混沌 腹痛
美沙のお腹の調子はなかなかよくならず、夫の翔一郎は学校でのトイレにも不自由しながらの凄まじい新学期になってしまっていた。
しかし、下痢がつづいているというだけで、熱があるわけでもなく、痛みも日陰ではちょっとシクシクするのだが、気温の高い4月のデリーではなんとか持ちこたえられる状態であった。
美沙と翔一郎は一緒に渡印した三組の仲間との最初の集いである山下家の夕食に参加した。
食べながら治して行こうと、二人で決めていたので、あとのトイレ通いを覚悟しつつ、約2時間山下家に滞在して、ここのジョージという太っ腹の、実際の腹も太いコックのなかなか立派なもてなし料理を楽しんだ。
献立はおでん風煮物に茶碗蒸し、ほうれん草のお浸し、炊き込みご飯に若布の味噌汁だった。
ダイニングテーブルには前任者が置いていったというランチョンマットが敷かれて、これまたどうしたのか箸置きに割り箸がセットされている。
きちんとご飯茶碗は左に置いて、など山下夫人に言わせるとなにも教えることはないほど、きちんと日々の料理を作り、また彼の妻が二人の子供たちの面倒を楽しそうに見ているというのだ。
「美味しいなあ、この茶碗蒸し・・すも入らずにきれいにできてますねえ。」
茶碗蒸しが大好きで、母親の作るそれをいつも楽しみに食べていた翔一郎が先ず言った。
下し腹にはこういう優しい和食は涙が出るほどありがたいのだ。
「うちのミウリもかなり頑張ってくれてるがこれにはかなわないね。ママ」
と、思わず妻のよう子を振り返って、『しまった』と思ったのが平田久雄だった。
よう子は、顔色を変えていて、
「いいわねえ、山下家は、これで安泰だわね・・」と、憎らしそうに言葉をはなった。
美沙は急いで
「我家が一番だめよ。まだ新米さんだから。」
と口を挟んで、険悪なムードになるのを避けた。
こういうお節介はいずれ嫌がられることにもなるのだが、このときはまだ効き目があった。
大人しい山下氏は二人の男の子と平田家の一人娘明子との相手をしてやっていた。
大変、子煩悩な人であった。
なかなかハンサムなので、平田よう子は彼を気に入ったのか、明子を預けて珍しく会話の中心になっていた。
そのことを平田久雄も喜んでいた。
美沙は、日本から持ってきていた子供たち用の日本のお菓子をお土産にしていて、こういう場所柄、思いがけず大変よろこばれた。日本で100円ほどのスナック菓子だが、中におまけがあって、子供たちは懐かしそうに歓声をあげた。
美味しいものを一緒に食べるのはやはり心をつなげるのか、ましてやここでは、余計に幸せを分かち合うような感触が互いの心の中に宿った。
「一月に一度はやりましょう、持ち回りで」と誰ともなく言って、最後は優しい空気が流れていた。
三組のデリー1年組がそれぞれに暮らし始めたのはその会食の翌日からだった。
美沙は、次回は自分の家に招きたいと思ったのか、この辺の家庭では皆が使っているランチョンマットを買いに行きたいと、世話係を引き続きやってくれてる、安岡夫人に案内を頼んだ。
買い物は殆どが車を仕立てて行かねばならない。
その辺を走っているオートリキシャと呼ばれるオート三輪の小型の乗り合いタクシーは便利そうで興味があったが、外国人はあまり使わないようだ。
何か掟でもあるのかもしれない、と思いながら、一方では一度は乗ってみたいという好奇心にもかられていた。
しかし、四月はまだ日も浅く、西も東もわからない状態ではお世話されながら買い物に行くしかなかったのである。
安岡夫人は幸いにも買い物が大好きなようで、美沙の申し出を快く引き受け、グレーターカイラシュという少し高級そうな店が並ぶ地域に連れ出してくれた。
タクシーで30分ほどのところにあった。
住宅街から本道のような広い道に出たとたん、混沌という文字がぴったりなインドに出会う。
『混沌とした悠久の地・・インド』とはここに渡る前に様々なインドに関する本やガイドブックに見つけられた言葉だった。
混沌としている状態は正にこれである、と、タクシーの車窓から見られる世界を不思議な感覚で眺める美沙だった。
道路には車が一方向に何列も折り重なるような走りをするが、決して事故はおこっていない。
だが、小さめの乗用車はいわゆる日本の軽自動車で、スクーター、バイクもどういうわけか、人が三人以上乗っているのも少なくない。
バスは二階バスがあるが、人が外にぶら下がっているようなのも見える。
その合間を縫うように、使役動物として象やらくだが材木や荷物を運んで悠然と歩いている。
そして牛は道路脇ではあったが、のんびりと横たわっているのだ。
ヒンズー教の国であるここは、聞いていたとおり、牛を神の様に大切にしているようであった。
というより、そのまま自然のままにおいているようだった。
つづく
声援に感謝します。
小夏庵にも→☆
by akageno-ann | 2011-05-11 07:20 | 小説 | Trackback | Comments(0)