朝の公園で


その5
パパ・・私はお父さんと呼んでいたけれど、
病気になった日から父をパパと呼んでいた。
その日暑かった夏休みが終わろうとしていた八月の三十日、
父は二学期が始まる前の学校の準備出勤を終えて七時頃帰宅した。
夕食の前にシャワーを浴びる・・・それが日常だった。
その夜、父の浴びるシャワーの水音はずっと聞こえていた。
やがてガタガタというドアのきしむ音がして
「あ~~~~~~!」
と、いううめき声が聞こえたのだ。
それを最初に気づいたのは母だった。
母は父の日頃のカラスの行水のような入浴時間の短かさをよく知っていたから
台所に近い風呂場の様子を気にしながら、夕食の準備をしていたのだった。
発見が早いということがこれほどあとに大きく影響するとは驚いたのだが
おばあちゃんは、もっと早い、そう倒れる前に父の異変に気づくべきだった、と
今も悔やむことがある。
そうすれば父は社会復帰できるほどに回復したはずだった、というのだ。
その時、母は先ず風呂場で倒れた父の体を拭くのを私に手伝わせて、
祖母に救急車の要請をさせた。祖母は八十才に近い年齢だが、すごく冷静に電話していた。
救急車到着まで、母は人工呼吸をしていた。
それがまた父の命を救うことにつながったのだ。
あとで医師からそのことを言われていた。
父の治療は先ず詰まった血管を通過させる薬の投与が行われ、次に脳血管の手術
また高圧酸素室という機器に入って再び梗塞を起こさないように
治療が行われていたようだ。
しかし私にはあまりよくわからなかった。
医師の話を断片的に聞きながら
母たちも病院に任せるしかないと思いつつ、親戚などから言われた
「とにかく声をかけ、できる限り手足をさすってあげること」
を病院にいられる間行っていた。無我夢中だった。
母は
『貴方!貴方!』と呼び続け、私は
『お父さん、お父さん』と呼び続けていた。
何故か祖母は
『パパ、しっかりしなさい』と叱るように声をかけていた。
母は、病院に頼み込んで一週間ほどを泊り込んだ。
その間に学校は私も始まり、父の職場の学校の始業式も過ぎて時は流れていた。
祖母は私のための食事つくりをし、病院にタクシーを使って出かけていた。
私も学校を終えるとそのまま病院に行って、父を呼び続けた。
『パパ、頑張ってよ・・気がついて・・』
まだ朦朧としている父を一週間呼び続けるうちに、私は『パパ』と呼び始めていた。
多分祖母の影響だと思う。
つづく
by akageno-ann | 2024-05-24 16:55 | エッセ- | Trackback