「天皇の料理番」より
今年もお世話になりました。
振り返りつつ気ままに年の瀬の日記をしたためさせていただきます。
従妹のいる施設に届け物とご挨拶に伺いました。
大晦日の今日もデイサービスも全て行っていて、穏やかな時間がそこに
ありました。
かつて従妹が入所した頃は利用者の方たちは年末年始自宅に帰られていたので
新年に従妹に会いに行くと、どうぞどうぞとお節料理をご馳走になった年が
ありました。しかし翌年からは利用者は皆自宅に帰らず、施設で過ごす人が
殆どでした。そして施設に家族が訪ねてくるようになったのです。
利用者の方たちの意見はこうでした。ここの空調がよくて自宅は寒いし
不便に感じてしまって、早く戻りたくなったのだそうでした。
コロナ禍は余計に移動は控えなければならず、自宅には帰りにくくなっています。
今年の暮れは、私は静かにテレビを見ながらいます。
昨日は「天皇の料理番」と「ハコヅメ(交番女子)」を 大晦日は
「~料理番」と「孤独のグルメ」を見ながら早めの年越しそばを
いただいてます。
「天皇の料理番」は前に杉森久英氏の著書を読みましたが、映像にして
大変当時のことが詳しく表わされていて興味深いです。
明治 大正 昭和の時代を料理人として日本を背負っていた人の
生涯に触れることができました。
秋山徳蔵氏の当時のパリへの料理人修行の場面には
若い頃の留学というのは当時は本当に大変でしたでしょうけれど
得るものの大きさが桁違いですね。
主人は勤続30年の休暇に一人でニューヨークへ出かけましたが
帰ってきたときに、若い頃に行くべきだったと言ったひとことを
互いに思い出しました。
人は皆行き着くところは同じなのですが、そこまでの道程は
そして故郷の墓地に埋葬し故郷の親族に弔っていただきました。
その半年後に父はお世話になっていた施設から突然の下血があったので と、病院に転院し、妹が駆けつけてくれて、病状としては 大したこともなく、元気に妹に手を振ってくれたそうですが その2時間後に急変して本当に眠ったまま冷たくなった父に 私は会うことができました。
あまりの呆気ない父の死に、「お父さんらしい」とか 「お母さんが寂しくて呼んだのかしら」とか淡々と その死を受け入れた私たちでしたが、火葬の時に 突然哀しみがこみ上げてしまいました。
最後の2年間をあまり一緒に過ごしてあげられなかったので 申し訳なさもありました。
暮れと正月は実家には実家の仕来りのようなものがあって 松飾りやお節の準備の子とを思い出します。 今年はほぼ何もしませんが、それでも小さな輪飾りを どちらにも飾りました。
コロナ禍はまだまだ心配ですので、生活の仕方は変えていかねばなりませんが
70代も、前向きに進んで行くしかないようです。
本当に様々で、8年前の私の60才の誕生日の目前に同居して
35年の舅が静かに逝った日から、先輩、友人、叔父 両親
そして叔母と見送らせてもらいました。
このコロナ禍になって、あまり大きな葬儀をされる方は少なく
きちんとお別れをしていないこともありますが、いろいろな
ことを考えさせられました。
舅はずっと日常を共に過ごしましたから、その病状にも
様々に気づくこともできて、最後の一ヶ月だけを病院で過ごしましたし
近くの病院でしたので毎日、朝夕見舞えて今のコロナ禍に比べると
良い最後を迎えてくれたと思っています。
幸い今年春に逝った実母も同じ病院でしたので、同じように
安心して見送れました。コロナ禍で会うことは制限されましたが
それでも有り難かったのは病状を刻々と知らせてくださったことでした。
母は老衰で逝きました。前夜10時少し前に病院から連絡をもらい
「多分間もなくかと思いますので、お呼びしました」と
言っていただき、一旦家に帰りましたが、明け方の四時過ぎに
「いよいよです」と呼んでもらって臨終に立ち会えました。
こんなコロナ禍でしたのでその静かな母の最後を有り難く思いました。
午後はフォレスト・ガンプでやはり 「運命は決まっている」
という言葉に感銘を受けています。
新しい年に期待をします。
by akageno-ann | 2022-12-31 11:05 | 老育