横浜にて
その4 引揚げの記憶
孝之の仁淀川の記憶は幼い頃に親と一緒に里帰りして
「たかちゃん」と呼んで可愛がられたものだけだった。
それが終戦後満州から引揚げることになり15才の自分が
9才の弟満夫をともなって二人だけで京都の舞鶴港から出発し、
瀬戸内海を連絡船で渡り、満員の土讃線に長時間揺られ高知駅に
辿り着いた日のことを決して忘れることはなかった。
記憶は昭和21年6月 やっと来た日本への引き揚げの日に遡る。
実は母都遊子が体調を崩していて 引揚げるのを辞めようとしていたのだ。
しかし死期を感じたのか、その母が「日本に帰りたい」と希望し、
父伸之は決心した。
母は次第に歩くこともできなくなっていて 孝之と 満夫が
手製のリュックサックに入るだけの家族の財産を詰めて
伸之が都遊子を背負っての旅となった。
奉天という地から船の出る胡廬島まで無蓋列車に乗り、
雨露を毛布などで凌ぐという辛い旅になった。
9才の満夫はそれでも兄のあとを必死について頑張って歩いていた。
その情景を後年山崎豊子氏作の「大地の子」のテレビドラマを視ていたときに
急に胸に迫るものがあり、「互いに年をとったな」と
終戦の頃を懐かしむ長い電話をした。
「大地の子」での引き揚げは実に大変な状況下で子どもの生き別れがあり、
そのまま引揚げられなかった家族もあったのだ。
それを思うとこうして今、日本で家族を持って過ごしていることに
深く有り難みを改めて感じるのだった。
無蓋列車は時折の検問のために停車し、また亡くなる方もいて
その人を列車から降ろす音が暗い中で響き、
いつ自分たちもそうなるかもしれないという恐怖も感じていた。
2日かかって胡廬島に着き、リバティ号の出航を待っているうちに
母都遊子の容体は悪くなっていった。
つづく
by akageno-ann | 2024-09-22 18:46 | エッセ- | Trackback