吾亦紅 われもこう
吾亦紅 ワレモコウの花をみつけて
逝きしより時化のつのりて行く夕べ
孝之は16才で母を一人で看取り 後になってその時の気持ちを
俳句にした。
8月の四国を通り過ぎる台風の、病院の窓硝子を打ち付ける音に
怯えながら、母の亡くなったことをじんわりと哀しんでいた。
75才になった孝之は60年前の満州時代の自分を振り返りたくて
妻を伴って二人で旧満州の瀋陽に渡った.
母都遊子との想い出は全てそこにあったのだ。
母の病は腸結核であった。
今のようによい薬もなく 食欲がなくなって次第に痩せていってしまった。
父伸之の後悔は早くに帰国しておけば、ということであった。
結局第二次世界大戦の渦の中にこの家族も翻弄させられることになったのだ。
伸之の帰国後の落胆の大きさに皆が心配して3年ほどで後添えを迎えた。
その継母も孝之に大きな影響を与えてくれたが、丙午年の気性の
しっかりとした実母は自分の青春時代をしっかりと支えてくれた。
厳しかった父伸之に従いながらも周りの人々に優しい印象を
深く残していた。
当時の満州の中国人たちも貧しい人々が多くいて家で二人ほど
居候させて家事を手伝わせていた。
ただ終戦になってその人たちと離ればなれになったことが
孝之の心残りだった。
日本人も中国人も辛い時代であった。
そして60年後に旅して偶然にもかつて住んでいた文官屯を
訪れることができた。
その時のガイドのTさんが住宅地の近くを探してくれて、
そこにいた住民たちまで
「かつてここに日本人街があったよ」と一緒に喜んで
見つけてくれたとき、国境を越えた友愛を感じられた。
穏やかな中国への二人旅最終日であった。
つづく
by akageno-ann | 2024-10-02 18:52 | エッセ- | Trackback