もう一つの自立
片山翔一郎の母信子は高知生まれで、幼い頃は満州で生活したこともあり、終戦後の引揚者でもあった。
彼女の妹は満州で生まれている。その妹は高知で結婚して両親の傍でその面倒も見ながら暮らしてくれているのだ。
信子は夫の上京に伴い結婚後、翔一郎を産んで1年半後に上京し、はじめはアパート暮らしであったが、子供の成長に伴い、埼玉の今の家に落ち着いた。
夫も教育者で若い頃は講師として大学で教えていたが、最後は一応小さな短大の教授になって退職できた。
それから1年で夫はあっけなく病死してしまった。
当時は信子も小学校の教員をしていて溌剌としていたので、夫の病死も意外にしっかり受け止めて、まだ学生だった翔一郎を教員にしなければ、と張り切っていた。
翔一郎が教員になって、ホッとした信子は、まだ定年まで数年あったが、おりから早期退職優遇措置という多少退職金が多くなった時期に職を辞し、家庭でのんびり過ごす時間をもつことにした。
それは彼女にとってとても良い決断で、仕事に追われて家庭的なことを後回しにしていたが、いざ家に落ち着いてみると、その面白さに毎日が新しい刺激でいっぱいであった。
息子の新米教師としての会話にもかかわれて、心楽しい日々を送っていた。
翔一郎と美沙は大学時代の友人関係から長い付き合いを経て、結婚に至ったので、信子もその結婚には賛成であった。
中学校の国語の教師である美沙のことを支援するから一緒に住もうと・・・提案したのも信子だった。
しかし、どんなに互いに気遣っても、なさぬ仲というのは難しいものだと、同居2年目には互いに距離をおくようになってしまった。
それから淡々と過ごした3人の関係もこの翔一郎の突然の海外赴任で様相はがらりと変わり、気楽に一人暮らしを楽しみにしていた信子だったが、3日目には寂しさで精神が不安定になる自分に気付いていた。
60を過ぎて、健康に、とくに心臓に問題が出て来てから、一人暮らしの夜の不安は予想以上に大きいものだった。
食事も一人分は虚しい。
今からこれでは先が思いやられる、と気をひきしめたが、息子翔一郎のことより、嫁の美沙は自分をどんな風にみていたのか、と気になった。
彼女は今きっと羽を伸ばしているだろう。
考えてみると、翔一郎の身の回りのことにずい分当たり前のように手を出していた信子だった。
仕事をしている美沙に対して、最初から
「貴方は仕事中心でいいのよ。」と家事を殆ど取り上げてしまっていたことに、ここで初めて気付いたのだ。
もしそれが自分だったらどんなにか心を傷つけられ、もっと自分を押し出したであろう。
だが、美沙は大人しく従い、そしてそれは我慢していたのだ、と感じてきた。
遅い発見だった。
彼女に詫びの手紙を書こうと便箋にむかった。
『美沙さん、そちらの暮らしは如何ですか?
ずい分忙しい思いをしていたので、そちらについて疲れが出ていなければいいのにと思っています。
貴方にはずい分と気を遣っていただいて、一人の方が気楽よ・・などと今回のことでも、私の一人暮らしを心配してくださるあなたの気持ちに嘯いた私ですが、今、貴方の優しい気持ちに遅ればせながら、気付き、寂しさを感じています』
と、正直に書けた。そして結局この手紙にも
「翔一郎をよろしくお願いします」と我が子を頼んでいる愚かな母であることにも気付いていた。
三年後、二人が帰ってくるまでに、しっかりした人生を確立しておかねばならない、と信子はここで新たに気持ちを引き締めるのだった。
つづく
この小説は2007年から1年間掲載したものを再録しています。
声援に感謝します。
小夏庵にも→☆
by akageno-ann | 2011-05-19 07:11 | 小説 | Trackback | Comments(0)