サーバントの品格
デリーの暮らしに ここのサーバントたちの存在は欠かせず、最初ここでインドの人を初めて使わなくてはならないことに、日本人は臆する場合が多い。
しかし、到着後すぐに日本人家庭に滞在させてもらった美沙たち新人メンサーブ(マダム)は、このサーバントたちの威力を感じていた。
若い日本のメンサーブが、それほど堪能でない英語でもうまく使いこなしている姿を目の当たりにして、「使いこなす」という言葉にも多少の抵抗を感じながらも、やはり郷に入りては・・・の感覚を身につけようと思い始めていた。
現実は思っていたほど色々な問題がいきなり入り込んでくるわけでもなく、じわじわっと生活に慣れるようなのがわかって、少しほっとしていた。
しかし1ヶ月でメインのサーバントを切らねばならなかった、平田よう子は最初に大きな試練をくぐり抜けなければならなかった。
コック兼アヤという子守を引き受けてそつなくこなしていた、ミウリという女のサーバントは世話を焼きすぎて失敗した。
よう子が華奢で大人しそうな雰囲気だったことに乗じて、先んじて様々にデリーの暮らしを知らせようと進んだミウリの失敗ともいえる。
もう何年も何代も日本人家庭に仕えていた彼女は、慣れから来る雑さがあったのだ。
日本料理も何でも作れ、インドの材料で和食ができることから、他の家のメンサーブたちにも一目置かれ、時には偉そうに料理のレシピを教えたりしていたが、そうした他のメンサーブたちとやけに親しそうなのも、よう子には不愉快だった。
よう子は家庭生活が完璧に自分のものであることを好んだ。
サーバントも偉そうにするのでなく、傅いてくれる者を好んだ。
子供の躾にも他人からとやかく言われたくなかった。
娘は自分が手塩にかけて育ててきた。それを異国の人にいきなり
「めい子ちゃん、大人しすぎる、」だの「めいちゃん、外遊び必要!」と庭の砂場で遊ばせたり、まだここの衛生観念もわかっていないときから、彼女には過激な日々だった。
このままにしていて、子供の躾けの主導権を握られ、別な意味で甘やかされたりしたら本当に大変だ、と思ったのだ。
ミウリが解雇されたことはまことに噂が早く広がり、驚いたことに翌々日から、日本人の推薦状を持つインド人たちが「雇ってください。」と日に何度か面接を受けに勝手にやってくるのだった。
ここの新学期は他より夏の厳しい暑さが早く始まるために、5月末には夏休みに入る。
したがってその夏休みに入る前にはだれかをきめなくてはならなかった。
当初は世話係をしてくれた家のアヤが貸し出され、買い物と洗濯を手伝っていた。
よう子はその貸してもらった、リリという女が気に入っていた。
よう子は遠慮がちに、しかし強かに、
「ねえ、リリちゃん、今のおうちの先生が日本へ帰国したらうちに来てね」と頼んでいた。
しかしそれまでの1年をどうするか? これは重大な問題だった。
サーバントはメインの者は料理を受け持つクックと呼ばれた。
来客の多い家ではベアラーという給仕の者もいて、持て成し方を徹底的に仕込まれた者もあった。
アヤは子守りをしながら洗濯とダスティングという簡単なほこりおとしの掃除を行った。
アヤはメインのクックと家族の場合が多かった。同じ家に住み込んで働いていた。
チョキダールは門番として家の警備を行っている、二交替制をとり、終日門の傍にいた。
寒い季節はこれでもか・・というほどの厚着をして、小さな暖をとって夜通し警備をしていたが、それほどに治安が乱れていたわけではない。
いやもしかしたらこのチョキダールの存在こそが治安維持につながっていたのかもしれなかった。
そして何と言ってもかっこよかったのが、ドライバーである。
ドライバーつきで出かける夫(サーブ)たちはなかなかいい気分を味わっていたようだ。
昼間は時間の空いているときにまた自宅に車とドライバーは戻り、今度はメンサーブ奥様の買い物に付き合う。
行く場所の駐車場は良く心得ていて、奥様が買いものを終えてもどるとささっと車を側につけ、重い荷物を決して持たせるようなことはしなかった。
店からそこのボーイに持たせた荷物がそのまま車のトランクに納められ、家に戻ると部屋まで荷物を運ぶのがドライバーの役割だった。
不思議に眉目秀麗なインド人が多く、そのことがまたメーサーブたちの話題にのぼったりしていたものだ。
つづく
この小説は2007年から1年間掲載したものを再録しています。
声援に感謝します。
小夏庵にも→☆
by akageno-ann | 2011-05-31 19:21 | 小説 | Trackback | Comments(0)