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八重のドクダミ



今朝は四時半に夫の寝室から
ライン電話があり、体調が
悪いのか?と不安に思いつつ
出ると、「NHKで♪とりあえず、たまで♪
やってる」という親切な報告だった110.png


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テレビ画像です

そろそろ起きようかと思っていたので
とりあえずホッとして起床

すぐに二階のベランダに行くと
美しい朝焼けだった


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花壇の薔薇は咲いていてくれたが
パンジーは萎れていた



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ドクダミは少し残しておいて
菊やミントの緑の間から
白い可愛い花を覗かせていた


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八重のドクダミもある
増やすつもりはないけれど
それなりにドクダミの効用も
あると感じている

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お時間ある方はmoreの小説を読んでみてください

第1章 最終7話です  転載はご遠慮ください(_ _)  藤原沙也子







 第一章 最終 その7


私は平成生まれ、両親は昭和の戦後生まれだ。

祖母は大正の終わり頃に生まれたそうだ。

祖母のふるさとは高知県、でも若くして東京に出て、その後結婚してその近県の

S県に住んだ。祖母は定年まで小学校に勤めていたらしい。

祖父は定年退職後すぐに心臓発作で早逝した。


私は祖父をしらない。音楽が好きな人で当時の男の人には珍しく

ピアノやギターが上手だった、とよく親戚の人たちの話題になった。

父はおばあちゃん似で絵がうまい。歌わせれば歌も上手だった。


ただ病気してから、ちょっと音程が取りにくくなっていて、

私とよく小学唱歌を元気に歌う。それもリハビリなのだ。

一緒に歌わないと口があまり開かない。


最初さすがに私は照れたけれど、今は週に二度ほどいくリハビリの

施設の人と一緒に私も歌うことがある。

学校が休みだったリ、早く終わって迎えにいったりすると、

父はもちろんだが、

施設に来ている他の利用者の人たちも喜ぶ。

みんなここでの同じ境遇の人との交流を待っているんだと思った。


岡さんというおじいさんは、普段は怖い顔して結構文句を言っているのに、

私が行くとにこにこ笑うような感じがする。

スタッフの人もそう思っているのか、

「岡さん、理子ちゃんが来ましたよ」

と、決まって声をかけるのだ。

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私は片山理子といいます。

父は片山翔一郎、母は片山美沙です。

両親は私の生まれる前に三年間、インドで暮らしていました。

父がそこの日本人学校に勤めたからです。


でも私はその時のことをよく知りません。

最近になって、母がいろいろな思い出話を父にするのを聞いて、

少しずつわかるようになってきました。

とても面白い経験だったのだそうです。

父も最初はあまり反応しなかったり、

『僕は行ってない』なんて言ってたりしましたけど、

最近は随分母と笑いながら思い出話をするようになりました。

記憶がまた戻りつつあるようです。


不思議なことに父はその頃あまり絵を描かなかったらしく、

母は『今こそインドの絵を描いたら?』と奨めています。

私もその絵を見たいと思っています。

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父は今、自分の過去と現在をつなげるような作業を頭の中でしているのかもしれない。

でもあまり難しいことで悩むのは嫌みたいだ。

とても平和主義になった父のことを母はちょっと物足りないみたいだけれど、

「あれだけ、色々と前向きに頑張ってきたのだから、もしかしたらこれからは

こうしてゆっくりのペースで良いのかもしれないわね」

そんな風に母は言っていた。


私はこの両親の歩んできた軌跡に興味が出て来た。

                     第二章につづく



by akageno-ann | 2024-05-26 18:39 | エッセ- | Trackback