インドへの 出発まで その4
インドというと一様に
「え?あの暑くて貧困の国でしょう?」とかつては評されていただが、この20年の間の発展は非常に大きく、当時輸出入の規制も多かったその国は 経済発展の著しいBRICsに数えられ、コンピューターソフトの開発事業は大きく先んじることに成功していた。
かつてイギリス領土になっていた時代もあり、準公用語に英語が使われるなど、自国の原語が15種リ以上あると言われる多民族国家ながら、世界に共通する教育理念ができあがろうとしていた。
会話としての英語が普通に使われている姿は、英語の読み書きが得意な日本人にとってはかなりな脅威であった。
小説「アンのように生きる インドにて」
インドへの 出発まで その4
片山翔一郎もまた、翌年の1月始めに、インドニューデリー日本人学校派遣の内示を受けた。
その日まだ正月気分で家にいた翔一郎は、電話で学校長より知らされたまま、その場に立ち尽くしていた。
思いも寄らぬ、派遣先に唖然としたままだった。
美沙は、その日から2日ほどは まだ新学期の始業式前だったので風邪をこじらせ寝込んでしまっていた。
思った以上にことは厳しく展開したようだ。
友人の三井が一回の応募でドイツへ赴任したと聞いて、
『どこへでも行きます』という踏み絵があるぞ、
と提出書類の書き方など助言をうけていたが、そのとおりに書いたわけだから、
仕方のないことだが、それにしてもあまりにも友人とのギャップが大きすぎる。
翔一郎から、決定を聴いた瞬間、美沙はドイツ・・インド・・の語呂合わせを頭の中でしていた。
インド・・・数日前・・そろそろ決まる・・きっとどこかへ行くことになるだろう・・と心配が募り、夢に見たのは、まったく未知の南米ウルグアイに決定したというものだった。
何故なのか・・ものすごく蒼い海が広がって・・・そこでの~~んびり暮らしている我が身があった・・
だからもし、赴任地が南米ならもっと『そうかア』と納得できたかもしれない・・など全く意味不明な感慨に襲われていた。
美沙の引いていた冬の風邪は珍しく発熱もあって、そのまま倒れこむように臥せったまま
1日は殆ど起き上がれず、姑の信子がさすがに心配して二階にあがってきた。
「美沙さん、大丈夫かしら? 貴方にはご苦労をかけるわね・・」
美沙はびっくりして、部屋のドアを開けて信子の声のする階段に歩み寄った。
「無理しなくていいのよ。ただショックが大きかったのではないかしら、と心配で」
美沙は素直になれず
「お母さん、大丈夫です。丁度風邪で熱が出ていたので、すみません。移してもいけませんから、もう少し寝たら起きますから・・」
と、他人行儀に応えた。
そのまま、もう一度ベッドに戻り、『このままではいけない、何とか元気を出さねば』と
自らを奮い立たせようとしていた。
片山美沙と平田よう子は同じニューデリー派遣教員の妻として霞ヶ関の国立教育会館の研修室で会った。
同時期に派遣される様々な国への健康管理の注意点などが講師の医師等によって説明されるのだが、インド・・ここほど、健康管理が危ぶまれる場所も少なかった・・
今回同時にニューデリーに派遣されるのは三家族。もう一家族の山下文子の夫は四国からの派遣だった。
始めはそれぞれに牽制しあっていたが、美沙は口火を切った。
「はじめまして。片山です。今後ともよろしくお願いします。」
「こちらこそ。お仕事は?」と、よう子が聞き返した。
「中学で教えてます。」
「そうなんだ。私は小学校よ。」よう子は美沙が教員であるのを喜んだ様子だった。
それを黙ってみている山下文子にも美沙は
「貴方はどちらからいらしたのですか?」と聞いてみた。
やや固い表情で
「愛媛です。」と関西訛りの返事が戻ってきた。
「どうぞ、よろしくお願いします。」と美沙がいうと
「私は教員ではなかったのですが、よろしくお願いします。」
と、文子は冷ややかに応えた。
2月、東京霞ヶ関で、寒さも忘れた3人の初対面だった。
つづく
小夏庵にも→☆
by akageno-ann | 2011-04-10 14:25 | 小説 | Trackback | Comments(0)