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三回忌

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親しかったご近所の先輩主婦が急逝してちょうど2年がたった。
あの頃の短かった闘病生活を手伝わせていただいて
ご主人と想い出を共有することがある。

息子さんたちも健気な看病をされて、療養中も私たちに
感謝の気持ちをお顔で伝えてくださる方だった。

あの年もコロナ禍の暑い夏を頑張って通り抜けたところだった。

遅い芙蓉の花が今年も今美しく咲いた。
芙蓉の花のような透明感のある優しい人でした。


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ご近所の庭先のこの花も彼女を思わせる
コンテナガーデンを楽しんでいらした。

短期間の検査入院中に突然逝かれた。
その最後に私たちも同席させていただいた。

美しいお顔だった。


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丸2年はあっという間で、ご遺族も頑張っていられるが

寂しさは募るばかりである。

小説「仁淀川に帰す」は
第二章その4です。

お時間ありましたらmoreへ
またよろしくお願いします。






 その4 亡き母の思い


 孝之は亡き母「都遊子の名前」を改めて考えていた。

商家の一人娘でその祖父からも溺愛されていた彼女は

祖父が東京に出かけていたときに生まれて

その感動を名にしたらしい、と聞いていた。



都遊子もまたいつか東京に行ってみたい、と言う憧れがあり

息子たちにその夢を託して逝ったようにも思えた。


満州へ渡ったのも高知県から出たことのなかった人生に少しでも

豊かな見識を増やしてみたいと言う気持ちがあった。



意気揚々と家族で出かけ、はじめの頃こそ 高知では

味わったことのない特別な暮しがあったようだ。


当時の満州鉄道のアジア号にも乗って 

食堂車で食事する写真も後に大事に残っていた。

アジア号は今でいう新幹線のような憧れの列車だった。

ハルピン 大連を 特急として結んでいたらしい。


休日には満州で生まれた弟満夫も歩けるようになると 

よく家族旅行をした。


当時の日本人街で親しい日本人もたくさんいたが、

中国人とも良い関係を繋いでいた。


学校教育が次第に日本の軍国少年を育てるような方向に

進んでいたことは言うまでもなく、両親の心痛をよそに

孝之はすっかりと軍人を目指すようになっていたのだ。


しかし日本の本土に戻り、終戦後の混乱期の中でも

高知の山奥の暮しは比較的穏やかで、あくせくせずに

自分の将来を見つめることができた。


「教師になる、」ということには大きな信念があったのではなく、

成り行きに任せて、と言う方が正しいが、それでもこの時代は

真剣に生きて行こうという気構えがあった。


それも全て亡き母都遊子の祈りにも似た思いを引き継いでいたのだった。


                 つづく


by akageno-ann | 2024-10-14 14:07 | エッセ- | Trackback