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小休止・・日本人会

『アンのように生きる (インドにて)』の第1章が終わりました。

怜子と美沙の交流はこれからまた紆余曲折がありますが、悔いのない生き方をテーマに描いていきたいと思っています。

第2章を始める前に少し私のデリー経験を書いてみたいと思います。

既に当時から20年近くが過ぎていますので、かなり様子は変わっています。

一番大きな変化はやはりこのインターネットの発達です。

インドはご承知のとおりIT産業が目覚しく発達しているところですが、私のいた当時はまだ
その恩恵はなく、学校の教師たちは日本から持ち込んだワープロを駆使していましたし、
電話回線は悪くてブツブツ切れたり、時には『アンジ~』というヒンディ語の返事が割り込んでくるような混線があったりと、話題にことかきませんでした。

はじめはインドについて情報を収集するために行ったのは、現地に住んでいる日本人学校教員の家族への質問状のような手紙の交換でした。

一週間は有にかかりましたが、一生懸命書きました。

また応えの方も丁寧に書いて送ってくれたものです。

その先方の手紙の最後に必ずあった言葉は
「インドは何でもあります。ただ質が悪かったり、思ったようなものではないかもしれませんので自分の考えで必要と思われたものは持参されることがベターです。」
と、いうような言葉でした。

そしてそれは現実でした。例えば大きなやかんが必要だとします。

デリーの小間物屋さんにいけば大きなきちんとしたアルミの薬缶があります。

意気揚々と買ってかえり、早速使います。
1週間は何の問題もないのですが、まず付着物がこびりついてなかなかとれず、1ヶ月で
腐食する感じがありました。

ガラスのコップは呑み口の淵がフラットでないので、ちょっと危険だったりしました。
日本から持っていった普通のグラスの質の良さに驚かされたりしました。

しかし、今はそういう品々がかなりいいものになったと聞いています。

そして私がこのパソコンを通してこの物語を書き始め、様々な資料を集めつつサイトを開いているうちに、素晴らしいものに行き当たりました。

デリー日本人会のホームページです。

これには当時の私の質問の全てについて、微に入り細をうがつ形で応えられていました。

これからインドに渡られるという方がもしこのブログを読んでくださったら是非、覗いていただきたいと思えるサイトです。

http://www.delhi-nihonjinkai.com/

このホームページに書かれているように、商業目的での質問には答えられないとありますので、あくまでも生活のための参考資料にしてください。

デリーに渡るとき、
『大変なことは大変ですが、得るものは大きく、それは後になってわかります。』というデリー日本人学校教員だった大先輩の言葉を、はじめは気休めにしか聞こえないことがありましたが、
実にデリーでの暮らしはその後の自分の生き方に大きなエネルギーを与えてくれたことを
今しみじみと感じています。

エピソードは限りなくありますが、今回はお米の話をしたいと思います。

お米は当時日本人学校教員家族の分をなんとか安く手に入れようと考えてますと、ある企業の方の紹介でネパールに入植して日本米を作っていらっしゃる日本人家族を紹介してもらい、お米係を拝命した教員が一人でネパールに赴き輸送してくるというものでした。

詳しくはまた物語の中で書きたいと思いますが、そのための予約に春休みを利用してその次期お米係りの主人は一人でネパール旅行に出かけました。

その時の写真があります。

この長閑さの残る学校の下校時の様子にまだまだ発展途上と言われる国に残る素朴で美しいともいえる光景が映し出されています。

小休止・・日本人会_c0155326_21485835.jpg


学校の家族のために行ったこの一つの旅でさえも、大きな感動があったと主人は言います。

それから20年、まだ公立学校の教員をしている主人も、家庭にいる私もデリーでの暮らしの一つ一つを思い出し、貴重な経験というだけでなく、心を育ててもらった三年間だったと
感謝しつつ過ごしています。


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# by akageno-ann | 2008-02-19 22:03 | 番外編 | Comments(10)

小休止 河童さんのインド

いつもこの『アンのように生きる (インドにて)』をお読みいただき本当にありがとうございます。

私は20年ほど前にデリーというところで三年間暮らしました。
そこを拠点に当時のインド国内を旅したり、周辺国に健康管理休暇などと称して出かけたり、休暇でヨーロッパに出たりする機会を得ました。

半世紀以上を生きてきた中で、振り返るとインド前、インド後では自分の意識がかなりの範囲で変化していることに気づきました。

今までにいくつかインドの暮らしのエッセーは書きましたが、最近様々な思いが胸の中に過ぎっては消えずにそのままそこで、渦巻くようになりました。

書き始めると、どんどんその内容は膨らんでいって、完全な作り事ではないけれど、インドに赤毛のアンのような性格の人間が住んでいたら・・・という思いで綴っています。

主人公は美沙ですがその友人の怜子(さとこ)の生き方も主軸になっています。

暑いデリーの暮らしの中で私にとって日々励ましになったのが、アンシリーズの本たち。
インドの教則本になってくれたのが、妹尾河童氏の『河童の覗いたインド』(1985年新潮社刊)という単行本でした。

オレンジ色のカッパさん直筆風の活字印刷でない、まことに風合いのある本で、細やかなインドの暮らしや、遺跡、ホテル内の詳しい説明までイラストつきでかかれています。小休止 河童さんのインド_c0155326_17194841.jpg

後にも先にもこの本一冊で私はインド通になれると今も信じています。

私の父と同い年の河童さんですが、インドに対する興味と探究心は少年のようで、たった通産三ヶ月の旅の記録が・・インドをここまで我々に知らせてくれたのか・・と未だに驚きます。

インドをお知りになりたい方でまだ読んでいらっしゃらない方には必見の本だと思います。

文庫も出ているようですが、あまりに詳しい絵が見にくくなりますから、単行本をお奨めします。

私はデリーの暮らしの中で初めてサリーを着たときもこの本が参考になりました。
細やかなイラストがサリーをうまく着せてくれました。

今日は久しぶりにその本を読んでいます。まだなお新しい発見があり、わくわくしました。
これからまた訪れたい場所もあります。

今夜はもう少し私の独り言のようなこの記事にお付き合いいただこうかと・・思っています。

妹尾河童さんは昭和5年生まれでいらっしゃるから、今は喜寿77歳ですが、きっとお元気に活躍されていると思います。この方がこのインドを訪れたときが多分40代後半、そして連載を通して7年の歳月をかけて完成されています。
インドのことをここまで詳細にイラストで紹介するにはそれほどの時間がかかるというのもうなづけます。
単純にインドは混沌とした悠久な・・という言葉でよく形容さえますが、いったいどんな国なのかイメージは私にはわきません。
写真で広大な土地にタージマハールが聳えていて夕日が輝いていたりするのを見れば、そんな気もしますが、実際はもっと細かいところに目がいきますし、人々との触れ合いもはじめは楽しくても次第に面倒だったり、怒りがわいてきたり、でも結局可笑しくなったりするのです。

ここで鍛えられた精神はその後の様々な旅で役に立ちました。

今ふっと思い出したのは旅行で行った、スペインのマドリッドでした。
空港からタクシーでマドリッドの中心まで行きました。
初めてのスペインでしたし、スペイン語はまったくダメです。

しかし、まくしたてるタクシー運転手と同様にメーターの方もカチャカチャとあがって、案内書に書いてあった値段の二倍以上になってました。

そこで、私は言いました。

「あなたね、なに言ってるの、バカにしないで、日本からの観光客じゃないのよ!インドから来てるのよ!」と英語で・・いつの間に英語で喧嘩腰になる自分になっていたのか・・と自分でも驚きましたが、『ノン・ノン』しか言わない、彼に頭にきて、ちょうど通りかかったステキな中年紳士に

『援けていただきたい、不当な料金を言われました。』
と、お願いすると、彼は気持ちよく交渉に加わってくださり、運転手はあっさり半額にまけました。

主人は、「君の剣幕に驚いたのだろう・・』と、言いましたが、その紳士は

「こんなことでこの国を嫌いにならないで、いい旅をしてね。」と言ってくれました。

私はめちゃめちゃありがとう・・を申し上げて、笑顔で別れました。

そのことがそれからの旅にもとても役にたち、結局夫は大抵の場合、
「君が話した方がいいよ。」とホテルなども私が交渉するようになってしまったのです。

日本ではありえないことでした。


つづく

# by akageno-ann | 2008-02-06 17:00 | 番外編 | Comments(14)

インドを侮るなかれ

インドを侮るなかれ_c0155326_15585890.jpg

インド駐在から帰国して20年がたちます。
この度 海外ブログインド情報に参加しました。

この内容は小説ですが、登場人物はフィクションでありながら、デリーでの生活は
実生活を元に書きました。

インドに赴任することが決まった夜の、衝撃と悲しみは人生の中で大きなものでしたが、
「そこでの経験は何物にも代えがたいもの」と先輩たちに言われ、励まされての赴任でした。

何も知らなかったインドについて俄勉強で渡りました。

第一日目から驚きは大きかったのですが、生活自体は決して悲惨なものではありませんでした。デリーの懐は広く大きく、異国の新参者を自然に受け入れてくれました。

旅行者ではなく、住宅街に住むこのうら若い日本人をさりげなく支えてくれていました。

戻ってすぐに懐かしくて戻りたくなったという気持ちも本当です。

しかし、酷暑といわれる夏のデリーの暮らしは確かに大変でした。

日本食を求めて国外に出ることも必要でした。

現在のインドはIT産業が盛んで、ずい分と近代化された国に評されますが、あの貧困の中にも必死で働く人々はおそらくそのままに国は富んでいるのだと想像します。

新しい車社会でもありながら、牛車もオート三輪のリキシャも、のんびり歩く牛もそのまま存在しているはずです。

その厳しい日常の中で、日本人駐在員の家族たちは明るく愉しく暮らそうと努力していました。

子供たちは日本人学校などで暑さと戦いながらもしっかりスポーツに学習に取り組みました。

その生活が、20年経った今でも、年とともに変化する生活環境の中で、力強く生きようとする源となってくれていることに気付きました。

様々な人間関係の中にもデリーならではのものが生きています。

日本の高齢化社会に直面して、介護することも、あのときのデリーでのサーバントたちとの暮らしが生きていると、感じることもあります。

デリーでともに頑張りながら、帰国して既に別の世界に旅立たれた人々もあります。

その人々との思い出は、また残された者の中にしっかりと息づいています。

この小説は「赤毛のアン」を愛した、二人の日本人女性の友情を元にデリーの生活を掘り起こそうとするものです。

インドの情報、インド人の生き方を深く感じ取った今、日本人が忘れかけている大切な生きる力を取り戻したいと願っています。

異国にいて初めて知る日本人としての自分、日本のあり方を考え続けています。

写真はデリーの街中で水を売る男と、壜に入ったメダカをうろうとしている男の様子を偶然捉えました。不思議な状況が多々ある中でインド人の逞しさも感じられます。

小説をどうぞお楽しみいただけますように・・・


小説へ

# by akageno-ann | 2008-01-16 16:26 | 番外編 | Comments(8)

ビバ・・デリー  小休止

カシミールの話の途中ですが・・・今日は久々メチャメチャデリーを身近に感じてしまったので・・デリーのインド人とインド料理の話題です・・お付き合いください・・

友人が良いインド料理の店を探し当てた・・ということで案内してもらいました。

だいたい日本に戻ってからは、たまあ~~~にインド料理を付き合いで食べることはありましたが、わざわざインド料理レストランに出向くことは少ないのです・・・何故か??

それはまず高いからです。そしてインドの香辛料の香りが強くて帰りの電車の中でちょっと我が身の匂いが気になってしまいます。

赤坂の麻布警察署の隣にモティという本格的なインド料理のレストランがあり、味が本場ものというので行きましたが・・・本場過ぎて香辛料は強すぎるのです。

やはり日本の気候風土に合わせて供しないと、再度行こうという気持ちは失せます。
有名であるし、場所柄人々もたくさん利用するせいか、ほんの少し店の驕った気持ちを感じました。帰国後すぐに行きましたからそれから長いこと本当に懐かしいインド料理レストランにはなかなかお目にかかれず、そのうち自分も熱心に探すことをせず過ごしていました。

友人のお誘いは大分前からいただいていたのに・・ちょっと引き気味だったかもしれません。

しかし、今日そこへ仲間と集って感動しました。

先ず、昨日のうちに予約を電話で入れることにしました。

『明日のランチ予約できますか?』
電話の向こうはあきらかにインド人でしたが日本語で聞きました・・

『よやく??なんですか?』

『キャナ アイ リザベイション』

まったくいい加減な英語ですが・・

『オウ!リザベイション・・OK・OK』

という懐かしいデリー英語が帰ってきて・・・その時点で嬉しくなりました。

思わず主人に

「久しぶりにインド英語に出会えたわ」  と、話して、ものすごく楽しみになりました。

正直いうと、インド料理で予約が必要なほど人気はないはず・・しかも東京郊外です・・

と、思って本日行きました。

驚いたことに全てインド人スタッフでオーナーはニューデリー出身だということがわかりました。

しかもなかなかの絵画の名手です。なかなか親切で、日本に馴染もうとしている様子がいい感じです。

店の調度は正にインド・音楽もインド音楽です。

シタールも飾ってありました。

午後三時までランチタイムということで1時半という遅い集合でしたので行ったときは
ガラガラで「大丈夫」・・・どうぞどうぞと日本語もまあまあですが・・めちゃめちゃインド英語が通じます・・・文法もめちゃめちゃなのに・・なんだか平気でしゃべってしまう自分がいました。
インドの人は外国人にとても慣れています。フレンドリーです。

そうこうしているうちにお店にはアメリカ人も含めて入れ替わり立ち代りたくさんのお客さんが入ってきてバイキングを気楽に楽しんでます。

日ごろは友人が英語に堪能な人なので頼っているのですが今日はもうしゃべりたいのです・・
この感覚不思議でした。

インド料理はいろいろあるのですが、ランチの1200円のバイキングがなかなか美味しくすばらしく・・ナンもタンドリーチキンもチキンカレー、チャナカレー(ヒヨコ豆のカレー)キーマカレー(ひき肉)スープはチキンスープ・・サラダ・・これらは日本向きにしてありました。


日本向け・・これってすごく大事です。インドでは例えばあの酷暑の中で食べるカレー料理はかなり香辛料を強くする必要があります。そして辛いということも必須です。

しかし今日のカレーは『マイルド』という言葉に尽きました。

それはとても重要なことでした。この日本では上品な味・・は必要不可欠です。

それでいて、コクのある、良い味でした。

タンドールという特別の窯で焼いたナンは大変暖かくて美味しく、ご飯は日本米、タンドリーチキンは完璧なできでしたが、一口サイズ・・・日本人を知ってます。
あの鶏の大きな肉だけをたくさん食べない習性を・・

パコラというインド風天麩羅・・これは野菜をカレーと小麦粉をあわせた衣で揚げたものです。

ナンの横に、パパドゥというポテトチップの大判のようなパリパリとした食感のつまみもデリーから取り寄せているのでしょう・・

今日は車だから飲めませんが・・インドビアのキングフィッシャーのラベルに胸が熱くなりました。

ライスプディングというデザートは米の粉を使ったヨーグルトのような感触のものですが
様々な香辛料で味付けされています・・すごく不思議な味です・・友人たちは楽しんでいました・・・私はこれはダメなんです・・残念ですが・・・

でも美味しい紅茶で締めくくりました・・

主人に報告したら・・「明日いくぞ~~~」って言ってます。

今我家には思い切りニューデリーの空気が流れています。

明日はまたカシミールの続きです・・どうぞよろしく・・

 つづく

# by akageno-ann | 2008-01-05 21:36 | 番外編 | Comments(7)

夏を越えるまで 1

5月に本格的な暑さを迎えるデリーは半ば過ぎにはついに48度まで体験した。

日本人学校には日本同様百葉箱があり、そこに50度まで計れる日本製の温度計があった。
殆ど機能していないのでは・・・との危惧もあり、従来の人々は見ることはなかったが、平田久雄と片山翔一郎の新入り二人は酷暑を感じた昼間に・・日陰を選んでゆっくり壁伝いにそこまで言って、中の温度を確認した。その時メモリは48度を示していたという。

見たとたん・・・その場で眩暈を覚えた・・・と二人はその日一緒に片山家でスクールバスを降りて、その話題で一杯のビールを実に美味しそうに飲んだ。

「平田先生、よかったら一緒に食事しませんか?奥様とめい子ちゃんも呼びましょう。」そう翔一郎が誘い、美沙も同意した。

「いやあ、もう準備して待ってるでしょうし、ぼくはリキシャを使って帰ります。
よかった、これで気分転換できました。」

そういって平田久雄は片山家を辞した。ほんの20分の彼の休憩だった。

「奥様、まだあまり外出しないものね。先生気をつかっているのね。」

「そうだな・・あの人は本当に立派だよ。暑いとか、大変とか殆ど口にしないからね。子供たちにも優しく接しているし、すごくいい教員だよ。」

彼がオートリキシャという二人乗りの三輪タクシーみたいな乗り物にのって家路に急ぐをの見送りながらそう平田久雄を評した。

10分もたっただろうか? 電話がなった。

「平田です。ただ今はありがとう。実は今お宅に寄らせていただいて食事を誘ってくれた話を家内にしたら、是非一緒にしたい、と言い出して、よかったら我家へ来ませんか?」という誘いだった。

翔一郎の電話の受け答えを傍できいていた美沙はにこやかにOKサインを出していた。

大したものではないが、その日ご飯を炊いていたし、冷凍の烏賊を買ったので、細いが一応大根らしいものもあり、いか大根を煮つけていた。

醤油はまだ船便が届くまで大事に使っていたが、赴任のとき持ち込んだ日本酒も少しいれて丁寧に似てあったから、美味しくできあがっていた。

サーバントのローズに言って、買い置きの鶏肉で急いでから揚げを揚げさせた。

揚げ物は暑くても少しも嫌がらずに揚げてくれるローズを感心して美沙はみていた。

大蒜と生姜はカレー料理に欠かせないので、ローズはいつも買っておいてくれていた。

その日、鶏肉にそれらをすりおろしてまぶしておくことを教えると、ローズは珍しそうに、そして嬉しそうに覚えていた。

電話から20分ほどで、二人はオートリキシャにのって5分ほどの平田家に向かった。
住宅街の往来は比較的静かで、本道に近いところに行くとその便利なのりものはすぐに拾えたのだ。

平田家は、大きな3階建ての1階のフロアーを庭付きで、借りていた。古いが感じのいい家のつくりだった。玄関の呼び鈴をおすと、先ほどの平田久雄が短パンTシャツ姿で出迎えてくれた。

中から小さな明子(めいこ)ちゃんが大喜びで飛びついてきた。

日本人に飢えている、と感じられ、思わず美沙は抱きしめて、そのあと翔一郎がひょい、と

肩車にしたら。「キャッキャッ」とはしゃいで、喜んだ。


そのことが、よう子にはとても嬉しかったようで、その日改めて片山夫妻は平田夫妻と親交を深めていった。

 つづく

# by akageno-ann | 2007-12-31 18:01 | 小説 | Comments(2)