メンサーブとしてのデビュー
なにがなんだか分からないうちに・・新しい生活は始まり、到着の翌日にはメンサーブとして使用人であるサーバントを使わなくてはならなかった。
便利といえば、便利だが、面倒なことも多いのもいたしかたない。
まずメインのサーバントは家族で住み込みとなる。
借家やワンフロアーだけを借りる間借りの家でも、日本人家族の住む家には必ずクオーターとよぶサーバントの為の部屋が隣接してた。
片山家の2階のフロアーの曲がりにも寝室の壁の向こうはサーバントのローズの一家の部屋であった。
だがその出入り口は区別されていて、いきなりドア一つで入ってこられないように表玄関の面した道路とは全く反対の裏側の露地に小さな入り口があって、隣の家との間に小道もなかったから・・2軒先の家の横を回って表道路に出て、きちんとブザーを押して入ってこなくてはならなかった。
その不便さから美沙たちはローズを信用して、合鍵を渡した。
それでも一応、いきなりは入らせず、ブザーで入室を知らせることにしていた。
ローズは朝7時に家に来て、10時まで家事をして、その後三時にまた戻ってくるという形にしていたので、自分の子育てにも時間が割け、ここは良い条件の家庭のほうであった。
まだコックとしての腕前ももっていなかったので、500ルピー(当時約5000円)の月給で雇えた。
夫は中心地のそこそこのホテルでコック見習いをしていたから、彼女たちのクラスとしては共働きでもまずまずの暮らしぶりだったようだ。
英語の能力は会話に関しては美沙とはトントンくらいで・・バイリンガルな頭脳があって彼女の方は日本語の単語をよく覚えていたようだ。
インドは10以上の方言というより、言語があり、北と南ではずい分と発音や意味も異なっていた。デリーには様々な土地から出稼ぎに入った者たちがそのままいついている。出稼ぎの家族は色々な家庭に仕えるサーバントを生業とする者もあり、語学に関しても書く事こそできなくても話すことに関してはなかなかの力を持っているものが多かった。
生活力の旺盛な人々が多いのだ。言葉それは彼らには一番の武器であるように感じられた。
ローズの出身も南インドということで、肌の色は黒々としていた。苦労したのか、努力家で新しいことを覚えようとする意欲があって、美沙を喜ばせた。
朝の水つくりに麦茶つくり、朝食の味噌汁と焼き魚、大根おろし、卵焼きは1週間で習得した。
水、これは日本人家庭が一番気を使う飲み水を煮沸して湯冷ましにし、さらに冷やして毎日作られた。
一番上手で日本人が舌をまくのは、天麩羅の揚げ方である。
パコラという似たような食べ物がインドにもあるせいだろうか?
カリッとさせて、揚げたてを食べさせてくれるようになり、客人へのもてなしにも立派に通用するまでになった。
それ以外にも掃除洗濯、アイロンかけを手際よく行っていた。
掃除は案内書のとおり、トイレ、下水、ゴミの処理はさらに下層と言われる人々に任せ、そのものたちにはまるで上司のように指示している姿があった。
階層の差は確かにあるのだが、だからと言って下層と言われる人々が飛び切り不幸、ということではなかった。
実に生き生きと生活する姿にも接することができたのだ。
美沙は一応サーバントを使いこなしている、という自負をもって、初めての地域別日本人婦人の会、『メンサーブ会』に出席した。
つづく
この小説は2007年から1年間掲載したものを再録しています。
声援に感謝します。
小夏庵にも→☆
by akageno-ann | 2011-05-24 14:53 | 小説 | Trackback | Comments(0)