デリーへの道 そしてアンの生き方
昨日の一章(インドという国?)に「アンのように生きる」のタイトルのきっかけを書いたら、友人が長いメールをくれた。
「前にも読んでいたけれど、今回改めて 赤毛のアンの小説の中にインドに行くと行っていた友人の宣教師夫妻がいて結局日本に住んでいる・・という件があったのを私も思い出しました。この時期に今日本が世界の先進国の仲間に入って突っ走っていたところに、ふと天に引き止められたような気がしていたけれど、そうではなくて・・世界中が平等に進んでいく時代なのだ、と思いました。・・後略・・・」との言葉・・・あり難く読ませていただいた。
インドの暮らしの中の不便さやチェルノブイリ原発の事故のことも、当時他人事のような少し上から目線でみていたことがあるのではなかったか・・と反省もあります。
人々は気づいたときに、またそこから一歩ずつ進んでいくのだ・・との思いを強くします。
本当に謙虚であれ・・ということはこういう事態のときに気づかされます。
一ヶ月前まで皆そこそこに幸せであった・・という感を持っておられるでしょう。
一瞬にしてどん底に突き落とされるようなことがこうして起る。
私は親しくしていた従妹が脳内出血で倒れた6年前の日が正にそうでした。
生死を彷徨った彼女が一命をとりとめ、しかし二週間後目覚めたときは左半身不随だったときのことをまざまざと思い出します。
だが諦めずにここまできたら、今は絶対不可能と言われていた彼女の左足は体温が戻りリハビリ中に動きの可能性を見出せるようになってきているのです。復活の道を確実に歩んでいます。
では、小説を続けます・・
「アンのように生きる」インドにて
デリーへの道
成田を午後4時に離陸した飛行機は、途中バンコクでトランジット、一緒にここまで乗ってきたスリランカ組はここで乗り換えることになっていた。
初めて出会った人々も多い中で、また機内で親しく話すというのでもないのに、これから始まる未知の生活への不安が、互いの連帯感をつないで、およそ15人ほどの大所帯で空港待合室で記念写真を撮った。
皆一応に明るい表情をしていたが、平田よう子だけは幼い娘の明子を抱いたままひどく暗い表情であったのが美沙は気になっていた。
デリー組のもう一家族、山下文子は、ここでは二人の男の子を連れて気丈な明るさを示していた。
バンコクからデリーは4時間ほどのフライトで、そのとき既に現地時間、夜の8時を回っていたから、到着は真夜中になることは間違いなかった。
最後の機内食が出たとき、添えられてくるワインや、ジャム、バターに至るまで、美沙は食欲が落ちていたのを言い訳に、それらを使わず、そっといただいて、手提げカバンに忍ばせた。
ふいに明日からのデリーでの食事をどうするかが急に不安になったのだ。
こんなに行き届いた食事がいきなりデリーでできるかどうか自信がなかった。
パンは、ご飯は、そして夫のお弁当は・・・何度も反芻して考えていたはずの細々したことが、再び蘇り、そしてすべて闇の中に落ちていった。
出発までの疲れがあったために一寝入りしたらしく、しばらくして、美沙はふと目覚めて機内から窓の外をのぞいた。
眼下は真っ暗で もう1時間もすればインディラガンジー国際空港に到着と言うのに灯りがないのはどういうことなのか?
暗黒の世界にでも降り立つような覚悟でもしなければならないように緊張感が走った。
機内では入国審査のカードが配られ、不慣れなのでガイドブックを読みながら記入していった。職業・・ハウスワイフ・・主婦と初めて書いた。
機内放送が流れて、いよいよ高度が下がる。もう一度眼下を見下ろすと、ほのかな灯りが見え始め、黄土色のような大きな建物が見えてきた。
その建造物からは太い広々とした道路がまっすぐに走っていて、そこだけが美しい光景だった。
インド門・・・パリの凱旋門のように素晴らしいものであった。
リンドバーグの「翼よあれがパリの灯だ。」の名言をふと思い出し、
「そうだ、ここも外国。きっと心ときめく素晴らしいできごとも待っているに違いない。」
と一抹の不安を心から追い出そうとしている美沙がいた。
夫は比較的冷静で、これから始まる日本人学校の教師としての人生にかなりの期待感を寄せている。しかし、すべてそのプロジュースは自分の肩にかかっていることをこのときはまだあまり感じていなかったのかもしれない。
日本からほぼ9時間かかった、ここまでのフライトによって、日本での生活は完全に過去のものになってしまっていたのだ。
機は着陸態勢に入った。
つづく
小夏庵にも→☆
by akageno-ann | 2011-04-12 23:40 | 小説 | Trackback | Comments(0)