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その3

平田よう子はその年の3月まで千葉県の教職員で船橋市内の公立小学校に勤務していた。

しかし、夫の在外教育施設派遣に伴い、インドのニューデリーに赴任するべく、仕事への思いを断ち切って退職をした。

この頃、夫婦で教員の者は、伴侶の在外派遣に伴って任地へ赴くとき、伴われる方は、退職と決まっていた。

よう子は子ども一人を保育園に預けてここまで頑張ってきた。
夫は誠実な先輩教員で、ここまで子育て家事共に分担して協力してやってきた。
瀟洒なテラスハウスの賃貸で、いずれは一戸建ての新築を買おうという夢もあった。

夫の平田久雄が
「海外の日本人学校へ行ってみないか?」と言い出したときは、

「え、そんなのあるの?どこの国?」と聞きながら、よう子はヨーロッパあたりの素敵な町で暮らせるならそれも良さそうだと、安易に考えていた。

仕事はきつくは無いが、夫からの提案で仕方なく仕事を辞めてついていく、というのも
これまでの自分のとってきた道とは全く異なることが、面白く、周囲の反応も楽しみだった。

そして初めての異国での主婦生活への憧れが夢のように広がっていった。
よう子は,久雄とあまり話し合うことも無く、夫が在外教育施設派へ応募しているのを黙認していた。

この制度は古く、昭和37年に国立大学付属小学校の教員1名がタイのバンコクの日本人学校に派遣されたことに始まる。

当時は外務省の外務公務員としての赴任で、臨時的な措置を取られていたが、やがて海外在留邦人の激増に伴い、文部省(現文科省)にゆだねられ、昭和60年台には、公立私立に勤める教員の応募によって試験選考が行われ、文部大臣の委嘱で、派遣されるようになった。

一次試験は県内選考だが、ほぼ書類審査で済み、所属学校長の推薦が必要である。

二次は文部省(現文科省)での論文と面接であった。

久雄は『在外教育に臨むに当たっての心構え』のような論文は卒なくこなし、
面接では『貴方は醤油などのすぐに手に入らない国でも暮らしていく自信はありますか?』
との、質問に、それまでの在外派遣経験者の知人からのアドバイスもあって「あります」とキッパリ応えたが、その時から、合格したい希望と、どこの国へでも赴かねばならぬという不安がない交ぜになってそれからの日々を過ごすことになった。

発表は受験した翌年1月、正月気分も抜けぬ松の内にあった。
その日、冬休み中の日直で出勤していた久雄に、内示の電話が入った。

「ニューデリー、印度です。派遣決定おめでとう。」

そのあとの言葉を全く覚えていないほど、その瞬間
久雄は頭をかなづちで不意打ちされたような衝撃をうけた。

まだやっと歩き始めた幼い子どもと、あのプライドの強いお洒落好きな妻を連れて、よりによって、印度へ派遣。その通知は愚かにも全く予測をしていない内容だったのだ。

妻にはなんと、話そう・・・そのことだけで強い頭痛に襲われるようであった。

つづく→☆

by akageno-ann | 2007-12-02 09:18 | 小説