土佐路にて
その5
信子は賢一の親切な申し出を嬉しく感じていた。
結局結婚して関東に出てしまってから信子はこの
生まれ故郷土佐にもどることは許されなかった。
本当は自分の親の介護も少しは手伝うべきであったのに、
遠方であるということに甘えて、いつも遠来の客という
態度をとってしまっていた。
そのことが今度の息子翔一郎の病の介護を手伝うことに
なったときに、再び大きな後悔として心を襲った。
『人はやはり一人だけで、楽に暮らすということはできないのだ。』
そのことを思い知った気がしていた。
しかしまだ若い孫の理子にまでその大変な思いをさせる
ことになってしまったことが辛かった。
理子はこの久しぶりの高知を同行のメイ子と
屈託なく楽しんでいるように見えた。
親族が一堂に介するというのは大きなエネルギーを
もらえるのかもしれないとも感じていた。
美沙は懐かしいインド時代の友人北川怜子(さとこ)の家を
訪ねられることも今回の土佐旅行のメインに考えていた。
怜子はすでにこの世にないが、夫の北川氏はここで教職に就いている。
昨年翔一郎がこの病に倒れたことを知って、
はるばる東京の病院まで見舞いに来てくれたこと、
またその様子を在外で日本人学校に赴任している
平田氏に知らせてくれたのだ。
その繫がりが、今 平田メイ子がまるで家族のように
ここにいることに派生しているのだ、と感謝の思いを深くしていた。
家族は決して血のつながりだけではない、大きな絆によって
構成されるのだ、とも美沙は思いを強くし、
大好きな小説の「アン(赤毛のアン)」こそ、そのことを知らせて
くれた恩人のように思うのだった。
同じ病にかかる人が増えている時代に、自分の脳卒中発症の
日の朝の様子を克明に記している人もいる。
そして同じ病をぜひとも未然に防いでほしい、と
願い自分の症状を克明にブログなどに記録する人もいる。
それは翔一郎の発症の日の様子と重なる思いがあり、
美沙も記録していた。
普段と変わらぬ日常の中で共通な前触れがあったのは頭痛のようだった。
翔一郎の場合は夕刻七時過ぎの出来事だった。
翔一郎はその日以前からひどく神経質にイライラして
いたようにも思う。彼がシャワーを浴びていて、
うめき声があがったのを美沙が気づいたのだった。
夕食の準備を翔一郎の入浴後に合わせていたので、
風呂場の音に気を付けていたことが良かったのだ。
しかし日頃から夫の頭痛にもっと敏感に対処していたら、
と後悔はするが、せめて自宅で倒れてくれたことは幸いだった。
美沙は、病気というのはほんの少しのゆとりと心配りで防げたり、
早めの処置ですぐに快復できるものがあるのだと、
いろいろな情報を得ていた。
こうして発症してしまったことは致し方なく、
今後どのように家族や周りが対応していくかで、
病人の行く先は決まってしまう。
美沙は自分の後悔をきちんと踏まえて、親族や友人たちに
「その日は突然に訪れ、全く違う生活になってしまう」
という哀しみを味わうことのないように願い
語るようになっていたのだ。
つづく
※長文になりました。
ただこういう猛暑の夏の終わりに病気発症は
起りやすい、と聞いています。気を付けて暮らしたいです。※
by akageno-ann | 2024-08-24 17:37 | エッセ- | Trackback