海外にいる人たちへ
その3 孝之の記憶
旧満州時代は暮しも日本にいた頃より豊かで
家にはアップライトのピアノがあり、日本人の子どもたちが
父伸之から個人指導を受けていた。
その中には男の子もいて、まだ幼かった孝之も一
緒に習いたかったのだが傍で聞くことは許されていても
実際に指導をしてもらえなかった。
幼心に「なんだ、お父さんだって男なのに」と
思ったことをずっと覚えていた。
しかし熱心にその練習を聞いていたので耳のよかった孝之は
聞き覚えで伴奏をできるまでになっていた。
忠実に父の教えを守り、剣道 書道 そして勉学に励んだようだ
一番父親から褒められることが多かったのは俳句作りだった
小学校五年生の時、宿題の俳句で「停電やマッチマッチと大騒ぎ」など
川柳まがいのものを父にみてもらっていたが次第に
「かげろうの燃えて真昼の暑さかな」と
作句して褒められたことを自慢に俳句が好きになっていった。
575という短い文の中に思いを込めることの楽しさを覚えたのだった。
父伸之が俳句を好んでいたのは国道33号線の先に松山市があり
俳人正岡子規氏による俳句の世界が身近に感じられたのではと想像した。
「松山や秋より高き 天守閣」子規の短冊が実家に飾られていた。
しかし孝之の少年時代は駆け足で軍国時代に入っていった。
中学校に入学した頃初めて英語に触れたとき、実に新鮮な響きで耳に入ってきて
熱心に勉強し始めたら、間もなく敵性国語と称され禁止になってしまった。
中学時代の英語の先生は辞めざるを得ず、
その後どちらに行かれたかわからなくなった。
「A lion is not small.」を「ライオンは小さくない」と
訳したらその先生はわざと正解とせず
「君にはライオンは大きいと書いてほしかった」と
言われたことをずっと覚えていた。
満州医大へ進学して医師になることを夢見ていたが時代は
軍人にならざるを得ない風潮に変化していった。
つづく
by akageno-ann | 2024-09-20 06:52 | エッセ- | Trackback