要です。」
と、いうものだったのである。

やはりここへ怜子を戻したことは強引なことであったか、と今さら考える北川であった。

日本からの飛行機は殆ど定刻の真夜中の1時に到着した。
到着ランプがついてから30分以上がたつが、まだ姿は見せなかった。

いろいろ頼んだ荷物が検査で引っ掛かっていなければいいが・・と心配だった。
だが、この日の同じ便で大使館へも新しい書記官が赴任してくるというので、館員が迎えに出ていた。

ここデリーでは在住邦人は皆顔見知りで、こういうときは日本の航空会社の人々も、外交官待遇で税関のすぐ近くまで迎えに行ける館員にも事情を話して、何か問題があるときは
援けてもらうよう頼んでいた。

到着ゲートが開いた。にこやかな大使館員に伴われて友人堅田良子夫妻が現れた。

感動で思わず走り寄った怜子は良子と抱き合った。

「ようきたねえ・・こんなとこまで」

「いやあもう遠かったわあ・・・けんど空港はきれいなとこやね。」

二人の土佐弁の炸裂を笑いながら、北川は世話になった大使館員に感謝の言葉を述べていた。
「いや、何から何までお世話になって、お陰でほんとに助かりました。」と良子夫妻も言葉を添えた。
「何しろ旅行者なのに荷物が多い、と疑われてねえ、こじゃんと検査しよるんよ。けんど
この方にお口添えいただいて、病気の友人のために日本の食事を食べさせたいって言うことを英語で説明していただいてねぇ。ほんとにありがとうございました。まあようも、まあこんな夜中にインドの人はまっことよふかしじゃねえ。」

というこの日本からの元気な訪問者を皆笑顔で迎えた。

空港ではその日本人の集団だけが、朝を迎えたような賑わいだった。
時間はすでに夜半2時、丑三つ時を迎えていた。


つづく
# by akageno-ann | 2008-01-24 19:55 | 小説 | Comments(8)
美沙はインドの暮らし方ばかりを必死で日本で情報集めをしていただけで、
このインドという国の歴史や今目の前にしている「タージマハル」という有名な遺産について
殆ど知識がないことに気付いた。

恥ずかしいことに、シャージャハンが愛した后の墓というだけで、ほぼ何も知らないのだ。
四大文明の一つが生まれたここインドの歴史で知っていることといえば、イギリス領土で
あったことと、マハトマガンジーなどによる、インドの独立であろうか・・

それとても詳しいことを調べたわけでもない。
ぼんやりつったってそのタージマハールを眺めていると、
一人の若いインド人が近づいてきて、英語で説明するから雇わないか、という。
このあたりにいつもいるガイドだ。
観光バスとはいえ車掌のような男は途中の休憩所で食事の世話をするだけで、ここではこういうガイドやみやげ物売りがたくさんいるのを知っているようで、ニコニコ笑って傍に入るだけだった。

いずれ誰かを案内人にしなくてはいつまでも誰かがつきまとうと、わかっていたから、その最初の男を雇った。

20ルピーということだった。

英語はいわゆるインド英語で、単語がはっきりわかるから、まあ内容の半分はわかっただろうか?

しかし、この日は雨が降ってきたのに蒸し暑い。
じめじめした空気が美しいはずのこの遺物を少し汚しているように感じられた。

「こうして水面にうつるタージマハルを見られた事はよかったですね。つい先日まで
水がなくここは沙漠のようでした。」そんな風に案内は始まった。

シャージャハーンというムガール帝国第五代の王が愛する后ムムターズ マハルという女性の若い死を悼んで建造した墓であった。

本当はこのヤムナ川という川をはんさんで、対面に、もう一つ黒い墓を王自身のために建造する予定だったという。

しかし、結果王は息子たちに幽閉されることになり、哀しい生涯を終えたのだ。

だが、その幽閉された城アグラ城はそのタージマハルを眺めるに絶好の場所であった。

壁にある無数の小さな穴にはインドの各地、また周辺の国から集められた宝石の数々が埋め込まれていた痕であった。

愚かな・・・と聞いている現代人は思うのだ。

「光り輝く宝石を埋めて、それがあっという間に盗まれてしまうことなど考えないのかしら・・」

よう子と美沙は呆れながらも、シャージャハンが妻ムムタールマハルを偲んで建てたというこの大きな墓を改めて眺めて、ため息をついた。

案内はいよいよ中へ入ってその棺を見せてくれるという。

すると、ボロをまとった男が下足番をしていて、そこで素足になれ、という。

雨で汚れた大理石の床、冷たくはないが、汚いではないか・・・

美沙は

「私入らなくていいわ、遥拝します。」といち早く辞退したが、

珍しく、よう子が

「美沙さん、一生に一回かもしれないもの入りましょう。」
と、誘ってきた。

美沙は、自分が引き気味であったことが、かえって、よう子の気持ちを逆にたきつけたことを感じていた。

しかたなく、入ることにしたが、素足を拒む人のために足のカバーが用意されていた。
麻布の汚れたような色合いのもので、ためらったが、素足よりはいいような気がしていた。

だが、そんなことは序の口だった。

地下室にあたる棺の部屋の匂いは、今までに嗅いだことのない、黴なのか、雨による湿気なのか、いや全てが入り混じった臭いがあった。

皆で顔を見合わせたが、神聖な場である。

神妙に、そしてなるべく息を止めて棺の前で敬虔な祈りを捧げた。

湿度は100パーセントにも感じられた。

今そこにシャージャハンとムムタールマハルの棺があった。

なにやらしきりに案内人は説明をしてくれていたが、何も言葉が理解できずに美沙は
そこを逃れるように地上への階段を登っていたのだ。

こんなに僻地に、そして少し厳しい状態で参拝する世界遺産は、そこにあった。

観光客の少ない時期であったために、かえってゆっくりとそこで時間はとられたのだった。

后ムムタールは37年の短い生涯に14人の出産をし、成長できたのは半分に満たない。

最後の子供の産褥がたたって、命を落としたと伝えられていた。

やがて、その中の皇子たちが権力争いをし、シャージャハンの後半生は子供によってアグラ城に幽閉されてしまうという、哀しい晩年になってしまったという。



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                                    写真 参考文献 byウイキペディア


つづく
# by akageno-ann | 2008-01-23 21:11 | 小説

シャージャハーンの思い

その白亜の東洋の偉大なる建造物は、意外にも小さく感じられた。

夏休みの終わり近く、平田文雄が片山翔一郎に旅行の誘いをかけてきた。

「片山さん、タージマハール見にいかない?家族と」

「あぁ、いいですねえ。一応インドの象徴ですから、見ておかないとね。」

「実は親戚が来るんです、8月に。いろいろ案内するのにやはり知っておかないとねえ。」

「そうそう、それに修学旅行がアグラだって言ってましたからね。去年までボンベイ(現ムンバイ)だったのに、飛行機で移動する旅を保護者が反対する気持ちはわかりますね。」

「う~~ん、あのカシミールの時の国内線に子供だけ乗せるって、うちもやはりできないと思いますよ。」

「そうですよね、平田先生のとこの一人娘の明子(めいこ)ちゃんをって考えただけでも不安になりますね。」

「多分ぼくは教員じゃなかったら、仕事休んでついていくでしょうね。その点ここで小学校を過ごすなら、まあ一緒にいけそうですがね。」

日本人学校は教員一家の子供たちも就学児童は当然、父親の勤める学校に入ることになり、時には授業を受けるようなことも止むを得なかった。
そのくらい狭い社会だったのだ。

ここではそれもまたその親子にとっては掛け替えのない思い出になる。

しかし、当時カルカッタ(現コルカタ)といういうもう一つのインドの都市の日本人学校は教員の子供の数が貴重な学校存続のための人員になっているという噂があった。

つまり、企業などの駐在員が単身や若い夫婦者が多く、子供が激減していた。

「カルカッタはやはりここよりさらに厳しい地域なんでしょうか?」

平田文雄は、声を落として続けた。

「まあうちのよう子も娘と二人で次第にここの生活に慣れてきていますし、今度くる親戚のことも大張り切りでベッドルームなどの準備をしています。ほっとしてますよ。デリーの暮らしも。」

「思ったより、言われたほどの不健康地ではなさそうですね。」

と、翔一郎も応えたが、一年を通してみないと正解は出せないようだ。

二人は同じ新人家族の山下家ももちろん誘ったが、

「えぇ、うちは今回はやめておきます。」とちょっと元気なく答えたのが二人にはひっかかった。

多分、夏休み始めのカシミール旅行での気まずさが奥方に残っているのだろう。

山下文子はかなり勝気で、3家族足並み揃えてという、流暢な行動はしたくなかったのだ。
山下氏は静かだが誠実な男で、この男三人はそれなりのバランスがとれて、親しくやっていた。

片山たちは奥方との心のすれ違いが残念であった。

さて夏休みの最終週はアグラのタージマハールへ二家族は観光バスで出発した。

バスは決してあたらしいとはいえない、いや汚く、古いというべきだった。

またしても平田よう子はちょっと顔をしかめたが、しかしすぐに気を取り直して娘とバスに乗り込み前から二列目の席を陣取った。

そのすぐ後ろに美沙と翔一郎はすわり、他に欧米人らしい観光客が数組一緒だった。

さすがに観光バスだ、インド人の客はいなかった。

それを特筆するべきだと思うほど、どこに行っても元気なインド人たちはうようよといて、活動していたのだ。

さて、そのバスは定刻8時半にデリーのコンノートプレイスのバス会社のロータリーを出発した。

はじめはそれでも時速キロメーターほどの速さで走っていたが、デリーの中心を抜け、ハイウエーとはいわないが、一本の校外の道路にでるやいなや、運転手の態度は激変、猛スピードで走り始めた。

それほど車の多い道ではないが、大小の車たちは恐ろしいほどスピードを上げ、けたたましいクラクションを鳴らす。

これは実に飛行機と同じくらいの恐怖があった。

日本の高速道路が急に恋しくなり、日本の安全性の高さが心をよぎり、タージマハールを見る事より、よう子や美沙は、日本への郷愁を感じながらの小旅行になってしまった。

日差しは暑い、日はどんどん高くなる、帽子もかぶって日除けのための万全の態勢でバスに乗っているのはこの日本人家族のみ、欧米人、特にヨーロッパの人々はこの太陽を思い切り浴びようと無防備だった。

そして一度の休憩をしただけで、四時間かかってアグラへ入った。

無事であった・・・・

そしてかなりこのスピード感と、おんぼろバスの座席の反動にも慣れてきていた。

一行がバスを降りると・・いたいた、お決まりのみやげ物売りの少年たち。
あどけない笑顔で寄ってきては、売りつける。
払いのけるのはまだ苦手で・・美沙たちは逃げるようにその場を去る。

執拗に追ったりはしない、潔い少年たち。

さて、いよいよタージマハールへ・・・心はさすがにこの世界に冠たる遺跡を見て、感動しようと
準備に入っている。


「え?」よう子が小さく叫ぶ・・・

「これ?」真似したわけではないが、美沙も小さく叫ぶ。

翔一郎はあっけらかんと言う

「名物にうまいものなし・・じゃなかった・・・期待はずれだなあ」

日本人は他にいないからまあいいか・・・と一同そこでうなづいてしまっていた。

幼い平田明子だけは

「タージマハール大きいねえ」  と覚えたての固有名詞を覚えていた。

そこに白くこじんまりとした、タージマハールがあった。

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 つづく
# by akageno-ann | 2008-01-22 21:28 | 小説 | Comments(16)

インドのピアノ

ズービンメータというインド人の有名な指揮者が活躍しているが、
あの彫りの深い顔立ちはまさにインドの美男子の一人に数えられると思われる。
彼はボンベイ出身で、父親もまたボンベイ交響楽団の創設者であり、指揮者であった。

そういう西洋音楽に精通した芸術家は少ないのかもしれなかった。
しかし、ピアノはあると聞いていた。c0155326_22175368.jpg

美沙はそれほどのピアノの名手ではないが、幼い頃から好きで続けていて、勤務していた中学校でも音楽の教員から便利がられて、合唱コンクールや行事のコーラスの伴奏をさせられていた。
独奏より伴奏することが好きで頼まれれば気軽に応じていた。

だから、もしここでも何かの役に立てばと、本来の専門である国語の教員免許より、ピアノで使われることを望んでいた。

だが、そう世の中は簡単ではない。そういうお声はなかなかかからなかったし、自分から宣伝するようなことでもなかった。

日本人学校の音楽室には日本から寄付があって、日本製のアップライトピアノがあった。

入学式卒業式は狭い学校の校庭にシャミアナテントというインド独特の大きな行事用テントが張られて、その中に電子式ピアノを持ち込み、日本の電圧に合う変圧器を利用して伴奏に使うなど苦労していた。

シャミアナテントは結婚式にも使われるほどポピュラーなもので、雨の少ないデリーには重宝なものだったのだ。


さて、片山翔一郎と美沙の夫婦はサーバントのローズに1時間ほどで帰る、と言い置いて
いよいよオールドデリーに繰り出した。

いつも使っているタクシーの運転手はシーク教徒のターバンを巻いた気の良いおじさんだったが、チャンドニーチョークの住所を示すと、ちょっとびっくりして、でも笑顔で頭を少しかしげて

「アッチャ ティーケ(OK)」

と、返事をして古いアンバサダーという、黒と黄色のツートンカラーのタクシーを発進させた。

ゴトゴトと音のするその車はメイン道路に出てスピードをあげると、ドアが落ちるのではないかと思うほど、きしんだが、牛も馬も、リキシャも二階建てバスも、3人乗りのスクーターも高級外車も、そしてそこを縫うように歩行者もいる道をためらいなく走るのであった。

美沙にはまったくどこを走っているのかわからなかった。
しかし、この運転手はこれまで利用したどの場合も決して間違えることはなかったし、親切であった。だから二人とも少しも不安ではなかった。

だが30分走っただろうか・・・・・

いつもたどり着くコンノートプレイスやハイアットリージェンシーなどのホテルではなく、
翔一郎が思わずうなって「これぞインドだな・・噂どおりの」・・・

と、呟いた賑やかでごちゃごちゃした、軒を連ねる店が掘っ立て小屋のような、そんな場所に到着していた。

運転手は道路というより、いわゆる道の向こうの破れたテントの屋根のある店を
『あんたたちが行きたいのはあの店だよ・・』といわんばかりに、大きく指さしてくれた。

美沙は目をみはって・・

「え?あそこのどこにピアノがあるの?」と叫んだ。

その前に一度美沙は先輩教員の妻とコンノートプレイスの所謂立派な楽器店で三台ほどのピアノを弾いて試していた。

そこにはとりあえずグランドピアノという代物もあった。

住んでいる家のフロアーは、自転車を乗り回せるほど広かったし、グランドが置けないわけでもなかったが・・・・

何しろ音が悪かったのである。

哀しいほど音程が悪く、その調律は至難の業だと素人にもわかるものだった。

そこにいた、デリー唯一の名手といわれる調律師もさすがに、お奨めではない、という顔をしていた。

だから今、美沙はここに立っているのである。

半ば諦め顔で、夫についてそのテントのような小屋に入って行った。

そのほんの間口1メートルほどの入り口の三メートルもないような奥行きの小屋の奥に
黒ではなく薄茶色のアップライトピアノがあった。

しかも思った以上にきれいな形で・・・・・・

少し訝しげな顔をしている男が、「グッドピアノ」と言っている。

ここのグッドは誠にあてにはならないことにも大分慣れた日本人になっていた。


美沙は恐る恐る音を出してみた。
チャンドニーチョークのチャンドニーは「月の光」という意味だと知っていたので、
ドビュッシーの「月の光」のさわりを弾きはじめた。

少しくぐもったような響きではあったが、音は悪くなく、何より今までで一番音程が揃っていた。

心の中でこのピアノに決めながら、ここのお約束の値段交渉があった。

だが、美沙は夫に目配せして、こう切り出した。

「私は貴方が奨めるピアノがとても気に入ったわ。でも1ヶ月300ルピーしか払えないの。」

それはおよそ日本円の3000円(当時)でかなりの高額であった。
若いサーバントを一人雇えるほどの値段といってもよかった。

その男はニヤリとして、

「マダムいいでしょう。でも前払い1ヶ月分と送料を上乗せしてください。」

と、言ってきた。

美沙は

「これは妥当な値段で、送料と調律を無料で付けてほしい。」ときっぱり言った。

翔一郎は妻が自分の知らないところでいつの間にインドの商売人とのやりとりに慣れてきたのかと、驚いていた。

その日、そのピアノは美沙に向こう3年間、借りられることに決まった。

つづく
# by akageno-ann | 2008-01-21 22:12 | 小説

オールドデリー

デリーはオールドデリーとニューデリーに地域や行政が分かれているという。

ニューデリーはかつてイギリス統治の元で、整備された町で、整然とした道路や町並みが作られていた。コンノートプレイスといわれる中心街はヨーロッパ調の白を基調とした、佇まいであった。
デリー新人の妻たちはまずこのあたりまでは外出して、初めてのジュエリーショップ見学などしてみるのだった。

平田よう子は一際お洒落だったので、宝石にも興味をもち、親切な店主の丁寧な応対にも満足して、時折店を覗く楽しみを持ち始めていた。
娘もいるので、宝石は代々引き継いでいけることもあり、心が愉しく踊っているようであった。

いささか汚さや、暑さにめげる町並みの中で、こうした光り輝く場面があるというのもなかなかに愉しいものだと、感じられたのならそれは幸せなことであった。

子供の幼稚園探しもしなくてはならないし、子育て中の母親としても町に繰り出す練習を随分としていた。

それは健気な努力だと、美沙は思っていた。

山下文子は、デリーの店や、家に入ってくる様々な商人たちと上手に渡り合い、値切ることも上手で、また美沙たちにその店を紹介したり、商人を回してきたりするようになっていた。

行商の商人は手刺繍のテーブルクロス、ベッドカバー、ランチョンマットのセットなどを持ち歩き、その場で買えるものもあれば、手のこんだものは予約注文して届けられたりするものであった。

手刺繍は鮮やかな色糸を使い、込み入った花の絵や、クリスマス用のヨーロッパ調のものまであり、初めて見る者を虜にした。

よくみると、白い布地は手垢で汚れている箇所もあるのだが、これだけの刺繍で、かつさして高価でないことが、買い手の気持ちを大らかにした。

そうやってそれぞれがこの地に足を踏み入れ、そして落ち着いていこうとしているのだった。

美沙は、さらっと全てにそれなりの興味を持ったが、まだ打ち込んでいくここでの生活の糧を見つけられずにいた。

昼間も子供がいないと暇で、だからといってそれほど出歩くわけでもなく、ヒンディ語の勉強でもしようと、日本から持ってきていた、カセットテープをきいたりしていたが、実はどの店に言っても独特のインド英語で生活できるので、次第にヒンディ語への興味が失せ始めていた。

だが、ピアノを趣味としていた美沙が船便に入れてきた楽譜を見て、

「そうだ、こんなに時間があるのだから、自主練習をしよう。ピアノを借りなくては・・」と
思い始めていた。

娘のいる、また小学校で音楽も教えていた平田よう子は日本から電子ピアノを持ち込んでいるのを知って、「さすがだ・・」と美沙は感じていた。

しかし、きっとここにもレンタルのピアノがあるはずだと、怜子や、同僚教師の妻たちに聞いてみた。

商社員の家で何軒か借りているという話を聞いて、そのうちの一人を怜子が紹介してくれて電話で問い合わせてくれた。

「美沙さん、どうやらオールドデリーに良いピアノが一台あるというのよ。住所を聞いたわ。」

「ありがとうございます。早速行ってみます。」

「いや、でもオールドデリーは一人は無理よ。私もちょっとまだしんどいからご主人と行きなさいね。」

と、アドバイスされた。

「オールドデリー・・・・そこはやっぱりすごいところなのですか?」

「そうね、インドはカルカッタが一番混沌としているとうけれど、デリーの中でもそのオールドデリーの中心地チャンドニーチョークはなかなかの場所よ。私も昨年1度しか行っていないけれど・・」

店はチャンドニーチョークの112番と書いてあった。

「タクシーの運転手に言えば、わかると思うわ。ただあまり綺麗な格好というよりは、きちんとしていて、地味な感じで行った方がいいわ。旅行者ぽいのは危険よ。」

美沙は、ドキドキしたが、とても好奇心が沸々と沸いてきた。

夫の帰りを待って、その夕方行こうと、きめていた。

夫たちは夏休みがあけて、通常の勤務に戻っていた。

まだまだ暑さは激しくそのための体力の消耗をみていると、簡単に出かけようとは言えない。

しかし、話をするだけはしよう、と心に決めた。


夕方、いつもどおりに戻った夫にさっそく話をした。

「今日というわけでなく、休みの日にでも・・・」という美沙の申し出に夫の翔一郎は興味をもった。

「いや、まだ日もあるし、オールドデリーは行きたかったから、早速行こう。」

と、いうことになった。

美沙は嬉しかった。住所を書いたカードを握り締めて、タクシーを呼んだ。

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                       オールドデリーの街角で

 つづく
# by akageno-ann | 2008-01-20 20:35 | 小説 | Comments(15)

街路を歩く

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美沙と怜子の二人の散歩は日課になった。
道行くインド人の老若男女とも随分知り合いができた。

ここは犬を飼っている家庭も多く、サーバントに連れられた飼い犬に出会うことも珍しくなかった。

怜子は実家に預けてきた柴犬のことを気にかけて随分と犬の話をしたものだった。

美沙は犬を飼った経験がないので、犬の種類やその習性について詳しい怜子の話が面白く、子供のいない家庭には犬がいてくれたら随分慰められるのではないか・・・とも思ったりした。

「でもね、美沙さん、犬を飼うって言うのは結構大変よ。長い旅には出られないし、こうして駐在にはなかなか連れてくるわけにもいかないし。」

「そうですよね。でも確か安岡さんのところには変わった犬がいましたね。」

と、同僚教員の家に毛がむくむくした、比較的大きな茶色い犬がいた、と思い出していた。

「あれはね、いわくつきな犬で友人の駐在員がこちらでみつけたラサプソという種類の犬だけど、最初は日本に連れ帰るって張り切っていたのに、結局安岡さんが引き受けたのよ。」

「飛行機に犬は貨物になるんですか?」

「えぇ、小型犬は日本の場合国際線では一機に一匹客室にケージ入りで乗せていいらしいのよ。でもねヨーロッパに行くと違うの。国内線からは降りてみるとたくさんの犬連れの乗客がいてね。ヨーロッパの人たちは犬を本当に生活の友と考えているから、しつけもしっかりされているみたいね。」

そんな風に何気ない会話をしながらのあっという間の30分の散歩が毎日続いた。

早朝は人通りも少なくて、静かな住宅街だがその30分の間に木陰にはアイロン屋が店を開き、炭火のアイロンでサリーやテーブルクロスをそこここの家庭から頼まれては綺麗にアイロンを当てられていた。

「サッチアレ~~」と綺麗なテナーで声を高らかに引き揚げながらリヤカーでやってくるのは
やおやだった。ヒンディでは野菜はサブジーというのだ、とサーバントのローズが教えてくれたが、美沙にはそうは聞こえてこなかった。

美沙の日本で住んでいた住宅街は高台にあって、マーケットが近くにないためかトラックの魚屋、八百屋の行商があり、どの光景はどこか共通点が感じられて、心なごんだ。

「こうしてインドに住んで散歩している自分がなんだか信じられません。」と美沙は感慨深く呟いた。

「夏休みの間は、皆日本人はここを離れているので付き合いも少ないから十分ここのこんな生活をゆっくり堪能しておくといいわ。そのうちなんだかんだと忙しくなってしまうのよ。」

怜子のこの言葉は何か遠くを見通したような響きがあった。

昨年の今はおそらくとても張り切ってここでの生活を始めたはずである。

看護婦の資格を大いに皆に喜ばれ、日本人学校の保健関係の仕事も随分こなした彼女だった。明るく溌剌とした性格は子供たちからも慕われて、大使館の医務官と組んで健康診断や予防接種などにも同行していた。

彼女が体に異変を感じたのは実は半年過ぎた9月だった。
月のものの出血が多くなり、体が重く感じられ、しかしこのような暑い慣れない場所であるからだ、と勝手に診断していたのだ。

だが、あまりの腰痛に耐え切れず、S病院を紹介されて女医に診断してもらった。
子宮筋腫であろうとのことだった。
禁酒があるのは実は日本にいた時から健康診断でわかっていたが、それが出血するようになるのは、あまり思わしくないことだと、専門的にわかっていた。

S病院は建物こそ古いがカトリック系のきちんとした病院で、日本の皆が怖がるような場所ではなかった。

ここで勇敢にも出産した日本人もいる。

入院中の食事は確かにカレーだが、きちんと暖かいものを持って来る。

そして看護婦たちがやさしいのである。

面白いのは薬は患者本人が薬局にお皿をもっていちいち取りに行くことだったが、そこでもやり取りがあって、楽しいものだった。

痛み止めと出血を抑える治療をしてもらって、2日ほどで退院し、怜子は日本への一時帰国を考えねばならなかったのだ。

しかし、赴任してすぐ・・という感じの日取りはどうしても怜子のプライドが許さず、夫にも大したことはない、と話していた。

だが、その後出た結果で癌の疑いも出て、それからの生活は不安と共に歩んできたのだった。

結局年が明けて1月半ばに怜子は帰国し、高知の病院で手術療養に入った。

残念ながら筋腫は悪性であった。

つづく
# by akageno-ann | 2008-01-19 18:09 | 小説 | Trackback | Comments(9)

マーケットにて

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日常は随分とここの生活に慣れてきた美沙は、住宅地の外れにあるマーケットは歩いて行くようになった。夕暮れの少し気温が低くなったときに。
ごくたまにではあったが、怜子もそれに伴うこともあった。

「看護婦をしていると、患者には少しでも歩くことを、気軽に薦めるけれど、こうして自分でしんどい体になってみると、歩くということがどれほどか面倒なことで、きついことだということが、わかったわ。」
と、少し、土佐弁訛りで話した。怜子は美沙が土佐出身の姑との同居のせいで土佐訛りがたまに混ざることを知って、遠慮なく土佐弁を使うようになっていた。
異国で日本の故郷の言葉を使えることはこんなに心が弾むことなのだ、と意外に思った。

東北出身者や関西出身の日本人はかなりいて、それぞれ同郷であることを喜び集い、特に関西の人たちはどこでも遠慮なく関西弁で話をする風潮があったが、独特な土佐弁はなんとなく出さずじまいでいた。

特に映画などで有名になった「なめたらあかんぜよ~」はちょっと任侠的に使われるというような印象も強くて、土佐弁は女言葉ではないのかなあ・・と寂しく思ったりしたのだ。

しかし美沙に言わせると、高知は気楽に土佐弁が使えるところで、イントネーションが可笑しいといって、なおしてくれたり、こんな言葉がある・・と面白い言葉を教えてくれたりして、義母の関係でたまに訪れるその高知の土佐弁に大変興味がある、と話していた。

「高知の大きな病院で働いていらしたの?」
「えぇ、個人病院としては大きい方だったわ。母も看護婦だったから小さい頃から自然にその方向に向かってしまって。父は幸せな人なのよ。母がしっかり健康管理してくれて。」

そんな自分たちのそれぞれの生い立ちなど話しながら20分ほどゆっくり歩くとマーケットについた。

彼女たちはそのマーケットのはじにある、掘っ立て小屋のような八百屋に寄るのだった。

ここは外国人も多く住む古い住宅地でその 八百屋には日ごろサーバントたちが買ってくる野菜とは異なるものがあった。

マンゴーも種類が豊富でなによりオレンジがおいしいものが手に入った。

美沙は何でも食べる健康体で、ここのマンゴーの美味しさに、すっかり虜になり、毎日朝な夕な食していた。

「いいわねえ、美沙さん。私は残念ながらかぶれちゃうのよ。」

美沙はびっくりした。

「え?これアレルギーあるのですか?」

「そうなの、私も食べてみるまで知らなかったけど、かなりのアクがあって、私の場合は食べたすぐ後から見る見る口の回りが赤くはれ上がって、サーバントがびっくりして、マダムダメだ絶対に食べてはいけないって、絶対に買ってこないのよ。」

ところ変われば・・いろいろな新事実があるものだと、美沙はあきれながら、毎日食べても平気だった自分に安堵するのだった。

そんなことを話しながら、それぞれが必要なものだけを少しずつかって、100ルピーを支払うと、少しのおつりとバナナをくれた。

「サンキュー マダム」

シーク教徒らしく、その売り手の男は立派なターバンを巻いていた。

 つづく
# by akageno-ann | 2008-01-18 15:34 | 小説 | Trackback | Comments(10)