怜子(さとこ)の自立
北川怜子(さとこ)は大使館の医務官に相談をして、手術後の抗がん剤の注射を定期的に行っていた。
副作用で髪も抜けるというから鬘も用意して戻ってきていた。
実家のある高知を出るとき、父親が引き止めたくて、仕方が無いのに、それをふり払うようにインドに帰る準備をする怜子とは結局最後は口をきかずに終わった。
そのことが、ずっと心に突き刺さっていたので、怜子はこのデリーの家に落ち着いて、なんとかやれそうになった自分を詳しく手紙にしたためて送った。
『父上様・母上様
ご心配をおかけしながらの再渡航で、申し訳なく思っています。
インドは大変厳しい生活だと、表面上は思われるのですが、1年をここで過ごしてみますと意外に良い面がたくさんあることに気付きます。
それを詳しくお話して発てばよかったのですが、私の病状を心配してくださるお気持ちが痛いほどわかって、冷静に説明できず、無愛想に出発した私を許してください。
およそ9時間の機内でも、主人が事情を航空会社のデリー支店長に話しておいてくれましたので、とても寛ぎやすい場所を選んでおいてくれまして、スタッフもまめに声をかけてくれ、楽しい空の旅になりました。
デリーでは日本人会の結束がしっかりしていますので、私などのためにも、インドに帰ってくるということで大変歓迎してくれまして、丁重に扱っていただきました。
こういう経験も貴重なことと思っております。
何より、一人で3ヶ月頑張っていた主人は本当に大事にしてくれますし、
[お前はここにいてくれるだけでいい、]と言って、本当に食事作りもそうじもしない、優雅な暮らしをしています。
どうかご安心ください。
隣のような近い距離に新しい教員夫妻がみえて私より10も年下のようで、可愛らしく、よく訪ねてくれます。彼女の義理のお母さんが高知の出身と聞いて、運命のように感じ、仲良くしてもらってます。
お父さんが満州時代に感じたある意味で優雅であった暮らしがここにはあります。
以前はよくわからなかった使用人のいる家庭のよさ、あり難さをつくづくと感じるのです。
実家で療養中はお母さんに本当にお世話になりました。
怜子はそれなりに元気にしておるから・・と親戚の皆さんにもお伝えください。
私が癌を患ったことで、いろいろ噂にのぼっているのもここにいると忘れることができます。
不肖の娘とて、元気になればまた大使館の医務官の医師のお手伝いもでき、学校の保健係のような仕事もして少しはこのデリーの日本人会の役にたてます。
どうか、私がインドに行ったから癌になったとは思わないでください。
これは運命だと思っています。
そしてお父さん、お母さんもくれぐれもお体大切にしてください。あと二年しっかりここで暮らして元気に帰ります。』
これを読めば、頑固でマイペースの父とて納得してくれるはずであった。
そばにいれば、娘のその日の体調の変化がつぶさにわかり、見ている側も辛いことを、怜子はよく知っていた。
異国の地で使用人に傅かれて暮らしているという事実は満州で満人とよばれた中国人を手伝いや子守に使って暮らした幼少期を懐かしむ父には、怜子の話がうそでないこともまた理解できるはずだ。
なにより親戚などの柵は病気をすると、近くにいるだけうるさいし、煩わしいものであった。
今デリーにもどって、新しい人との出会いもあり、その優しさに触れることにできたことを大変に喜んでいる怜子であった。
怜子と美沙の交流は出会った日から、親しくなるべく時間がゆったりとつくられているようだった。
美沙に怜子を紹介してくれた安岡夫人はその年日本人会夫人部の役員になっていたので、4月当初からなにかと会合や食事会があって忙しくしていた。
闘病中の怜子のことも気がかりだが、昨年のようには一緒に行動できないことを、彼女なりに申し訳なく、また仕方なく感じていた。
そこへ入ってきた美沙は誠に好都合の代役をしてくれそうであった。
しかし初対面ですっかり気持ちが通じそうな怜子と美沙を見て、ほんの少し寂しい思いをしたのも偽らざる気持ちだった。
3年という、きめられた枠の中で親しくなる関係は、果たしてどこまで本当の友人になれるか・・そこのところはまだ安岡にもわからなかった。
ただ、昨年赴任したての頃、デリー生活の上での先輩格に
「いいですか、新人だからって遠慮することはないのです。先に来てる者がしっているのはここの暑さが思った以上に厳しく長いことと・・そういう暑さの中でどんな風に暮らせば楽しいかという術くらいなもんです。私たちは来年にはもうここにはいない。
だからこれからここに長く暮らすあなたたち新人の方がずっと偉いんですよ・・がんばって・」というエールをくれたとき、ものすごく嬉しく励まされた時の気持ちを今ここで思い出した。
そうなのだ、片山美沙の存在する新しいデリーの暮らしがまた安岡や北川怜子たちの暮らしにもきっと良い変化をもたらしてくれるだろうと、期待をすることにしていた。
それが本当の意味でデリーに彼女たちより長く住んでいる先輩としての姿になるだろうと考えていた。
そのことで新しい人々を心から迎え入れることになる、と思われたのである。
怜子と美沙は、そんな安岡の気持ちにいつの日か気付くこともあるのだが、今は二人の運命的な出会いに感動し、互いの距離をどんどんと近づけていくよう努力を始めていた。
つづく
声援に感謝します。
小夏庵にも→☆
by akageno-ann | 2011-05-15 23:51 | 小説 | Trackback | Comments(0)