雨上がりには
その7 バリアフリー
翔一郎の自宅への退院はあと一ヶ月となった。
具体的になると、それは先ず家の構造を整えなくてはならない。
バリアフリーというのは敷居に段差がない、とか家の壁に手すりがついている、
とかいった単純なものと風呂場やトイレ、洗面台の改造という複雑なものが含まれる。
行政の補助を使うこともできるが、申請に審査、工事を請け負う工務店との打ち合わせと、
妻の美沙の心を煩わせることが次から次へと重なってきた。
家には翔一郎の母、信子がいるがこういう交渉ごとはいつも翔一郎がやるように
なっていたから、頭の切り替えができないようで、美沙が一人で行うことになった。
いくら補助金が出るといっても出費は大きい。
最初の工務店のとの話し合いにやってきた人があまりに様々なことにまで
バリアフリーを主張するので、美沙はふとインド時代のインド人との交渉を思い出した。
一見親切な強引さが、似ていたのだ。
始めは言われるままに聞いていたが、話が洗面台の下に敷かれた
クッションフロアを張り替える話になったときだった。
「洗面台を低くして新しい障害者用の洗面台をつけます。
そのときに下のフロアを剥がしますのでそのクッションフロアと同じものにこの床を変えます」
そう業者は美沙にずけずけと命令するように話していた。
美沙は静かな微笑を浮かべて、
「その計画はケアマネージャー(リハビリの全ての計画をたてる人)からの指導ですか?」
と、切り替えした。
「そうですよ、この際やっておかないと、患者さんが帰宅されてからすぐに困りますからね。」
と、殆ど意に介してしないようだ。
「しかし、工事費が嵩みますよね」
美沙は続けた。
業者はまだ自分より若そうな女主人の美沙を全く恐れることはなかった。
「あとでやるのは大変です・・今ならまとめて行政の補助を使えます」
と、当たり前のように応えた。
美沙は厳しい口調になっていた。
「ここのクッションフロアを全て変える理由はなんですか?」
業者はまるでなんて質問をするんだ・・というように
「だって柄が変わったら可笑しいでしょう」
美沙は切り替えして
「可笑しいとも思いませんし、そんなに古いクッションフロアでは
ないのだから品番から同じものが注文できるはずですよ」
と、さらに厳しい口調になった。業者は
「それじゃこれをやった工務店に連絡とって品番をちゃんと教えてください。
あればそれでやりますよ」
と、不快さをむき出しにした。
美沙は信子に頼んで茶菓の用意をしてもらい、ひと呼吸入れることにした。
業者はふてぶてしく出されたコーヒーを口にしたが、
信子の淹れたコーヒーの美味しさに一瞬息をのんだように見えた。
美沙はそこで話し始めた。
「私が生意気なことを申したかもしれませんが、主人の病気でこれまでに
何やかにやと出費が大きかったので、どうしても最小限の改造にしたいのです。
夫がこうなった今、人を呼ぶわけでもありませんから、
フロアの柄など我慢できるところで倹約したいのですよ」
業者も黙って聞いた。
「しかも、この家庭の中で暮らしながらできることをやっていくわけですから、
まだ洗面も一人ではできないのに彼の為に障害者用の洗面台にして、
育ち盛りの子供が腰をかがめて洗面したり洗髪したりするというのもおかしな話です。
洗面は私が支えながら別に洗面台を簡易に作ってする予定です」
業者は呆れ気味に
「そんな悠長なことではあとで大変ですよ。旧式ですよね」
美沙は笑って
「私たちインドでしばらく過ごしましたから結構旧式に慣れていて好きなんですよ。
あちらではお手伝いさんがいたので、私はしばらくそのお手伝いさんの
気持ちになってやってみたいのです」
そう心をこめて話した。
業者も初めて真顔になっていった。
つづく 小説の最初はこちらから☆☆☆
☆☆☆最近業者を装う詐欺の話を近所でも聞きます
デリーでは先ず交渉に時間をかけました。気を付けて暮らしたいです。
by akageno-ann | 2024-06-19 21:29 | エッセ- | Trackback