ベルガモット

その8
「亜実の初恋だったのだな」
K氏を見送りに行った娘の後ろ姿をみながら孝之は妻にそう話した
母しのぶは亜実が中学時代にすでに初恋は終わっていると知っていたが
「そうですね」とだけ応えた
娘の恋に触れたのは父として初めてだったことは事実である
亜実は比較的素直に自分の感情を母親に見せる方であったから
K氏のことは初めて、結婚まで考えた相手として
心に刻んだであろう。
見送ることで恐らく彼女は自分の恋を終わらせようとしていたと
信じることができた。
追いかけたりするような子ではない、とわかっていた。
亜実は眠れぬ夜を過ごした
翌日は電車の窓際で移りゆく風景を見ながら
涙ぐんでしまったりしたが、教室で子どもたちと過ごしていると
何もなかったような気さへするのだった。
暗闇の中にあっても明けぬ夜はないと知っていた。
昨夜タクシーをつかまえるべく表通りにでたところで
「先生お幸せに、私先生のような素敵な人見つけますから」
と優等生的な言葉を述べて手を差し出し握手してもらった
その体温を深く感じ取ったのはKのほうであった。
亜実との交際を年齢差で許さなかった孝之への腹いせのように
かねてから交際を迫られていた女性と結婚することを決めたKは
実は母親が不治の病で余命宣告されてしまい、自分の結婚を急がねばと
思ったところが一番の理由だったのだ。
つづく
by akageno-ann | 2025-06-05 15:40 | エッセ- | Trackback





