母とジャムパン
4月12日はパンの記念日に寄せて
「パンの記念日」があるのですね。
母はご飯党だと思っていました。
私はご飯党で、子どもの頃から 母の作ってくれる食事で
どれほど明日への元気をもらったことか・・・・。
改めて思い出します。
一番味覚として思い出に残っているのが「五目のごま和え」でした。
祖母譲りの丁寧で綺麗な料理を作る人でした。
手抜き料理の多い私はどうしてもっと母の料理を受け継がなかったか?と
今更残念に思います。
主人の母も結婚する前に二度だけ会えただけなのですが、とても綺麗な
料理を作る人でした。
一度ご馳走になったのが「ワカサギのフライとマカロニグラタン」でした。
若くして亡くなった義母の味を私は踏襲することが出来ませんでしたが
二人の母の味をしっかりと覚えています。
そして昨年、実母の命日がこの4月12日になってしまいました。
母は晩年、本当にパンが好きでした。
84才を過ぎた頃から一才上の父が少しずつ料理をしなくなった母を
手助けするようになって、買い物もしてくれていたのですが
必ず苺ジャムをはさんだコッペパンを買ってきていました。
そして寝る前に食卓にそのパンを載せて眠るのです。
私が一日おきに泊まりに行くようになって、その理由がわかりました。
母が早朝5時くらいに起きて、一人でテレビを見るようになっていました。
その母の為のパンだったのです。
父が起きるまでお腹が空くと 母はそれを静かに食べていました。
私が泊まるようになって朝食を用意すると父はとても喜んでくれましたが
母はそのジャム付きのパンを少し食べておく朝の日課に満足していました。
母の一年祭の祭壇にもそのパンを備えました。
両親ともにずっと朝の連続テレビ小説を好んで見ていました。
それは第一作目の「娘と私」のときからかわりません。
今年四月にはじまった土佐の偉人牧野富太郎氏がモデルの「らんまん」を
見ながら、二人がいたらどんなにか喜んだでしょう・・・・。と
胸がキュンキュンします。
今日は療養中の従妹との面会でもこの「らんまん」の話でスタッフさんとも
盛り上がりました。「土佐弁がちょっと違う気がするね」と彼女も話しています。
「でも私たちもまた決して純正土佐弁ではないかもね」とも話しました。
彼女が脳内出血で倒れたとき、偶然にもリハビリの先生が土佐出身の方で
土佐弁で彼女を励ましてくださり、それがどれほど従妹のエネルギーになったかを
私は今も感謝しています。
故郷の言葉というのはそういう力があるのですね。
4月12日という何気ない日ですが、今日は母のこと従妹のことを思いました。
母の育てたベツレヘムの星という花
by akageno-ann | 2023-04-12 20:58 | エッセ- | Trackback