紫陽花忌

その5
父が倒れて、八ヶ月が過ぎた。
学校は春休みになり、四月から私は、中学二年生になる。
去年この私立学校に受かって、小学校を卒業した春の華やいだ空気に
包まれた頃と我が家の空気は全く違っている。
祖母がまず笑わなくなった。
ふっと哀しそうにうつむいていることが多いのだ。
買い物好きなのに、都心に出ることもめっきり減っていた。
どんよりと重い空気はいつまで続くのだろうと、
果てしない暗いトンネルに入ってしまったような感覚が女三人を覆っていた。
母の美沙は、それでもいつも淡々と日々を送っていた。
私に対しても、このごろは以前のように楽しく接してくれた。
見舞いの人々にも楽観的なものの言い方をして、時には談笑することもあった。
こういう母の感情が祖母には理解できなかったようだ。
『夫婦は他人というけど、そうなのかもしれない』
祖母はポツンとそんなことを私に聞こえるように言ったことがあった。
私を子供と扱っている祖母はそんな言葉で私がどんな反応をするのか
知りたかったのかもしれない。
私は自分でもわからないうちに少しずつ成長していたようだ。
そんな春休みに突然、一人の年配の男の人が見舞いにやってきた。
ちょうど、その日は母と私で父のリハビリにつきあって
ボール投げをしているところだった。
とても柔らかいボールで避けそこなった父に当たっても
殆ど痛くないようなものだったが、父は少し怖がっていた。
でも嬉しかったのは時々良いラリーが続くと父は笑っていた。
そう、父は笑うようになったのだ。
そのリハビリ室にその男の人が入って来た時、最初に気づいたのは母だった。
いつも冷静な母が、ボールを私に投げて、その人に駆け寄って行った。
「北川先生・・・・いらしてくださったんですか」
母は思わずその人の肩にすがるようにして泣いた。
周りのスタッフもちょっとびっくりしていた。
でも母は何も気にせずにそのまま泣いていたのだ。
北川先生という人をこの時、私は初めて会った人として認識した。
その時も父は、ただボールの投げあいを続けようとしていた。
つづく
by akageno-ann | 2024-06-01 04:33 | エッセ- | Trackback




