ひたぶるにうらがなし・・・
第3章 その9
美沙は最近、自分を見失いそうになることがあった。
いつもは前向きに目の前の出来事をひるむことなく、こなそうとする気持ちで行動するのに、ふと何もかもが面倒でこの場所から逃げ出したい、と思うことがあるようになった。
更年期障害があってもおかしくない年齢である。
今までなんでもなくできたことが、短時間にできないことがある。
予定の時間に追われて、仕事が雑になることもあった。
そんなとき理子が
「お母さん、どうしたの?いつものお母さんじゃないよ。」
と、言う。
それがまた哀しくなったりするのだった。
考えてみると夫翔一郎の病気発症から8ヶ月ほどが過ぎ、間もなく自宅に戻るというので
緊張した思いで準備をしているのだ。
それはかつて在外教育施設派遣教員として夫がインドに赴任する直前の二ヶ月間と似ていた。
だが、あのとき美沙は30代の前半だったのだ。
溌剌として若々しく機敏だった。
そして素直で何もかにも吸収したいという思いがたくさんあった。
友人たちは子育てに一生懸命で楽しんでいる時期でもあり、美沙は我が子を授かる夢見る思いも持ちつつ
デリーに向かっていた。
そんなことを思い出し、今50代の半ばになった美沙自身の変化を如実に感じ、少々狼狽するのだった。
その変化はあきらかに老いというものだった。
かつて翔一郎の父が60少し過ぎたときに他界したと聞いたとき、20代だった美沙にはその年齢は遠いものだった。しかし自分もあと数年でその年かと思うとそれは不思議な感覚であった。
人がその年齢であることが自分にとっては年寄りという言葉で言い表せそうもなかった。
それは年をとることが嫌なのではなく、かつてお年寄りと考えていた年代になっても自分はまだまだ頑張っていかねばならない、というある種の焦りに似たようなものがあった。
しかも夫はこのように障害を持ち、支えていかねばならない。
ふと心の底で 「ひたぶるに、うらがなし・・」と
呟いてしまった。
そんな夜は久しぶりに理子の本棚からアンシリーズの1冊を借りて読むことにした。
なんでもいい・・若やぐ言葉を見つけて、その精神に近づきたかった。
つづく
by akageno-ann | 2009-02-27 22:28 | 小説 | Trackback