アンのように生きる・・・(老育)

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かけがえのない日本の片隅からの発信をライフワークとして、今は老いていくにも楽しい時間を作り出すことを考えています。

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美沙はインドの暮らし方ばかりを必死で日本で情報集めをしていただけで、
このインドという国の歴史や今目の前にしている「タージマハル」という有名な遺産について
殆ど知識がないことに気付いた。

恥ずかしいことに、シャージャハンが愛した后の墓というだけで、ほぼ何も知らないのだ。
四大文明の一つが生まれたここインドの歴史で知っていることといえば、イギリス領土で
あったことと、マハトマガンジーなどによる、インドの独立であろうか・・

それとても詳しいことを調べたわけでもない。
ぼんやりつったってそのタージマハールを眺めていると、
一人の若いインド人が近づいてきて、英語で説明するから雇わないか、という。
このあたりにいつもいるガイドだ。
観光バスとはいえ車掌のような男は途中の休憩所で食事の世話をするだけで、ここではこういうガイドやみやげ物売りがたくさんいるのを知っているようで、ニコニコ笑って傍に入るだけだった。

いずれ誰かを案内人にしなくてはいつまでも誰かがつきまとうと、わかっていたから、その最初の男を雇った。

20ルピーということだった。

英語はいわゆるインド英語で、単語がはっきりわかるから、まあ内容の半分はわかっただろうか?

しかし、この日は雨が降ってきたのに蒸し暑い。
じめじめした空気が美しいはずのこの遺物を少し汚しているように感じられた。

「こうして水面にうつるタージマハルを見られた事はよかったですね。つい先日まで
水がなくここは沙漠のようでした。」そんな風に案内は始まった。

シャージャハーンというムガール帝国第五代の王が愛する后ムムターズ マハルという女性の若い死を悼んで建造した墓であった。

本当はこのヤムナ川という川をはんさんで、対面に、もう一つ黒い墓を王自身のために建造する予定だったという。

しかし、結果王は息子たちに幽閉されることになり、哀しい生涯を終えたのだ。

だが、その幽閉された城アグラ城はそのタージマハルを眺めるに絶好の場所であった。

壁にある無数の小さな穴にはインドの各地、また周辺の国から集められた宝石の数々が埋め込まれていた痕であった。

愚かな・・・と聞いている現代人は思うのだ。

「光り輝く宝石を埋めて、それがあっという間に盗まれてしまうことなど考えないのかしら・・」

よう子と美沙は呆れながらも、シャージャハンが妻ムムタールマハルを偲んで建てたというこの大きな墓を改めて眺めて、ため息をついた。

案内はいよいよ中へ入ってその棺を見せてくれるという。

すると、ボロをまとった男が下足番をしていて、そこで素足になれ、という。

雨で汚れた大理石の床、冷たくはないが、汚いではないか・・・

美沙は

「私入らなくていいわ、遥拝します。」といち早く辞退したが、

珍しく、よう子が

「美沙さん、一生に一回かもしれないもの入りましょう。」
と、誘ってきた。

美沙は、自分が引き気味であったことが、かえって、よう子の気持ちを逆にたきつけたことを感じていた。

しかたなく、入ることにしたが、素足を拒む人のために足のカバーが用意されていた。
麻布の汚れたような色合いのもので、ためらったが、素足よりはいいような気がしていた。

だが、そんなことは序の口だった。

地下室にあたる棺の部屋の匂いは、今までに嗅いだことのない、黴なのか、雨による湿気なのか、いや全てが入り混じった臭いがあった。

皆で顔を見合わせたが、神聖な場である。

神妙に、そしてなるべく息を止めて棺の前で敬虔な祈りを捧げた。

湿度は100パーセントにも感じられた。

今そこにシャージャハンとムムタールマハルの棺があった。

なにやらしきりに案内人は説明をしてくれていたが、何も言葉が理解できずに美沙は
そこを逃れるように地上への階段を登っていたのだ。

こんなに僻地に、そして少し厳しい状態で参拝する世界遺産は、そこにあった。

観光客の少ない時期であったために、かえってゆっくりとそこで時間はとられたのだった。

后ムムタールは37年の短い生涯に14人の出産をし、成長できたのは半分に満たない。

最後の子供の産褥がたたって、命を落としたと伝えられていた。

やがて、その中の皇子たちが権力争いをし、シャージャハンの後半生は子供によってアグラ城に幽閉されてしまうという、哀しい晩年になってしまったという。



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                                    写真 参考文献 byウイキペディア


つづく
# by akageno-ann | 2008-01-23 21:11 | 小説

シャージャハーンの思い

その白亜の東洋の偉大なる建造物は、意外にも小さく感じられた。

夏休みの終わり近く、平田文雄が片山翔一郎に旅行の誘いをかけてきた。

「片山さん、タージマハール見にいかない?家族と」

「あぁ、いいですねえ。一応インドの象徴ですから、見ておかないとね。」

「実は親戚が来るんです、8月に。いろいろ案内するのにやはり知っておかないとねえ。」

「そうそう、それに修学旅行がアグラだって言ってましたからね。去年までボンベイ(現ムンバイ)だったのに、飛行機で移動する旅を保護者が反対する気持ちはわかりますね。」

「う~~ん、あのカシミールの時の国内線に子供だけ乗せるって、うちもやはりできないと思いますよ。」

「そうですよね、平田先生のとこの一人娘の明子(めいこ)ちゃんをって考えただけでも不安になりますね。」

「多分ぼくは教員じゃなかったら、仕事休んでついていくでしょうね。その点ここで小学校を過ごすなら、まあ一緒にいけそうですがね。」

日本人学校は教員一家の子供たちも就学児童は当然、父親の勤める学校に入ることになり、時には授業を受けるようなことも止むを得なかった。
そのくらい狭い社会だったのだ。

ここではそれもまたその親子にとっては掛け替えのない思い出になる。

しかし、当時カルカッタ(現コルカタ)といういうもう一つのインドの都市の日本人学校は教員の子供の数が貴重な学校存続のための人員になっているという噂があった。

つまり、企業などの駐在員が単身や若い夫婦者が多く、子供が激減していた。

「カルカッタはやはりここよりさらに厳しい地域なんでしょうか?」

平田文雄は、声を落として続けた。

「まあうちのよう子も娘と二人で次第にここの生活に慣れてきていますし、今度くる親戚のことも大張り切りでベッドルームなどの準備をしています。ほっとしてますよ。デリーの暮らしも。」

「思ったより、言われたほどの不健康地ではなさそうですね。」

と、翔一郎も応えたが、一年を通してみないと正解は出せないようだ。

二人は同じ新人家族の山下家ももちろん誘ったが、

「えぇ、うちは今回はやめておきます。」とちょっと元気なく答えたのが二人にはひっかかった。

多分、夏休み始めのカシミール旅行での気まずさが奥方に残っているのだろう。

山下文子はかなり勝気で、3家族足並み揃えてという、流暢な行動はしたくなかったのだ。
山下氏は静かだが誠実な男で、この男三人はそれなりのバランスがとれて、親しくやっていた。

片山たちは奥方との心のすれ違いが残念であった。

さて夏休みの最終週はアグラのタージマハールへ二家族は観光バスで出発した。

バスは決してあたらしいとはいえない、いや汚く、古いというべきだった。

またしても平田よう子はちょっと顔をしかめたが、しかしすぐに気を取り直して娘とバスに乗り込み前から二列目の席を陣取った。

そのすぐ後ろに美沙と翔一郎はすわり、他に欧米人らしい観光客が数組一緒だった。

さすがに観光バスだ、インド人の客はいなかった。

それを特筆するべきだと思うほど、どこに行っても元気なインド人たちはうようよといて、活動していたのだ。

さて、そのバスは定刻8時半にデリーのコンノートプレイスのバス会社のロータリーを出発した。

はじめはそれでも時速キロメーターほどの速さで走っていたが、デリーの中心を抜け、ハイウエーとはいわないが、一本の校外の道路にでるやいなや、運転手の態度は激変、猛スピードで走り始めた。

それほど車の多い道ではないが、大小の車たちは恐ろしいほどスピードを上げ、けたたましいクラクションを鳴らす。

これは実に飛行機と同じくらいの恐怖があった。

日本の高速道路が急に恋しくなり、日本の安全性の高さが心をよぎり、タージマハールを見る事より、よう子や美沙は、日本への郷愁を感じながらの小旅行になってしまった。

日差しは暑い、日はどんどん高くなる、帽子もかぶって日除けのための万全の態勢でバスに乗っているのはこの日本人家族のみ、欧米人、特にヨーロッパの人々はこの太陽を思い切り浴びようと無防備だった。

そして一度の休憩をしただけで、四時間かかってアグラへ入った。

無事であった・・・・

そしてかなりこのスピード感と、おんぼろバスの座席の反動にも慣れてきていた。

一行がバスを降りると・・いたいた、お決まりのみやげ物売りの少年たち。
あどけない笑顔で寄ってきては、売りつける。
払いのけるのはまだ苦手で・・美沙たちは逃げるようにその場を去る。

執拗に追ったりはしない、潔い少年たち。

さて、いよいよタージマハールへ・・・心はさすがにこの世界に冠たる遺跡を見て、感動しようと
準備に入っている。


「え?」よう子が小さく叫ぶ・・・

「これ?」真似したわけではないが、美沙も小さく叫ぶ。

翔一郎はあっけらかんと言う

「名物にうまいものなし・・じゃなかった・・・期待はずれだなあ」

日本人は他にいないからまあいいか・・・と一同そこでうなづいてしまっていた。

幼い平田明子だけは

「タージマハール大きいねえ」  と覚えたての固有名詞を覚えていた。

そこに白くこじんまりとした、タージマハールがあった。

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 つづく
# by akageno-ann | 2008-01-22 21:28 | 小説 | Comments(16)

インドのピアノ

ズービンメータというインド人の有名な指揮者が活躍しているが、
あの彫りの深い顔立ちはまさにインドの美男子の一人に数えられると思われる。
彼はボンベイ出身で、父親もまたボンベイ交響楽団の創設者であり、指揮者であった。

そういう西洋音楽に精通した芸術家は少ないのかもしれなかった。
しかし、ピアノはあると聞いていた。c0155326_22175368.jpg

美沙はそれほどのピアノの名手ではないが、幼い頃から好きで続けていて、勤務していた中学校でも音楽の教員から便利がられて、合唱コンクールや行事のコーラスの伴奏をさせられていた。
独奏より伴奏することが好きで頼まれれば気軽に応じていた。

だから、もしここでも何かの役に立てばと、本来の専門である国語の教員免許より、ピアノで使われることを望んでいた。

だが、そう世の中は簡単ではない。そういうお声はなかなかかからなかったし、自分から宣伝するようなことでもなかった。

日本人学校の音楽室には日本から寄付があって、日本製のアップライトピアノがあった。

入学式卒業式は狭い学校の校庭にシャミアナテントというインド独特の大きな行事用テントが張られて、その中に電子式ピアノを持ち込み、日本の電圧に合う変圧器を利用して伴奏に使うなど苦労していた。

シャミアナテントは結婚式にも使われるほどポピュラーなもので、雨の少ないデリーには重宝なものだったのだ。


さて、片山翔一郎と美沙の夫婦はサーバントのローズに1時間ほどで帰る、と言い置いて
いよいよオールドデリーに繰り出した。

いつも使っているタクシーの運転手はシーク教徒のターバンを巻いた気の良いおじさんだったが、チャンドニーチョークの住所を示すと、ちょっとびっくりして、でも笑顔で頭を少しかしげて

「アッチャ ティーケ(OK)」

と、返事をして古いアンバサダーという、黒と黄色のツートンカラーのタクシーを発進させた。

ゴトゴトと音のするその車はメイン道路に出てスピードをあげると、ドアが落ちるのではないかと思うほど、きしんだが、牛も馬も、リキシャも二階建てバスも、3人乗りのスクーターも高級外車も、そしてそこを縫うように歩行者もいる道をためらいなく走るのであった。

美沙にはまったくどこを走っているのかわからなかった。
しかし、この運転手はこれまで利用したどの場合も決して間違えることはなかったし、親切であった。だから二人とも少しも不安ではなかった。

だが30分走っただろうか・・・・・

いつもたどり着くコンノートプレイスやハイアットリージェンシーなどのホテルではなく、
翔一郎が思わずうなって「これぞインドだな・・噂どおりの」・・・

と、呟いた賑やかでごちゃごちゃした、軒を連ねる店が掘っ立て小屋のような、そんな場所に到着していた。

運転手は道路というより、いわゆる道の向こうの破れたテントの屋根のある店を
『あんたたちが行きたいのはあの店だよ・・』といわんばかりに、大きく指さしてくれた。

美沙は目をみはって・・

「え?あそこのどこにピアノがあるの?」と叫んだ。

その前に一度美沙は先輩教員の妻とコンノートプレイスの所謂立派な楽器店で三台ほどのピアノを弾いて試していた。

そこにはとりあえずグランドピアノという代物もあった。

住んでいる家のフロアーは、自転車を乗り回せるほど広かったし、グランドが置けないわけでもなかったが・・・・

何しろ音が悪かったのである。

哀しいほど音程が悪く、その調律は至難の業だと素人にもわかるものだった。

そこにいた、デリー唯一の名手といわれる調律師もさすがに、お奨めではない、という顔をしていた。

だから今、美沙はここに立っているのである。

半ば諦め顔で、夫についてそのテントのような小屋に入って行った。

そのほんの間口1メートルほどの入り口の三メートルもないような奥行きの小屋の奥に
黒ではなく薄茶色のアップライトピアノがあった。

しかも思った以上にきれいな形で・・・・・・

少し訝しげな顔をしている男が、「グッドピアノ」と言っている。

ここのグッドは誠にあてにはならないことにも大分慣れた日本人になっていた。


美沙は恐る恐る音を出してみた。
チャンドニーチョークのチャンドニーは「月の光」という意味だと知っていたので、
ドビュッシーの「月の光」のさわりを弾きはじめた。

少しくぐもったような響きではあったが、音は悪くなく、何より今までで一番音程が揃っていた。

心の中でこのピアノに決めながら、ここのお約束の値段交渉があった。

だが、美沙は夫に目配せして、こう切り出した。

「私は貴方が奨めるピアノがとても気に入ったわ。でも1ヶ月300ルピーしか払えないの。」

それはおよそ日本円の3000円(当時)でかなりの高額であった。
若いサーバントを一人雇えるほどの値段といってもよかった。

その男はニヤリとして、

「マダムいいでしょう。でも前払い1ヶ月分と送料を上乗せしてください。」

と、言ってきた。

美沙は

「これは妥当な値段で、送料と調律を無料で付けてほしい。」ときっぱり言った。

翔一郎は妻が自分の知らないところでいつの間にインドの商売人とのやりとりに慣れてきたのかと、驚いていた。

その日、そのピアノは美沙に向こう3年間、借りられることに決まった。

つづく
# by akageno-ann | 2008-01-21 22:12 | 小説

オールドデリー

デリーはオールドデリーとニューデリーに地域や行政が分かれているという。

ニューデリーはかつてイギリス統治の元で、整備された町で、整然とした道路や町並みが作られていた。コンノートプレイスといわれる中心街はヨーロッパ調の白を基調とした、佇まいであった。
デリー新人の妻たちはまずこのあたりまでは外出して、初めてのジュエリーショップ見学などしてみるのだった。

平田よう子は一際お洒落だったので、宝石にも興味をもち、親切な店主の丁寧な応対にも満足して、時折店を覗く楽しみを持ち始めていた。
娘もいるので、宝石は代々引き継いでいけることもあり、心が愉しく踊っているようであった。

いささか汚さや、暑さにめげる町並みの中で、こうした光り輝く場面があるというのもなかなかに愉しいものだと、感じられたのならそれは幸せなことであった。

子供の幼稚園探しもしなくてはならないし、子育て中の母親としても町に繰り出す練習を随分としていた。

それは健気な努力だと、美沙は思っていた。

山下文子は、デリーの店や、家に入ってくる様々な商人たちと上手に渡り合い、値切ることも上手で、また美沙たちにその店を紹介したり、商人を回してきたりするようになっていた。

行商の商人は手刺繍のテーブルクロス、ベッドカバー、ランチョンマットのセットなどを持ち歩き、その場で買えるものもあれば、手のこんだものは予約注文して届けられたりするものであった。

手刺繍は鮮やかな色糸を使い、込み入った花の絵や、クリスマス用のヨーロッパ調のものまであり、初めて見る者を虜にした。

よくみると、白い布地は手垢で汚れている箇所もあるのだが、これだけの刺繍で、かつさして高価でないことが、買い手の気持ちを大らかにした。

そうやってそれぞれがこの地に足を踏み入れ、そして落ち着いていこうとしているのだった。

美沙は、さらっと全てにそれなりの興味を持ったが、まだ打ち込んでいくここでの生活の糧を見つけられずにいた。

昼間も子供がいないと暇で、だからといってそれほど出歩くわけでもなく、ヒンディ語の勉強でもしようと、日本から持ってきていた、カセットテープをきいたりしていたが、実はどの店に言っても独特のインド英語で生活できるので、次第にヒンディ語への興味が失せ始めていた。

だが、ピアノを趣味としていた美沙が船便に入れてきた楽譜を見て、

「そうだ、こんなに時間があるのだから、自主練習をしよう。ピアノを借りなくては・・」と
思い始めていた。

娘のいる、また小学校で音楽も教えていた平田よう子は日本から電子ピアノを持ち込んでいるのを知って、「さすがだ・・」と美沙は感じていた。

しかし、きっとここにもレンタルのピアノがあるはずだと、怜子や、同僚教師の妻たちに聞いてみた。

商社員の家で何軒か借りているという話を聞いて、そのうちの一人を怜子が紹介してくれて電話で問い合わせてくれた。

「美沙さん、どうやらオールドデリーに良いピアノが一台あるというのよ。住所を聞いたわ。」

「ありがとうございます。早速行ってみます。」

「いや、でもオールドデリーは一人は無理よ。私もちょっとまだしんどいからご主人と行きなさいね。」

と、アドバイスされた。

「オールドデリー・・・・そこはやっぱりすごいところなのですか?」

「そうね、インドはカルカッタが一番混沌としているとうけれど、デリーの中でもそのオールドデリーの中心地チャンドニーチョークはなかなかの場所よ。私も昨年1度しか行っていないけれど・・」

店はチャンドニーチョークの112番と書いてあった。

「タクシーの運転手に言えば、わかると思うわ。ただあまり綺麗な格好というよりは、きちんとしていて、地味な感じで行った方がいいわ。旅行者ぽいのは危険よ。」

美沙は、ドキドキしたが、とても好奇心が沸々と沸いてきた。

夫の帰りを待って、その夕方行こうと、きめていた。

夫たちは夏休みがあけて、通常の勤務に戻っていた。

まだまだ暑さは激しくそのための体力の消耗をみていると、簡単に出かけようとは言えない。

しかし、話をするだけはしよう、と心に決めた。


夕方、いつもどおりに戻った夫にさっそく話をした。

「今日というわけでなく、休みの日にでも・・・」という美沙の申し出に夫の翔一郎は興味をもった。

「いや、まだ日もあるし、オールドデリーは行きたかったから、早速行こう。」

と、いうことになった。

美沙は嬉しかった。住所を書いたカードを握り締めて、タクシーを呼んだ。

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                       オールドデリーの街角で

 つづく
# by akageno-ann | 2008-01-20 20:35 | 小説 | Comments(15)

街路を歩く

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美沙と怜子の二人の散歩は日課になった。
道行くインド人の老若男女とも随分知り合いができた。

ここは犬を飼っている家庭も多く、サーバントに連れられた飼い犬に出会うことも珍しくなかった。

怜子は実家に預けてきた柴犬のことを気にかけて随分と犬の話をしたものだった。

美沙は犬を飼った経験がないので、犬の種類やその習性について詳しい怜子の話が面白く、子供のいない家庭には犬がいてくれたら随分慰められるのではないか・・・とも思ったりした。

「でもね、美沙さん、犬を飼うって言うのは結構大変よ。長い旅には出られないし、こうして駐在にはなかなか連れてくるわけにもいかないし。」

「そうですよね。でも確か安岡さんのところには変わった犬がいましたね。」

と、同僚教員の家に毛がむくむくした、比較的大きな茶色い犬がいた、と思い出していた。

「あれはね、いわくつきな犬で友人の駐在員がこちらでみつけたラサプソという種類の犬だけど、最初は日本に連れ帰るって張り切っていたのに、結局安岡さんが引き受けたのよ。」

「飛行機に犬は貨物になるんですか?」

「えぇ、小型犬は日本の場合国際線では一機に一匹客室にケージ入りで乗せていいらしいのよ。でもねヨーロッパに行くと違うの。国内線からは降りてみるとたくさんの犬連れの乗客がいてね。ヨーロッパの人たちは犬を本当に生活の友と考えているから、しつけもしっかりされているみたいね。」

そんな風に何気ない会話をしながらのあっという間の30分の散歩が毎日続いた。

早朝は人通りも少なくて、静かな住宅街だがその30分の間に木陰にはアイロン屋が店を開き、炭火のアイロンでサリーやテーブルクロスをそこここの家庭から頼まれては綺麗にアイロンを当てられていた。

「サッチアレ~~」と綺麗なテナーで声を高らかに引き揚げながらリヤカーでやってくるのは
やおやだった。ヒンディでは野菜はサブジーというのだ、とサーバントのローズが教えてくれたが、美沙にはそうは聞こえてこなかった。

美沙の日本で住んでいた住宅街は高台にあって、マーケットが近くにないためかトラックの魚屋、八百屋の行商があり、どの光景はどこか共通点が感じられて、心なごんだ。

「こうしてインドに住んで散歩している自分がなんだか信じられません。」と美沙は感慨深く呟いた。

「夏休みの間は、皆日本人はここを離れているので付き合いも少ないから十分ここのこんな生活をゆっくり堪能しておくといいわ。そのうちなんだかんだと忙しくなってしまうのよ。」

怜子のこの言葉は何か遠くを見通したような響きがあった。

昨年の今はおそらくとても張り切ってここでの生活を始めたはずである。

看護婦の資格を大いに皆に喜ばれ、日本人学校の保健関係の仕事も随分こなした彼女だった。明るく溌剌とした性格は子供たちからも慕われて、大使館の医務官と組んで健康診断や予防接種などにも同行していた。

彼女が体に異変を感じたのは実は半年過ぎた9月だった。
月のものの出血が多くなり、体が重く感じられ、しかしこのような暑い慣れない場所であるからだ、と勝手に診断していたのだ。

だが、あまりの腰痛に耐え切れず、S病院を紹介されて女医に診断してもらった。
子宮筋腫であろうとのことだった。
禁酒があるのは実は日本にいた時から健康診断でわかっていたが、それが出血するようになるのは、あまり思わしくないことだと、専門的にわかっていた。

S病院は建物こそ古いがカトリック系のきちんとした病院で、日本の皆が怖がるような場所ではなかった。

ここで勇敢にも出産した日本人もいる。

入院中の食事は確かにカレーだが、きちんと暖かいものを持って来る。

そして看護婦たちがやさしいのである。

面白いのは薬は患者本人が薬局にお皿をもっていちいち取りに行くことだったが、そこでもやり取りがあって、楽しいものだった。

痛み止めと出血を抑える治療をしてもらって、2日ほどで退院し、怜子は日本への一時帰国を考えねばならなかったのだ。

しかし、赴任してすぐ・・という感じの日取りはどうしても怜子のプライドが許さず、夫にも大したことはない、と話していた。

だが、その後出た結果で癌の疑いも出て、それからの生活は不安と共に歩んできたのだった。

結局年が明けて1月半ばに怜子は帰国し、高知の病院で手術療養に入った。

残念ながら筋腫は悪性であった。

つづく
# by akageno-ann | 2008-01-19 18:09 | 小説 | Trackback | Comments(9)

マーケットにて

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日常は随分とここの生活に慣れてきた美沙は、住宅地の外れにあるマーケットは歩いて行くようになった。夕暮れの少し気温が低くなったときに。
ごくたまにではあったが、怜子もそれに伴うこともあった。

「看護婦をしていると、患者には少しでも歩くことを、気軽に薦めるけれど、こうして自分でしんどい体になってみると、歩くということがどれほどか面倒なことで、きついことだということが、わかったわ。」
と、少し、土佐弁訛りで話した。怜子は美沙が土佐出身の姑との同居のせいで土佐訛りがたまに混ざることを知って、遠慮なく土佐弁を使うようになっていた。
異国で日本の故郷の言葉を使えることはこんなに心が弾むことなのだ、と意外に思った。

東北出身者や関西出身の日本人はかなりいて、それぞれ同郷であることを喜び集い、特に関西の人たちはどこでも遠慮なく関西弁で話をする風潮があったが、独特な土佐弁はなんとなく出さずじまいでいた。

特に映画などで有名になった「なめたらあかんぜよ~」はちょっと任侠的に使われるというような印象も強くて、土佐弁は女言葉ではないのかなあ・・と寂しく思ったりしたのだ。

しかし美沙に言わせると、高知は気楽に土佐弁が使えるところで、イントネーションが可笑しいといって、なおしてくれたり、こんな言葉がある・・と面白い言葉を教えてくれたりして、義母の関係でたまに訪れるその高知の土佐弁に大変興味がある、と話していた。

「高知の大きな病院で働いていらしたの?」
「えぇ、個人病院としては大きい方だったわ。母も看護婦だったから小さい頃から自然にその方向に向かってしまって。父は幸せな人なのよ。母がしっかり健康管理してくれて。」

そんな自分たちのそれぞれの生い立ちなど話しながら20分ほどゆっくり歩くとマーケットについた。

彼女たちはそのマーケットのはじにある、掘っ立て小屋のような八百屋に寄るのだった。

ここは外国人も多く住む古い住宅地でその 八百屋には日ごろサーバントたちが買ってくる野菜とは異なるものがあった。

マンゴーも種類が豊富でなによりオレンジがおいしいものが手に入った。

美沙は何でも食べる健康体で、ここのマンゴーの美味しさに、すっかり虜になり、毎日朝な夕な食していた。

「いいわねえ、美沙さん。私は残念ながらかぶれちゃうのよ。」

美沙はびっくりした。

「え?これアレルギーあるのですか?」

「そうなの、私も食べてみるまで知らなかったけど、かなりのアクがあって、私の場合は食べたすぐ後から見る見る口の回りが赤くはれ上がって、サーバントがびっくりして、マダムダメだ絶対に食べてはいけないって、絶対に買ってこないのよ。」

ところ変われば・・いろいろな新事実があるものだと、美沙はあきれながら、毎日食べても平気だった自分に安堵するのだった。

そんなことを話しながら、それぞれが必要なものだけを少しずつかって、100ルピーを支払うと、少しのおつりとバナナをくれた。

「サンキュー マダム」

シーク教徒らしく、その売り手の男は立派なターバンを巻いていた。

 つづく
# by akageno-ann | 2008-01-18 15:34 | 小説 | Trackback | Comments(10)

怜子(さとこ)と美沙

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怜子(さとこ)と美沙は、互いにこのデリーでの暮らしの支えである相手の存在を意識し、特に病を得て、安静にしなければならない怜子は美沙との出会いを運命と感じていた。

美沙はまだ右も左もよくわからないままこのデリーの暮らしが始まってしまい、偶然夫の母と同郷の土佐人である怜子が近所に住んでいてくれたことで、どんなに心強かったことか言葉に言い表せないでいた。

どちらの性格がどうの、とかインスピレーションが合った、とかそういうことではなくて、これは明らかに運命だった。

怜子は、まだその心のうちを夫にも話していなかったが、癌の再発は必死であり、最初の手術もかなりの大手術だったので、傷の癒えもおそく、ましてこの気温の高さでは思うように回復しているとは思えないでした。

術後故郷高知ををインドに向けて再出発する日に、親が心配したとおり、また再びここへ病気再発で戻らなければならないのではないか・・という危惧はあった。

しかし、日本で病気の再発を心配して、夫と離れて療養生活をするなど、とても耐えられず、その引き止める両親の思いを振り切って、病院からの計らいで抗がん剤を持参し、大使館の医務官に頼んで、注射し、治療を続けてはいるが、これも長くそのまま引き伸ばしていくわけにもいかない。無理が生じたらまた帰国しなければならないだろう。

だが今はこの片山美沙という新しい隣人とのインド生活を楽しもう、と考えることができた。

その方が病気を忘れられる。幸いにして、美沙は発病前の怜子をしらないので、いかに病気によって、怜子が痩せて、不健康な状況であるかを口にすることはなかった。

日本人特有の気の回しようは時にひどく患者を傷つけるような言葉を吐かれることもあって、怜子は鬱陶しく感じることがあった。
持ち前の冗談で交わしてもそれすら強がりに聞こえるようで、ここは病人らしくじっとしていよう、と決めて読書三昧の日々だ。

怜子は外国の作家の推理小説が大好きで、特にイギリスには行って見たいと思っていた。
そんな何気ない会話も美沙は素直に参加して、自分の好きな本についても熱く語ってくれることが嬉しかった。

インドにいながら、二年目の怜子にとっては日常はあまりにも優雅にゆったりと流れ、こうして「赤毛のアン」流に言わせれば、腹心の友がいれば、決して辛い生活ではなかったのだ。

少し日記にでもこの生活を書いておきたいが、書くとなると非常に億劫になった。
しかしどうやら美沙は、中学校の国語の教師らしく、書くことが好きらしい。
その時、怜子は、自分のこの短いかも知れない一生、特にインドの自分を彼女に託そうと決めていたのだ。

 つづく
# by akageno-ann | 2008-01-17 10:32 | 小説 | Trackback | Comments(5)

インドを侮るなかれ

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インド駐在から帰国して20年がたちます。
この度 海外ブログインド情報に参加しました。

この内容は小説ですが、登場人物はフィクションでありながら、デリーでの生活は
実生活を元に書きました。

インドに赴任することが決まった夜の、衝撃と悲しみは人生の中で大きなものでしたが、
「そこでの経験は何物にも代えがたいもの」と先輩たちに言われ、励まされての赴任でした。

何も知らなかったインドについて俄勉強で渡りました。

第一日目から驚きは大きかったのですが、生活自体は決して悲惨なものではありませんでした。デリーの懐は広く大きく、異国の新参者を自然に受け入れてくれました。

旅行者ではなく、住宅街に住むこのうら若い日本人をさりげなく支えてくれていました。

戻ってすぐに懐かしくて戻りたくなったという気持ちも本当です。

しかし、酷暑といわれる夏のデリーの暮らしは確かに大変でした。

日本食を求めて国外に出ることも必要でした。

現在のインドはIT産業が盛んで、ずい分と近代化された国に評されますが、あの貧困の中にも必死で働く人々はおそらくそのままに国は富んでいるのだと想像します。

新しい車社会でもありながら、牛車もオート三輪のリキシャも、のんびり歩く牛もそのまま存在しているはずです。

その厳しい日常の中で、日本人駐在員の家族たちは明るく愉しく暮らそうと努力していました。

子供たちは日本人学校などで暑さと戦いながらもしっかりスポーツに学習に取り組みました。

その生活が、20年経った今でも、年とともに変化する生活環境の中で、力強く生きようとする源となってくれていることに気付きました。

様々な人間関係の中にもデリーならではのものが生きています。

日本の高齢化社会に直面して、介護することも、あのときのデリーでのサーバントたちとの暮らしが生きていると、感じることもあります。

デリーでともに頑張りながら、帰国して既に別の世界に旅立たれた人々もあります。

その人々との思い出は、また残された者の中にしっかりと息づいています。

この小説は「赤毛のアン」を愛した、二人の日本人女性の友情を元にデリーの生活を掘り起こそうとするものです。

インドの情報、インド人の生き方を深く感じ取った今、日本人が忘れかけている大切な生きる力を取り戻したいと願っています。

異国にいて初めて知る日本人としての自分、日本のあり方を考え続けています。

写真はデリーの街中で水を売る男と、壜に入ったメダカをうろうとしている男の様子を偶然捉えました。不思議な状況が多々ある中でインド人の逞しさも感じられます。

小説をどうぞお楽しみいただけますように・・・


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# by akageno-ann | 2008-01-16 16:26 | 番外編 | Comments(8)

お土産

「美沙さん・・どう?かたづいたかしら・・・」

夕方になって近所に住む北川怜子(さとこ)が船荷がついててんてこ舞いの美沙の家を訪ねてきた。

「どうぞ~~~このありさまですよ~~~~」

美沙はここに移り住んでから人々が気楽にやってきて、気楽に家にあげるのをとても愉しく思っていた。

日本では勤めていて、日中家にいることは少なかったが、たまの休みも忙しい家事に追われ、近所の人が尋ねるなど皆無だった。
一方姑の信子の方はかなり近所付き合いの良いほうで、昼間は互いを訪問しあってお茶など楽しんでいたようだ。

そうして会話することは年配者の暇つぶしと、思っていたが、なかなかどうしてこの関わりは大変に愉しく会話も実のあるものが多いと知ったのだ。

主婦の生活を知らなかった美沙は仕事にかまけて、意外な一般常識も知らないことが多いことを知った。

料理もクッキングスクールに通っていたので、いろいろ知っているつもりだったが、ここの日本の主婦たちは苦労して工夫して日本食を極めようとしている。

チャパティというここの主食のようなクレープと同じ薄い円形の食べ物を作る茶色の中力粉を使って、ビールで煉って糠床をつくり、野菜を漬けていたが、驚くほど糠漬けに近い味で、暑い夏の夜の酒のつまみとしても日本人の来客時に喜ばれていた。

貝割れ大根は種を持ち込んで台所で水耕栽培して、やはりさっぱりとしたサラダに使用している家庭があった。
とても大切にサーバントがその栽培を引き継いでいた。


「北川先生の奥様・・ご視察ありがとうございます。」

美沙はおどけて怜子を招じ入れた。

「あれまあ・・きれいにしてるじゃない・・」

美沙は片付け上手なので一箱ずつきちんと片付けながら船荷を解いていた。

「こうして開けてみると大したものが入っていないような気がしてくるのですけど・・」

「そうなの・・日本ではあんなに吟味していれたつもりなのに、でしょ?
私もそうだったわ。」

美沙は微笑んで、怜子に一つの包みを渡した。

「第二段のお土産です。」

その包みを開いて、怜子は胸が熱くなった。

そうしてその二人は心を分かち合っていたのだ。

箱の中身は怜子の故郷でもある高知の特産柚子ポン酢や柚子唐辛子のセットだった。

姑信子がデリーでのご近所付き合いに、と故郷から取り寄せて荷物に入れてくれたものだった。

さすがに年の功、付き合いの機微がわかっているな、とこのとき二人はそれぞれに思っていた。そういう支えにも援けられてここでの人間関係もつながっていくのだ、と美沙は強く感じた。

初めて、一家といってもささやかな二人の家庭だが、それでも美沙の家庭が築かれていくのだ、気持ちが引き締まるようであった。


 つづく

# by akageno-ann | 2008-01-15 22:19 | 小説 | Comments(4)

人足 (にんそく)

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船荷は各家庭に古いリヤカーや牛車で運ばれた。
「牛車はぎっしゃと読む」と高校生で源氏物語の試験で出たことを思い出しながら
その荷物を迎えた。

美沙の荷物は日本で使い古した冷凍冷蔵庫、同じくエアコン、洗濯機、カップボード、円形のダイニング五点セット、などを全て船荷にした。

その上に茶箱に衣類、米、乾物、缶詰、など重いものをしっかり詰め込んだはずだった・・
日本の手狭な部屋ではそれらが目いっぱいな感じで部屋をうめつくし、たしか大きめのダンボールばこ50箱に及ぶものがこのデリーの家に運び込まれても・・それほど多く感じられないのが心もとなかった。

だが冷蔵庫を二階のフロアにどうやって運ぶかというと、どこから集められたのか、あまりきれいとはいえない服装の人足という輩が数人雇われてきて運び入れるという。

かつて日本で引越し荷物を運びこむときに、あぶなっかしかった日本の若者とは違って、一人目の不自由な年寄りがいたことがこの時、一番の不安材料だった。

しかも大物の冷蔵庫を運ぶのに、彼の背中に容赦なくもたせ掛けて、他の人たちが支えて運ぶというのだ。美沙は思わず目を覆いたかった。

だがその下敷きになっている男はものすごく力があり、しかもものすごい力で支えてくれているのだ。

途中から不安は信頼に変わった。連れてきている理由もはっきりとわかり、インドの人々の働くということに対する真剣さを感じたほどであった。

そして全てが順調に小一時間かかってフロアに運ばれると、遠慮気味に支払いの金を待っている。

だが付き添ってくれた学校の事務のジョンさんは、『彼らには一人10ルピーでいい』という・・
「だって・・これだけ・・」と言おうとしたが、ジョンさんにはインドの相場はいつも教えられているので、黙って従った。

しかもその日本円で100円ほどの10ルピーというチップをそれは喜んでもらっていくのだ。
盲目の男も同じであった。

彼らは一日1ルピーにも足りない金額で生活しているというのだ。

インド恐るべし・・・・けっして侮れない国である、とその時感じた。


さて、皆が退散した後、ワクワクして一箱ずつあけるのであるが、それは確かにいろいろ入ってはいるのではあるが、衣類にいたっては・・・こんなに日本のものがひつようだったか?とすぐに疑問になった。

インドのパンジャビスーツもサリーもシルクであっても比較的買いやすかったのだ。
しかも夏の暑さの中では一番必要な普段着は夫婦共々短パンTシャツだったのだ。

衣類よりもっと日本食品だった・・とすでに後悔している美沙がいた。

しかし、母が言ってくれた、「日本のものが少しでもたくさんあれば心が和むでしょう」と

入れてくれた、人形や花瓶、和食器は確かにその瞬間から心を和ませてくれたのだ。

同じ頃、平田家もまた山下家も子供たちが歓声をあげながら、日本のお菓子やおもちゃを
開いた荷物から取り出していたのだ。


 つづく
# by akageno-ann | 2008-01-14 19:58 | 小説 | Comments(5)