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夏の風に酔うとき

もう一つの新人の悲しみは、夏休みに入って翌日から、デリーは出国ラッシュに沸いたことだった。

むろん全員帰国するわけではなく、半数以上の家族は夏のバカンスに国外へ脱出するのだ。

もちろんインド国内を見て周るのを楽しみにしている人々もいるが、殆どの日本人の過ごし方は

避暑を兼ねた日用品の買い物である。

日本食材しかりであった。

夏真っ盛りの日々までに冷蔵庫を空にして、しばし、デリーの家を空けることは最高の休養になりそうであった。

これもまた、みな密かに計画し、親しい人々にのみ告げて、深夜の空港を飛び立っていく。

インディラガンジー空港の夜半の出発搭乗口では日本人同士が軽い会話を交わしつつ飛行機へ乗り込む。

『あともう少しで別天地ですね・・・美味しい和食をいっぱい食べて来たいですなあ』

『どちらへ?うちはバンコクです。』

『我家はフランクフルトに飛びます。』

そんな会話をする人々の心は明るく軽快だったのだ。

新人教員たちは最初の6ヶ月をインド国外への旅行を禁じられていた。

文部省(現 文科省)からはかなりの拘束力があった。

来てみてわかる必要品の数々、もう一度日本で荷物をしたら、もっと違う荷造りになっていただろうと思いつつ・・まさに後の祭りである。

ここを出て健康管理休暇がとれるのは9月である。

果てしなく遠い日々だと新人たちは深くため息をついた。




美沙は陶芸を趣味にしていたので、日本の地元の窯元で月に一回土を捏ねて小さな皿や湯飲みを焼いてもらっていた。
その中で気に入りの皿を一枚持ってきた。

インドはジャイプール焼きというコバルトブルーを貴重にした花の文様を幾何学的に並べた美しい陶芸の技術がある。

写真でその皿を見たときに、インドへの興味が少しずつ湧いてきたのだった。

デリーの荷物にいれた大皿には白い釉薬で

『夏は夏の風に酔ひ』 とその陶芸の師匠の文字で描かれている。

『美沙さん、インドはね、私は二度ほど行ってますが、ちょっとやそっとで見渡せる国ではないですよ。熱風を体に直に受けながらジャイプールに車で行ったときのことを思い出しますが、あのように荒廃したような大地にどこでこのような美しい色合いが生まれてくるのか・・不思議でした。荒廃したような大地にあって、人間の美しいものへの執着はさらに深まるのですね。

大変なことはあるでしょう。でも人々が古代から生き抜いて文明を開いた場所ですから、奥深いその芸術の粋を少しでも探しだして触れてきてほしいと思います。
3年なんて、あっという間ですよ。帰ってきたら、そこで学んだことを陶庵に持ち込んでほしいです。』

美沙は芸術家には魅力のある土地らしいインドに思いを馳せながら

『先生、私はどんな暮らしをそこでしていくのかまだ見当がつきませんが、どうぞいらしてください。お待ちしてます』

と、語ったことを思い出していた。


そうだ、この夏のここの風に酔いしれながら、楽しんで暮らしてみよう、そう思えたのだった。

                                     つづく

追記
 
この小説は2007年から1年間掲載したものを再録しています。

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小夏庵にも→☆

by akageno-ann | 2011-06-09 17:45 | 小説 | Trackback | Comments(0)

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