洗礼 その3 日本人社会
平田よう子はその月曜日の朝、夫の久雄が学校へ出勤しても、ベッドルームから出ようとはしなかった。
ミウリという女のコックが朝食の準備もしっかりやってくれているし、明子はまだ眠っている。
久雄は
「よう子、無理しなくていいんだよ。ゆっくり慣れればいいんだからね。」
と朝の準備も全て自分でやっていくので、その言葉に甘えた。
8時になって明子が起きたので、一緒にダイニングに出て行った。
[グッドモーニング・・・マダム・・グッドモーニング 明子ちゃん]
とても明るい声で迎えてくれるこの人を認めなくてはいけないが・・しかし彼女の大きな体と
ギョロッとした目にはどうしても馴染めない。
テーブルにはすでにトーストとハムエッグがきちんと並べられて、ティーポットにはポットカバーがかけられ、紅茶がカップにつがれるのを今やおそし、と待っているようだった。
こういう図はイギリス式で、なかなか優雅な図なのだが、よう子はこんなことでだまされない、とまだ心を頑なにしていたのである。
9時になって同僚の妻山下文子が電話をかけてきた。
「平田さん、どうしていらっしゃいますか?」
「えぇ、なんだかまだ慣れなくて。そちらは?」
「子供がいると大変ですよね。そこへいくと、片山先生のところは暢気にもうインド料理を食べにいらしたそうですよ。」
「まあ、そうなの。私はまだここのサーバントの料理も食べられないのよ。」
「うちのコックの料理はなかなかいいですよ。一度一緒に食べませんか。?」
「ありがとう、片山さんも呼びましょうよ。情報交換はしたいわ。」
「そうですね、電話してみます。」
と、山下文子は電話を切った。
文子は日本での人間関係も固執したものが多かったので、この三人の関係の中で、同じ子供のいる平田よう子と密にしておきたかった。
しかし、片山美沙の飄々とした態度も大いに気になり、早めにコンタクトをとっておこうと思った。
電話を片山家にすぐにかけた。
「マダムスリーピング。」
サーバントのローズが応えた。
文子はほくそ笑んで、またかけると言って電話を切った。
1時間ほどして、折り返し美沙が電話してきた。文子は
「お休み中にかけてしまってゴメンナサイね。いかがお過ごしかと思って。」
「すみません、起こしてもらえばよかったのに・・ローズが気兼ねしたらしくて。」
「いえ、いいんですよ。いいですねえ、ゆっくり眠れて・・・」
美沙はここではじめて、文子の人となりにいくばくかの疑問をもった。
「実はインド料理が合わなくてお腹を壊して夕べ眠れなかったので・・」
と、言い訳した。
文子は少し笑いたい衝動を抑えて
「もうインド料理に挑戦したのね。素晴らしいわね・・さすがだわ」
と、返してきたが、美沙はそれを厭味であると少し感じ取った。
電話を切ってから、子供のいない者に対する言い知れぬ差別を感じながら
それも予想していたとおりの展開なのだ、と諦めて、これからのデリーの暮らしに対し
自分の手綱を締めなおそう心に決めた。
子供がいる人たちは確かに大変である。
少しでも何か役に立ってあげられればもう少し、気持ちも通じるかもしれないと、
思いながら、翌日の夕飯に招待してくれた文子には感謝していた。
今日はとにかく、この腹痛をなんとかしようと、お粥をすすって気を引き締めるのだった。
そして、ローズには
[電話はいつでも私に取り次いでね]と、必死の英語で伝え、うかうかしてはいられない
日本人同士の暮らしにも一石が投じられたように感じたのであった。
つづく
声援に感謝します。
小夏庵にも→☆
by akageno-ann | 2011-05-10 07:24 | 小説 | Trackback | Comments(0)